仲俣暁生『文学:ポストムラカミの日本文学』

全然内容と関係ない話から。
何故か仲俣暁生山形浩生の区別が付いていなかった時期が結構長く続いていた。
今まで仲俣の文はblogでしか読んだことがなくて、山形の文は山形が翻訳した本のあとがきを立ち読みしたり、彼のサイトを読んだことがあった。山形の文は結構癖がある。何というか、偉そうな口調をしている*1
で、仲俣も偉そうな口調をしている、という勘違いをずっとしていた。全くもって勘違いだった。


戦後日本文学・文化史のテキストと言っていい本*2
というのも、あくまでもW村上を中心にはしているものの、わりと丁寧に戦後日本の歴史を記述しているから。読みながら、紙に年表を書き起こしていったりして、戦後史を再整理することができた。
文芸評論であると同時に歴史書なんだ、と思ったんだけど、考えてみればそれは当然のことかもしれない。評論を書く、というのは、歴史を書く、ということなのかもしれない。つまり、評論というのは例えば「○○という作品は、△△の影響を受けていて、同じ△△の影響を受けた××より優れているが、◇◇より劣っている」というのを書くことで、それは△△→××、◇◇→○○という歴史を示していることでもある。どういう影響があるかという考察が、評論家の歴史観ということになるのだろう。あと、その影響関係を記述するのに、○○主義とか××派とか△△系という言葉が使われているのだろう。
ここでは、主義とか派という言葉を使う代わりに「ポップ文学」という言葉が使われている。つまりこの本は、ポップ文学史観に基づいた戦後日本文学史ということが出来る。
アメリカによる占領とかジョンレノン暗殺とかセゾン文化とか、そういった文学史以外の歴史の話も色々関係してくる。特に重要視されるのがプラザ合意


文学とか小説とかっていうのは、結局のところなんなんだろうか。
答えのでない問いであるかもしれないが、それに取り組もうとしている作品でもある。
明治期に「純文学」が作られたように、戦後期に「ポップ文学」が作られていった。
時代によって文学の目的はおそらく違って、「純文学」と「ポップ文学」の間には断絶*3がある。三島由紀夫中上健次によって「純文学」は途絶えてしまう*4。だから、それ以降文学は死んだ、などとも言われたりする。これは、手塚が死んでマンガがつまらなくなった、という言い方と同じなのかもしれない。それで、伊藤剛がいやいやまだマンガは面白いんだ、と『テヅカ・イズ・デッド』を書いた。
中上健次が死んで「純文学」という意味で面白いのはなくなったかもしれないけど、「ポップ文学」という意味なら面白い作品ならまだまだ沢山あるよ、と仲俣は言っているのだ*5
話がそれたついで。
「ポップ文学」というのは、「純文学」と「大衆文学」という区分をはなから意識していない。別に「大衆的」という意味で「ポップ」なわけではない。
これは「大衆文化」と「ポップカルチャー」の違いにも通じる。
ポップというのは、語源はpopularなんだろうけど、全然popularではない。
20世紀には大衆massという得体の知れない存在がいたんだけど、戦後になってこの存在は消えてしまう。消えてしまったあとに出てきたのがポップ。大衆は明らかにマジョリティであったのだけど、ポップは別にマジョリティではない。1ジャンル。


閑話休題、「ポップ文学」にとって、文学や小説というのは一体どういうものなのか。
それは、戦うこと。
何と戦うのか。それは実は人それぞれなのだけど、相手の一つには「暴力」がある。
「暴力」を如何にコントロールし、如何に付き合っていくか、というのは、戦後世界のテーマの一つだろう。文学はそこへのヒントを与えてくれる。
「暴力」と言っても色々あって、それは戦争かもしれないし、人間関係の中で生じる小競り合いかもしれないし、地震かもしれないし、テロかもしれないし、いじめかもしれないし、セックスかもしれないし……。
で、「暴力」と「セックス」というのは、文学にとっては基本も基本で、別にそれだけでは新味はないわけだけど、それを如何に軽やかに制御していくか、という点がポップ文学のポップさ。
というわけで、仲俣が「ポップ文学」の作家だと考える人たちが、一体どんな戦いをしてきたのか、各論が続いていく。
挙げられるのは、70年代の村上春樹村上龍、80年代の島田雅彦高橋源一郎、90年代の保坂和志阿部和重、同じく90年代はJ文学*6町田康赤坂真理堀江敏幸星野智幸吉田修一阪神大震災以後の高見広春黒田晶といったところである。
保坂は作家になる前に西武百貨店に勤務しており、阿部は映画学校出身、町田はもともとパンク歌手で、赤坂はインディペンデント雑誌の編集長で、堀江はフランス小説の翻訳家、星野は新聞記者を2年した後メキシコへ留学している。
赤坂、堀江、黒田を読んでみたい。
「ポップ文学」の特徴は、物語性の薄さも挙げられるかもしれない。例えば赤坂の皮膚感覚、堀江の純文章。保坂や吉田の日常描写。あるいは、高橋や阿倍の批評性。物語に抗することが、暴力に抗することとなっているようだ。
春樹も元々はそうだったのだろうが、ある時期から(たぶんねじまき鳥あたりから)物語を描くようになっているのかもしれない*7
逆に、物語や暴力に対して素直なのが、仲俣に批判されている「新宿系」であるところの花村萬月藤沢周ということなのか。
さて、赤坂と黒田を除き、仲俣は女性作家への言及を避けてきた。
かつて文学には、父と子という男性的な問題があって、女性は女性で別の問題があった。だが、最早そういうのはなくなっている。オンナコドモの共闘を目指そう、という。
最近仲俣はblogでこのように述べていた。

以前からずっと考えている『極西文学論』の続編は女の現代作家だけを論じる長編評論にしようと考えているのだが、「極西」を書くにあたって舞城王太郎が与えてくれた衝撃に近いものを、桜庭一樹の作品からは感じる。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20061214

極西はまだ読んでいないのだが、オンナコドモの共闘の可能性が桜庭一樹にある、というのにはすごく同意したい。
桜庭は2作しか読んでいないけれども、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は、明らかにある戦いなのだ。
暴力と物語に抗して戦っている、という意味では、(直接的だけど)佐藤友哉中原昌也を強く推す。
阿部和重の持つ暴力への批評性を、仲俣は「滑稽」と表すが、これは黒沢清にも見出すことが出来る*8
映画監督繋がりで、同じく暴力と物語に抗する、という意味では、是枝裕和も挙げることができるだろう*9


最後に、再び内容とは全然関係ない話。
ここには、過去の芥川賞の受賞作リストが載っているのだが、各作品の冒頭部と講評を読むことが出来る。
大江が、(当たり前だけど)若い若いと言われていて、何か面白かった。
芥川賞のリストを挙げたけれど、「ポップ文学」を見つけ出すのであれば、三島賞野間文芸新人賞文藝賞のリストを見た方がよい。

文学:ポスト・ムラカミの日本文学   カルチャー・スタディーズ

文学:ポスト・ムラカミの日本文学 カルチャー・スタディーズ

はまぞうの画像だと、紫色の帯がついてなくて少し残念。

*1:似たような癖は大塚英志の文にもあるが、個人的に大塚の文は受け入れられるのだが、山形の文は受け入れにくい。個人的な感覚の問題

*2:そう考えると佐藤可士和の装丁がテキストっぽく見えてこないか?こないか。佐藤可士和って何やっている人なのかググったら、INFOBARのデザイナーだったのね

*3:本当は軽々しく断絶と言ってはならないだろう。最近「連続」と「断続」に興味がある。簡単に言えばフーコーやクーンは「断続」説を唱えたわけだけど、実は「連続」面もあったりするわけで、そういうのが面白い。

*4:谷崎が最後だとかいう説もあるけど

*5:中上健次手塚治虫を、純文学に「マンガのモダン」を、ポップ文学に「マンガのポストモダン」を代入したら、伊藤剛になる気がしている

*6:『文藝』が仕掛けた名前らしい

*7:仲俣は明らかにそのことに対して否定的だ

*8:本来、阿部といったら青山真治だが、青山はちょっと難しくて分からない部分が多いのでパス

*9:森達也を挙げるかどうか迷った