北野圭介『映像論序説――デジタル/アナログを越えて』

映像を巡る言説を、アナログとデジタルの区別について吟味する形でまとめたもの。
冒頭で、方法論として概念分析と系譜学的考証というのを挙げている通り、映像という言葉がどのように使われてきたのかというのを追いかけている。
アナログ映像とデジタル映像というのは連続しており、はっきりと分けられるものではないと前半で述べつつ、後半ではその新たな区別も検討している。
問題設定や個々の話のいくつかは面白かったのだけど、具体的な作品や映像についての分析がなかった*1。映像論ではなくて映像論論のようにも感じた。


web版を読んだ*2。本と目次を見比べると、後半が違うよう。


まずは、アナログとデジタルという安易な二分法に対して、実際に我々が普段見ている映像というのはアナログ的なものとデジタル的なものが混ざり合ってて簡単に綺麗には分けられない、連続していることを指摘する。そのような連続性を指摘するものとして、ニューメディア研究のレフ・マノヴィッチの論が紹介される。
マノヴィッチは、デジタル映像の作動原理を「サンプリング」と「合成」に見る。そしてそれが、エイゼンシュテインなどのフォルマリズムの映画理論、ゴンブリッチの絵画論と連続していると説く。
ところが筆者は、このマノヴィッチの論立てに偏向を見る。つまり、バザンのリアリズムに基づく映画理論の系譜を回避してしまっているからだ。
それに対して筆者は、フォルマリズムとリアリズムは、どちらか片方が正しく片方が間違っているというものではなくて、映画の中には両方のベクトルがあり、フォルマリズムにもリアリズム的な要素が、リアリズムにもフォルマリズム的要素があると述べる。ところが、そのような二つのベクトル(フォルマリズム=編集思考、リアリズム=画面思考)を持っていた初期の映画理論に対して、構造主義ポスト構造主義の影響を受けた現代の映画理論は記号論へと偏っていく。
そのようなポストモダン的な映画理論に対して、新たな画面思考の可能性を、ドイツ語圏の哲学者フルッサーの写真論に見ていく。フルッサーデリダの論に触れながら、「痕跡」や「間ミディアム性」といったキーワードが導入される。

(1) 画面とは、重層性を孕んだイメージであり、そこにはさまざまなミディウム間の交渉の場と考えるべきものである。
(2) また、ミディウムなるものは、さまざまな理論や概念の結果として実現されるものであり、そうした関与する思考の生みだしたもの、生みだしているものという、視点が不可欠である。
(3) これは同時に、ミディウムの交渉のプロセスにおいては、いまだ立ち現れていないもの、これから立ち現れるかもしれないものがあり、痕跡という発想が必要なことを指し示している。
(4) とはいえ、一定の時間経過のなかでは、それぞれのミディウムにはそれぞれの意味作用が相応のかたちをもちうる。大きな歴史的スパンで考えれば、文字と像の間には、それぞれ意味の働きが大きく異なるし、これは十分に考慮されなくてはならないと同時に、安易にデジタル・アナログの差異と同一視しないようにするべきである。
(5) デジタルとアナログの差異は、したがって、考察のこの時点では、デジタル映像を規定する、可視化され流通している理論と概念のセットにおいては接近・回収できる痕跡と、接近・回収できない痕跡の差異に対応するものと考えておくことができる。


『映像論序説』第1章より


続く第2章では、映像と身体がテーマとなる。
まず、インタラクティブ性を考えるためにゲームの話がなされる。サレンとジマーマンの『ルールズ・オブ・プレイ』が出てくる。ゲーム研究は、かつての映画論とは異なるアプローチをしていることが確認され、「コンテクスト」が着目される。また、ニューメディア研究のボルターとグロマラによる『メディアは透明になるべきか』、ボルター、グルシンによる『リメディエイション』が紹介され、ここでも「文脈」に着目する。
また、近年の映画研究でも身体への着目がなされていることが紹介される。
ゲーム研究・ニューメディア研究における映像と身体、映画研究における映像と身体は、「物理的な行動(=操作行為)の主体としての身体と、感覚受容体/運動起点体としての身体」として区別される。
そして、映画論のシャビロ、ニューメディア研究のハンセンによる、「情動」への着目が紹介され、これを身体の第三の次元とする。
続いて、身体を考えるために認知科学や脳生理学に触れられる。レイコフ、ジョンソンの認知科学、ダマシオやルドゥーによる情動の脳生理学、そしてヴァレラである。

1. まず、単純な意味合いでのインタラアクティヴィティやら生体反応やら没入性やらといったキーワードでは、デジタル映像とアナログ映像の相違はきちんと腑分けすることはできない。
2. わたしたちは、より周到な分析的視角を必要とするのであり、この章でわたしたちが得ることができたのは、経験の残滓を宿す身体イメージから映像は成立しているという視角である。
3. こうした分析視角をもってしてはじめて、第一章で明らかにした、イメージに織り込まれた痕跡なるものも、このような身体イメージの痕跡として理解すべきであるという、より的確な了解を得ることができる。
4. さらにいえば、像なるものは、経験世界における、存在論的な厚みと膨らみをもつ運動を、平面上に転位したものであるという測定も、こうした分析視角により可能となる


『映像論序説』第2章より


第3章は、映像の中に映し出されるものがテーマとなり、物語論や虚構論が整理される、
メッツやボードウェルの物語論的な映画論から、ジュネット物語論。さらに、ライアンの『可能世界・人工知能・物語理論』へ。エーコを参照して、ボードウェルとライアンとの違いを見つつ、今度はバルト、トドロフなどへと戻ってみる。

1. バルトがものした物語の構造分析からジュネットの物語の詩学への流れにおいてすでに、物語言表から自律し、そればかりか、独自の存在論的身分をもった物語内容なるものが抽出されていくという、物語なるものの理解の登場への変化がみとめられる。
1−1しかも、その際に少なからず関与したと思われるのは、映画が語る物語へのまなざしであった。文字や声が語る物語だけでなく、映画が語る物語を視野に収めるとき、異なる媒体それぞれの特性から独立した存在としての物語内容が抽出されていた(されえていた)からである。
1−2その際、その構成単位として、出来事なるものが焦点化されるとともに、出来事間の因果性が主たる作用因として特権化された。
1−3さらにはそうした因果関係の担い手については、登場人物心理へと固定化していく理解がしだいに濃厚になっていく
 2. そのような自律した物語内容という理解を携えた物語論は、指示理論(あるいはそれと連動した虚構論)、様相論理学、可能世界意味論などの洗礼を受けるとき、さらに一歩、その自律性の度合いを強めることとなる。正確を期すならば、自律した物語内容は、予測、妄想、回想なども含めたさまざまな可能世界から構成される物語宇宙を指すものとなるのであるから、その点でいえば、度合いだけでなく、自律性の様態そのものが根本的に変容したのだともいえるかもしれない。
  2−1このとき、虚構が処理する可能世界群から成る宇宙という了解においては、物語は、それを鑑賞する際の(そして日常の生活世界をすすめていく際の)認知過程にすぎなくなる。


映像論序説 第3章より

物語論から虚構論へ至るにつれて、物語内容というものが物語言説から離れて自律したものとして扱われるようになったが、そこには映画論からの影響があったという。ジュネットにはメッツからの影響があった、と。
ライアンの説については、本書でも折衷的で色々な立場が都合良く繋がれていると言われているが、この本によるまとめを見る限りでは、可能世界論としてどうなのという感じはする。ウォルトンのごっこ遊び論も可能世界論として解釈するというものらしいのだが、可能世界の存在論的身分を精神的構築物として捉えるのであれば、ごっこ遊び論の方がよいのではないかと思う*3
第3章の後半は、分析哲学に触れて、固有名と確定記述の対立を映像論に適用しようとする。
固有名を、バザンのリアリズム、クラウスの指標性、パースの記号論(指標)、バルトの「鈍い意味」などの議論と結びつけている。
また、アナログ映像はスクリーンによる遮断、デジタル映像はモニタによる接続と区別する。
デジタル映像の体験としてゲームを挙げて、死がループするという特徴と確定記述を結びつける。

1.アナログ映像そしてデジタル映像がそれぞれ語る物語世界を測定しようとする思考には大きな違いが認められる。それは、大きくいえば、出来事の線形的継起にもとづく物語展開をみる発想と、諸世界間の横断性にもとづく物語宇宙という発想に区別されうるだろう。
 2.そうした物語のかたちに対する理解には、表裏のように、世界そのものについての了解の仕方が関与している。そうした観点からみるとき、個体把握の仕方に関して、アナログ映像、デジタル映像それぞれに向けてなされる物語理解の間に大きな相違がみられるが、それは、固定指示子と確定記述によるアプローチという相違に理論的には還元することができるだろう。
 3.とはいえ、固定指示子と確定記述は、映像に適用しようとするとき、一見、アナログ映像とデジタル映像の相違にうまく対応しているようにみえるものの、そうではない。意味作用の約束事のなかで解釈しうるベクトルと、そうした解釈を越えるベクトルとを常に対立させてきた映画的映像の場合をみるだけで、この固定指示子と確定記述という概念対は、原理的に対立する概念対として考えるよりも、それらが構造的に補完し合うセットとなって機能する概念対であることがわかるだろう。したがって、それらの構造的補完関係を踏まえた上で、映像が映し出す世界の特質を思考しようとした理論的言説をメタ分析するべきである。
 4.そうしたとき、第一章でみた映像の痕跡という視点、また第二章でみた身体の厚みと膨らみという視点を導入することが有効である。そこで明らかになるのは、アナログ映像をめぐる思考では、映しだされる世界とそれを見る側の世界の境界の断絶、そして遮断性が形而上学的なトーンを帯びるほどに強調されるのに対して、デジタル映像をめぐる思考においては、映しだされた世界が際限なく再設定されるという強迫反復であり、それが接続される先として、こちら側の世界もまた際限なく再設定されるという強迫性が強まっていくこととなっている。


映像論序説 第3章より


最後の、デジタル映像の思考として強迫反復が出てきていて、これは東の『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』に繋がるかなと思った。


結論部では、フロイトラカン、ダマシオ、ハイデガーフーコーそれぞれがどのように映像の比喩を用いていたかということに触れられている。


ななめ読みしていったせいでもあるが、途中からどんどん話についていけなくなっていった。
とにかく、映像に関する議論などを次から次へと繋いでいくので、筆者の論を次第に見失っていってしまった。
映画理論の言説史と物語論・虚構論の言説史は面白かったし、またゲーム研究への言及が結構多くて、そういうところもよかった。
でも、認知科学とか分析哲学とかの扱い方については、うーんという感じだった。
具体例も欲しい感じだった。序論は、9・11のニュース映像から、アナログ映像とデジタル映像の混ざり合いを論じるというもので、わかりやすかったのだが、結論は、フロイトラカン、ダマシオ、ハイデガーフーコー! どうだ!って感じで、具体的な映像作品や映像体験の話がなかったので。


具体的な作品論をしながら、既存の映画理論から離れて、新しい映像論の枠組みを作ろうとする試みという点では、渡邊大輔の仕事が、これに通じながらもこれより面白いかなあと思う。

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

追記20120229

『映像論序説』に興味をもったきっかけになったpostをふぁぼから見つけたのではっとく

北野圭介『映像論序説』を駆動している問いは、映像においてアナログ/デジタルの腑分けがどう可能か/不可能かというもの。本当は(私が足を突っ込んでる)音楽やゲームの分野でも同様な考察を深めなくてはならないよな。
https://twitter.com/#!/H_YOSHIDA_1973/status/114625090179706882
音楽におけるアナログ/デジタル問題は、どこから考えればいいか。「聴く」分にはレコードもライブもiPodも(一応)同じだとして、やはり編集、操作、インタラクションなどの観点から腑分けしていくのがいいのか。
https://twitter.com/#!/H_YOSHIDA_1973/status/114625937231986688
20世紀後半の映像(映画)理論が「見ること」の分析に終始してきたのと同様、音楽理論もすべてを「聴くこと」に還元しすぎてきたのではないか。それらはせいぜい「テキスト解釈(学)」の新ヴァージョンでしかなく、理論の考察・応用範囲が非常に狭い。
https://twitter.com/#!/H_YOSHIDA_1973/status/114629858394505217

*1:それがタイトルが序説となっている理由なのかもしれないが

*2:人文書院サイトで連載されていたが、今は削除された模様

*3:ウォルトンはごっこ遊び論におけるフィクション世界を可能世界として捉えることを否定している