斎藤環『文学の断層 セカイ・震災・キャラクター』

小説トリッパーでの連載をまとめて、加筆したもの。
トリッパーの連載もほぼ読んでいた。というか、自分がトリッパーを読んでいたのは、ほとんどこの斎藤環の連載を読むのが目的だった。トリッパーをチェックしていた時期と、これが連載されていた時期はちょうど重なっている。
かなり、時評的な色彩が強く、今となってはちょっとなあと思うところもあったりするが、逆に、今でもいけるだろうというところもある。
取り上げられる作品は、いわゆるファウスト系であったり、参照される論も、東、大塚、笠井といったあたりが中心なのだが、しかしそれ以外にも、『DeepLove』『いま、会いにゆきます』『電車男』を取り上げてみたり、『となり町戦争』『りはめより100倍怖ろしい』を取り上げてみたり、あるいはもっとそれ以外の作品(『メタボラ』や『悪人』、『ベルカ、吠えないのか』、『ニート』、『半島を出よ』など)が取り上げられていたりする。
また、東浩紀系ではあるが、佐藤心や渡邊大輔など、まだ一般的にはほとんど知られていない若手批評家などにも、積極的に言及している。
こうした横断性(?)は、それなりにすごいことなのではないか、と思う。


内容については、虚構の自律とそれを可能にする社会的・文化的状況の分析、というふうに一応まとめることができる。
第一章「キャラクター」はやはり、西尾維新によるキャラクター創作論と大塚英志によるそれが比較検討されていく。キャラクターを隠喩ではなく換喩と捉え、また西尾維新を「キャラクターの抽象表現主義」と呼ぶ。
第二章「棲み分ける「小説」」では、『DeepLove』『いま、会いにゆきます』『電車男』をあげ、それぞれをヤンキー文化、サブカル文化、オタク文化と対応させる。そしてこれらの作品と文化との間の、誤配なき受信、いわば文化が棲み分けられていて、閉じてしまっていることを論じている。
第三章「家族」では、江藤が成熟を妨げるものとして論じた母性が、今ではむしろ減じているのではないか、ということが論じられている。「母性」と「物語」の関係。
第四章「戦争とニート」というのは、何とも現在的なタイトルだが、この章の文章が書かれた当時はまだ赤木は登場しておらず、昨今のニートワーキングプア論壇もまだはっきりとは現れていなかった頃だ。ここでは、セカイ系と他者や成長について論じられている。
成長不可能性が、セカイ系カーニヴァル、「キャラ」と絡められていて、面白い。
そして第五章が「震災と文学」である。
阪神大震災が、この国のリアルやリアリティをいかに変えたのか。実際に被災した精神分析医の手記や、関東大震災の後に現れた新感覚派村上春樹の転向などをみながら、震災文学、震災サブカルチャーを探っていく。
これらの章はそれぞれ、それなりに独立しているので、これらを全てひっくるめてテーマはこれ、ということは難しい。既に述べたとおり、時評的な色彩も強い。
しかしやはり、虚構の自律やリアル、リアリティーを巡ったものとなっている。


ところで、『網状言論F改』において、斎藤は以下の2点に関して東に反論していた。
つまり、象徴界の衰弱というのはありえない(ありえるとしたら、その時にはあらゆる人が統合失調症になっている)ということと、集団的なトラウマ*1というのはありえないということだった。
前者に関して言えば、この本でもやはり同じ事を述べてはいるが、「中景」と言い直すことによってほとんど東の主張と同じ事を述べている。というか、この件に関しては、「中景」とか「中状況」とか呼べばいいところを、「象徴界」とか呼んでしまったことに問題があるような気がする。
後者に関して言えば、この震災文学論そのものが、震災によって直接の被災者以外もトラウマ的な影響を受けるということを前提にしている。その例として、玉音放送も挙げていたりする。


この本は、色々な斎藤環造語が出てきて、それもまた面白い。
元の連載のタイトルからして造語で「破瓜型病跡システム」という。
レピッシュサブカルチャー」「集合的表現」
「ヤンキー文化」「サブカル文化」「オタク文化」の三幅対
「誤受診可能性」「震災文学」「リアリティ的リアリズム」といったあたりか。
インパクトには欠けるが、「幻想破り」は結構重要なキーワードとなる。


文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

*1:終戦をトラウマとして捉えること