後藤和智『おまえが若者を語るな!』

これは、悪口が書いてある本である。
その相手は、主に宮台真司と、著者が「宮台学派」と呼ぶ人たちである*1
これは僕は、宇野常寛にも感じたことなのだが*2、よくもこんなに悪口を言うために、これだけ本を読めるなと思う*3
その一種の負のエネルギーはすごいな、と思う。
ただし、後藤の場合、何故そういうことをしているのか、という目的がわりとはっきりしているし、僕としては、後藤の抱えている問題意識というのは理解できているつもりだ*4
それでは、そこから翻ってみて、この本はその目的を達成しうるのか、ないしその問題意識を読者に理解してもらえるのか、というと実はなかなか疑わしいと思う。
上述したとおり、この本は悪口の本である。
悪口ばかりが書いてあって、あまり生産的ではないのである。
場合によっては、罵倒が芸風の芸人がまだ1人出てきたな、と思われて終わりかねない。
というわけで、今後、どれだけ生産的な、ないし後藤の目的にかなった仕事ができるのかに注目したいと思う。


後藤が憤っているのは多分こういうことである。
つまり、何の実証的なデータにも基づいていない、思い込みのような言説によって、政治が進行している(具体的には教育行政や少年法改正など)ことに対しての憤りである。
雇用問題にしてもそうで、彼が再三繰り返しているのは、その問題を解決するのに必要なのは、若者の実存やら何やらへの手当ではなくて、制度改革や景気対策といった何らかの具体的な政策である、ということだ。
「若者」をスケープゴートにたて、「若者」への批判を繰り返しても、社会問題は何も解決しないよ、ということである。
このこと自体は、全くもってその通りだと思う。


では、この本は何かというと、何のデータにも基づいていない、思い込みのような言説や、「若者」をスケープゴートにしているような言説を紹介し、それを批判している。
ただし、ではそのような言説に代わって、どのようなことをすれば、社会問題を解決できるのか、その具体的な身振りは、この本にはない。
もっとも、新書一冊にそこまで求めるものも酷なわけで、やはりそこは今後の仕事に期待したいと思っている*5
ちなみに、著者の経歴を見ると、現在、東北大で都市・建築学を専攻しているらしい。そういう都市論のことから、政策への介入を試みるということなのだろうか。それとも、「若者論」批判という仕事は、あくまでも副業的なものなのだろうか。


さて、ではこの本が批判している「若者論」とは一体どういうものか。
それは、レジーム先行型、ということである。
つまり、論者の中に何らかの枠組がまずある。そして、その枠組に基づいて、あらゆる現象を説明している。しかし、何故その枠組が採用されたのか、何故その枠組が有効なのか、そういうことについての説明は一切なされていない、というものである。
宮台であれば「脱社会的存在」であるし、香山リカであれば「解離」や「ぶちナショナリズム」であるし、三浦展であれば「ファスト風土化」であるし、東浩紀であれば「動物化」や「ポストモダン化」であるし、鈴木謙介であれば「宿命論的な人生観」であるし、寺脇研であれば「成熟社会」であるし、といったところである。
とにかくまず先に、そういった(思いつきに過ぎない)概念があって、その概念が全く実証されていない。それが、著者の批判する「若者論」である*6
また、結局そのような議論は、その概念を理解ないし丸呑みしてくれるような、内輪の中でしか通用しないのではないか、論壇の島宇宙化というものを進行させている原因ではないか、とも述べている。


ところが、この本自体が、「証拠がない」「データがない」「思い込みに過ぎない」「分析がなってない」と繰り返すばかりであって、他の証拠や、他の分析データをそれほど多くは示していない(ないわけではない。いくつかは資料が載っている)。
これは、槍玉に挙げている論者の数が多すぎて、1人1人の分析に関しては、それほど紙面を割くことができなかったのだと思う。
紙面の制限のない、彼のブログの方は、もっと徹底的にやっているという印象がある*7


著者によるこうした批判は、かなりクリティカルなものだろう。
しかし一方で、彼の批判がどこまでクリティカルかどうか、何ともいえない部分もある。
東浩紀への批判である。
というか、そもそも『動物化するポストモダン』をはじめとする、東浩紀の仕事って一体何だったのか、ということである。
著者は、『動ポモ』を「若者論」であるとして、そこで繰り広げられる言説の根拠のなさを批判しているのだが、そもそも『動ポモ』は「若者論」だったのか。いや、「若者論」ではあるにしろ、そこから何か政策に働きかけるようなものだったのだろうか。
後藤の問題意識というのに遡るのであれば、データがない思いつきに基づいて政治が行われることを問題視している。その点で、実際に政策への働きかけを行っている宮台真司などを、槍玉に挙げることは理解できるとして、基本的に現実の政治への興味関心をほとんど有していないであろう東浩紀は、どうなのだろうか*8
もっとも、「動物化」というタームが、「若者」を論じるのに使いやすいツールとなってしまったことは事実であり、その点で、『動ポモ』が与えてしまった影響は確かにある。
そもそも、『動ポモ』のような仕事において、証拠なり実証なりということは、どれだけの必要性を持っているのだろうか。
現在『文學界』で連載されている東のコラムなどを読むと分かるが、彼にとって、批評というのは一種の妄想であるわけである。
確かに、後藤がいうところの、証拠もデータもない思いつきだけの話をしているだけに過ぎない。ところが、そのような話が、何かを説明しているように思われていた時期があったのである*9。今では、そのように思われることはほとんどなくなってきていて、論壇は、お互いの話が理解できる同士で、内輪化・島宇宙化してしまっているわけである。
もしかすると、東と後藤の問題意識は似ているかもしれない。
ただし、その状況を解決する手段として、考えていることはそれぞれに違うわけである。
後藤はあくまでも、データ、実証を重視する。
それに対して、東は、いわばSF的な、思考実験的な、そういう言説の可能性を考えている。
後藤は、東のギートステイトまでもを槍玉に挙げて、データに基づかない、典型的な「若者論」の形式を踏襲した未来予測である、と一蹴する。
しかし、そもそも東は、それこそSFを書いているのであって、SFに対して実証的ではないと指摘することが、一体どこまでクリティカルな反論となるのだろうか。


そもそも、社会の現象を説明したり批評したりする、というのは一体どういう手続によってなされるものなのだろうか。
僕は決して、後藤がいうような、科学的・実証的手続が無効だとは思わない。
これまで、そのような手続があまりにも軽視されてきたのであれば、それはやはり問題であり、今後、そのような手続を踏むことは重要になるだろうし、重要にならないと困る。
だが、後藤が全くその有効性を認めない、レジーム先行型の議論は、本当に全くの出鱈目であり、無効なのだろうか。
もし本当に無効なのだとしたら、そもそもこの類の批評というのは一体何だったのだろうか*10
つまり、「若者論」が明らかにおかしいのであるとしたら、何故そのようなおかしい言説が、かようにも力を持ってしまったのか、ということである。
その分析がない限り、後藤は勝つことができない。


ところで、槍玉に挙げられている本の中には、結構新書が多かった印象がある*11
最近の新書バブルなりなんなりが、稚拙な議論をばらまく要因の一つにはなっていないか。
香山リカなんか、仕事が増えることによって、仕事が「劣化」していったのではないか。
そういう疑問も持った。
この本は、角川oneテーマ21という新書レーベルから出ている。
表紙には、「後藤和智 「若者論」研究者」とあって、何だかこういう肩書きを書いてしまうあたりに、胡散臭さを感じてしまうw
このレーベルから出ている既刊リストを眺めても、なかなか怪しげな感じがしないでもないw *12

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

*1:ただし、直接的な宮台の教え子以外も含む、かなり広範なもの。また、この本では、三浦展など宮台とはあまり関係ない人もまた対象となっている

*2:ちなみに、この本では宇野もまたやり玉に挙げられている。まあまさに、「宮台学派」だしなあ

*3:あるいは、朝日を叩くために朝日を読む2ちゃんねらーなんかも同じか

*4:その点、宇野が何をしたいのかは僕にはよく分からない

*5:未読なので何ともいえないのだけど、もしかして『「ニート」って言うな!』はそういう話をしていたのだろうか

*6:ちなみに著者は、データの調査を行っている初期の宮台に関しては、むしろ評価しているようである。

*7:といっても僕自身、彼のブログはそれほど熱心に読んだことがないので、印象論にすぎないのだが

*8:後藤は、東が『論座』で天皇制をテーマに対談を行っていることを挙げているが、この対談は、東が「感想」を言うに終わっており、そしてそのこと自身を東自身が理解していて、何でそんなこと俺に聞くの、と戸惑っているものになっていて、東が政治や天皇制について積極的に発言するようになったことの証拠となるかどうかは疑わしいと思う

*9:これは、後藤が指摘する、若者論によって失われた10年である90年代を指すわけではなく、さらにもっと昔の話である

*10:思えばこのような問いは、東浩紀ポストモダン思想に対して繰り返し問うてきた問いではなかったか

*11:これまた印象論であって申し訳ないが

*12:対談本が多い感じがする。ざっと眺めただけで、茂木・養老対談、島田伸助・東国原対談、土井たか子・佐高対談、香山・辛淑玉対談などがある(対談だから中身がインチキだ、とまでは言わないけれど、手抜きじゃないのと思ってしまったりはするよね)。『こころの格差社会』とか『バカ親って言うな!』とか『監視カメラは何を見ているのか』とかいうのも、怪しそうである(タイトルだけで判断しています。内容は読んでないので、本当に怪しいかどうかはわかりません)。大澤真幸の『逆接の民主主義』もこのレーベルか。後藤本では、大澤の名前は全く出てこなかったが、この人もなかなかどうして、データや実証なく話を進めていく人だと思うのだけど、どうだろうか