複数性を束ねるもの

前回のエントリでは、「波状言論号外4号」を、「何だ、この「キャラクターズ」とかいう小説は?」で一蹴したのだけれど、まあちょっと真面目に受け止めてみる。
偉そうなことを言うならば、東浩紀と自分の対立点がもしかしたら見えてきたかもしれないのだ。
東から強い強い影響を受けているので、結局、根本的なところでは東と大体同じなのだけど。
その根本的なところというのは、「物語(世界)の複数性」みたいなこと。
で、この「複数性」を一体如何なる方向で処理すればいいのか、という点で、もしかすると東と自分は別の道を模索しているのではないか、と思った。
東は、「複数性」を繋ぎ止めるものとして「キャラ」を重視している。伊藤剛の用語法を採用するならば、「キャラクター」ではなくて「キャラ」の方だ。もっとも東は「キャラクター」という言い方をしているが*1
「物語の横断可能性」などと言っているが、要するに「キャラ」が「貫世界同定」を担いうる、ということなのだろうと思う。
つまり、「キャラ」がいることによって、「物語(世界)の複数性」はある程度束ねられる、ということだ。
一方自分の場合、「物語(世界)の複数性」を束ねるものとしては、むしろ作者とか読書といったものを想定しており、さらにいえば、その想定は間違っていると考えている。
つまり、一般的には作者や読者が世界の複数性を束ねる役割を持っていると思われているが、実はそうではないのではないか、ということだ*2
そして「物語(世界)の複数性」が解放されているような状況を探ろうとする。つまり、何らかの、複数性を束ねるものを想定せずにやっていけないだろうか、ということだ。
そして、『SelfReferenceENGINE』をまさにそのような試みとして読んだのである。
『SRE』に「キャラ」はいない。


何故だかはよく分からないが、僕はあまり「キャラ」を重視していないらしい。
二次創作に興味を持ったことが一度もないことからも、それは窺えると思う。僕はどうも、「キャラ」の魅力というのを、心の奥底からはよく理解していないのだろう。
それからもう一つ
「キャラ」による「貫世界同定」という理論を構築するのは、実は超むずいんじゃないだろうか、とも思っている。
まあそれができるならそれはそれでよし。

*1:東が何故「キャラ」ではなく「キャラクター」というのかは正直よく分からない。「伊藤剛とは違うのだよ」とでも言いたいのだろうか。伊藤剛と東の違いは、「キャラ」の本質的な条件として「図像であること」が含まれるか否かという点にあるだろう。そしてこれは意外と解きにくい重大な問題であるとも思う

*2:あ、ここまでは東と一緒か