坂井克之『心の脳科学』

脳機能イメージングによる研究をしている著者による、脳科学入門。
今、ここまでわかってきていて、ここから先がわからないということがわかる。筆者自身が、こんなにわかってきたのか、まだこんなにわかっていないのかということを思いながら読めるのではないでしょうかと最初の方で述べている。
少なくとも、脳機能イメージングによる脳科学研究が一体どんなもんかということの概略は掴むことができるだろう。その研究方法によってわかることと、その限界である。
心についてこんなにもわかってきたのかと思う一方で、脳科学は心について何も解き明かしていないのだなという思いも抱かざるをえない。
そもそも、心について脳科学が解き明かすとは一体どういうことなのか。
つまり、どのような形式の問いかけとどのような形式の答えであれば、それを満たすことができるのかということが、判然としない。
脳機能イメージングとは、主にfMRIなどを使い、脳のどの部位がどの時点で活動しているかを明らかにしていく。
それによってわかることも非常に多いが、それしかわからないとも言える。
脳のどこが活動しているかはわかるが、それが一体どのような仕組みで動いているのかはよく分からないのである。
また、そもそも心とか意識とか意志とかいったものが、一体どのような概念であるのかがよくわかっていないために、探求していくのが困難なところもあるようだ。
心という言葉は、日常的な用法にその意味の多くを委ねているので、厳密にどのような概念であるのかは非常に捉えどころがない。
科学的な探求を行う場合、まず一体何を探求しているのかはっきりしなければならないだろうか、そこからして心許ない感じになっているわけである。


それはともかく、面白いトピックが色々と転がっている本であることは確かで、心と脳の関係が気になる人は読んで損しない。
今、手元に本がない状態でこの記事を書いているので、ちょっと曖昧だが、記憶に残っていることをいくつか書いてみる。
最初は、視覚の話から始まる。
目から送られてきた視覚情報は、第一次視覚野から二次、三次、そして前頭葉へと送られていく、ということは知っていたが、逆方向への信号も送られているらしい。そうやって信号がいったりきたりすることによって「見える」という「意識」が生まれてくるのではないだろうか、とか。
視覚野の中には、顔や文字を専門に認識する箇所があったりするらしいのだが、面白いのは脳の可塑性で、視覚障害者であっても、ちゃんとそこで文字を認識しているらしい。あるいは、視覚野で別の情報処理を行ったりしているらしい。逆に、聴覚障害者は、聴覚野で別の情報処理を行っているとか。
それから海馬。海馬というと記憶を司る器官だが、記憶は記憶でもエピソード記憶を担当しており、また記憶だけでなくそもそもエピソードというものに対して反応する器官らしい。
自分に関わった記憶を思い出すとき、前頭葉のある部位が反応する。
また、脳はミラーニューロンというのがあって、他人の行動を見ても自分の行動のように反応してしまうが、自分の行動の時にはやはりその前頭葉のある部位が反応するらしい。
もしかしてそこは「自分」というものを担当する部位なのか。


また、筆者が繰り返し注意を促すことがある。
現在の脳科学では、何かを考えているときや感じているときに、ある場所が反応していることはわかるが、その逆、つまりある場所が反応しているときに、何を考えているのか感じているのかはわからないということである。
これは言われてみれば確かにそうだという話であるが、脳科学の研究についての報道などに接していると、今にでも考えや感情を読み取れてしまうような感じがしてしまう。
そもそも脳機能イメージングという研究方法では、
実験室で行うことのできる課題という限られた条件下での人間の反応を見ているに過ぎないし、
また、個人差も大きく、大量の実験を行い、それを統計的に処理した結果を見ているわけである。
これは全く知らなかったのだが、脳科学研究者は、脳に座標を設定して、実験によってどこが反応したのかということは全て座標(例えば(40,35,-47)というように)で言い表しているらしいが、脳は人によってサイズも形もバラバラなので、同じ座標でも人によって同じ反応を示す部位とは限らない。そこで、ある標準的な脳というものが設定されており、脳画像をその設定された脳のサイズ・形に変換してやっているらしい。
現在の脳科学によってわかっていることは、そのような統計的な傾向なのである。
これは、進化論や遺伝学の話でも言われることである。
○○の遺伝子が発見されたとか、××という行動が進化によって獲得されたとか、△△という感情を抱くとき脳のこの部位が反応しているとか、そうしたことは全て、統計的な傾向を言い表しているのである。
つまり、個々人の行動や性質を完全に決定しているというような類の言い方ではないということである。
このことはもちろんある意味ではとても当たり前の話である。
脳・遺伝子・進化の研究が進むことで、決定論に脅かされるような人々に対しては、こういうことを説明することで冷静になるようにと諭すこともできるだろう。
とはいえ一方でこうも思うのである。
これによって、心について何かを説明したことになるのだろうか。
もちろん、かつてと比べて、圧倒的にわかることは増えただろう。
だが、例えば人は嘘をつくと汗をかいたり脈拍が増えたりする。このことはずっと昔から経験的にわかっていたことだろう。そのリストの中に、脳のある部位が反応するということが一つ加わっただけに過ぎないのではないだろうか。そしてそれは、嘘についての何かの説明にはなってはいないのではないだろうか。
心というものは、科学の発展によって、今までとは全く異なる形式とスピードで解き明かされている。
しかしその一方で、まだまだ全然、科学によって心は説明されていないのではないだろうかとも思えてしまう。
わかったことが増えてきたからこそ、わからないこともまた増えたということなのかもしれないが。


健忘症のH・M氏はまだ生きていて、ベンジャミン・リベットはもう死んでいたということについてちょっとびっくりした。

心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)

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