大橋可也&ダンサーズ/飛浩隆『グラン・ヴァカンス』

大橋可也&ダンサーズの『グラン・ヴァカンス』を見てきたのだが、それに先だって原作小説を再読したので、それについても書く。

ダンス版

土曜日の昼公演を見てきた
まず、コンテンポラリー・ダンスを見るのがはじめて、なばかりか、そもそもダンスを舞台で見るということ自体が初めて*1
なのでまずは、そもそもどうやって見ればいいのかというところから手探りだった。
客席の最前列とステージの高さが全く同じだった。ステージ右側に音楽担当が3人いて、右上にモニタがあり、左奥には大道具で部屋がつくられている。
音楽は、大谷能生が担当していて、サックスやウッドベースが生楽器として入っていた。エレクトロニカ的な感じの曲もあったと思う。ノイズミュージックといっていいのかどうか分からないけど、ノイジーな感じの曲もあった。
そうした音楽もよかったし、コンテンポラリー・ダンス独特の動きの緊張感みたいなものがあって、目が離せない感じであった
だが、単にコンテンポラリー・ダンスで2時間半だったら見れなかったかもしれない。あまり、こういうものにたいして「難しい」「分からない」とは言いたくないのだけど、最初見始めたときは、あんなふうに身体動かせるのはすごいけど、やっぱよく分からなくて難しいなーと思っていた。
とはいえ、これは『グラン・ヴァカンス』なのだから、どう『グラン・ヴァカンス』なのか見ながら見ようと思って見ると、よく見れた。
演劇ではなくダンスなので、物語がそのまま描かれているわけではなく、さらにいえば、どのダンサーが誰役ということもない。シーンシーンごとに、あのダンサーさんがランゴーニだな、ジュールだな、ジョリーだなとわかることもあるが。
それでもなお、このダンスは『グラン・ヴァカンス』という物語や世界を再現representしている。
再現representと表現expressionというものは区別される。この二つは決して排他的なものではないけれど、再現の要素が強いもの、表現の要素が強いものに分類することはできるだろう。実際、ダンスというのは演劇や映画に比べると、再現の要素が弱く、表現の要素が強いように思う。そしてこの公演にしても、普通の演劇のように再現的であるわけではない。しかし、見ていてこれは『グラン・ヴァカンス』のあのシーンだということは分かる。小道具や台詞などを用いて明らかに分かりやすくしているシーンもあるが、そうでなくても分かるところは分かる。
しかし、一方で再現と表現という区別というのは、この作品においてどれだけ使えるのだろうかとも思う。
あるインタビューで、ドラマトゥルク*2の長島は、ドゥルーズフランシス・ベーコンを具象でも抽象でもない形象であると論じたことをひいて、写実的でも抽象的でもない方法があるのではないかと語っている*3。具象と抽象という区別は、再現と表現という区別に対応されるものでは決してないが、ここで言いたいことと近いかなと思う。
これは、『グラン・ヴァカンス』ひいては廃園の天使シリーズにおける設定とも関連して考えることができる。
『グラン・ヴァカンス』の世界は全て仮想現実空間である。この仮想現実空間は官能素と呼ばれる単位で構成されている。この世界の光や音や匂いや感触は全てこの官能素によって計算され、AIや情報的似姿はその官能素に接触してそれらの感覚を得る。つまり、AIの感じてる諸々はAI内部で演算されているのではなく、世界の側で演算されている。
小説版もダンス版も、数値海岸という共通のプログラムを、それぞれ別のハードウェアを使って演算しているのではないか、それゆえに表現型が異なるのではないかというように感じた。
小説版は文字によって映像的に表現しているが、ダンス版は人間の身体によって表現する。ダンサーはAIを演じているだけでなく、仮想空間で行われている演算そのものを表しているのではないか、と。
そうすると彼らの動きは、コップを手に取るとか蜘蛛と戦うとかいった動作を再現しているだけでなく、AIの感情が仮想空間上でどのように計算されているかということをも再現しているのではないか、と。
苦痛の動作や表情を、普通は苦痛の表現と捉えるわけだが、このダンスにおいては苦痛の表現であることを通して仮想空間の演算を再現していたのではないか。
『グラン・ヴァカンス』という小説は、仮想空間上でのAIのドラマを描いているわけだが、AIであるとか仮想空間であるとかいう設定が全く明かされなかったとしたら、その描写自体からはAIであるようには思えない。非常に人間そのもののように描かれている。いわばそれは仮想空間の演算結果であり、人間であるゲストが目にする世界であるだろう。
それに対してダンス版は、そうした小説が描いているような世界も描写しつつ、その裏側のプログラムコードの部分をも描いているといえるのかもしれない。
ダンサーは当然人間であるが、彼らの動きはしばしば人間離れしている。痙攣しているかのような動きは、どこかプログラムがバグっているかのようにも見える(こういうあたりは、『グラン・ヴァカンス』といより、『ラギッド・ガール』収録の「魔術師」に出てきたコグニトーム不全症について想起させられたりもした)。
あるいは、ピンと伸ばした脚が震える様子。それはすごく自然で、普通であればピンと伸ばしていた足が弛緩してきた様子だが、当然ながらダンスである以上はそれは弛緩して震えてきたのではなく、計算ずくで震えているのである。普通の人間は、あんな動き方を計算して、ないし意識しては行わない。無意識的にはよくやるだろうが。そのことに気付くと、目を離せなくなってしまう。一挙手一投足に緊張感があることが伝わってくる。
また、藤田さんが「ひとりがさって動くと、それに連鎖するようにほかのダンサーも動く。同じプログラムのようだけれど微妙に身体(筐体)による差異が出ているかのように。」という感想を書いていた*4が、それを見て、確かにそういうところがあったなあと思い出したので、ちょっとそのことについて書く。全員が揃って同じ動きをするのではなくて、ちょっとずつズレていくというところがある。それが一瞬気付きにくいズレだったりもするのだけど、振り付けレベルでわざとつけられているズレで、コンテンポラリー・ダンス独特なのだろうかと思ったりした。つまり、普通のダンスであれば、ぴしっと全員揃うのが理想であるが、人間なので当然多少ずれる*5。それを人為的にやっている感じ。上述した、脚の震えをわざとやっているというのと同じようなことではないだろうか、と。
ダンスのすごさが、『グラン・ヴァカンス』という物語・世界・設定を通じて伝わってくる感じだった。


舞台は、四部構成になっている。
すなわち、「1.不在の夏」「2.苦痛の記憶」「3.無人の廊下を歩く者」「4.遠い日の思い出」である。
原作小説から、いくつかのシーンが抽出されている。大体原作の順序どおりだが、いくつかのエピソードについては、原作と順序が異なる。
わりと、ランゴーニがメインという感じがした。イヴやアナ・ドナ・ルナは出てこなかったのではないかと思う。
これは、長編小説を2時間半の舞台に勘案するためにそうなったのだろうし、ダンスに限らす、異なるメディアに移される際にはよく行われることなので、あまり気にすることではないが、先ほどの話と同様、一応『グラン・ヴァカンス』の設定と搦めて考えることもできるかもしれない。
つまり、ランゴーニや老ジュールが時間を操作していることに現れているように、この世界の時間の流れは現実世界とは異なる、ということだ。演算のやり方が変われば、表面に現れる時間の流れ方もまた変わるということだろう。

1.不在の夏
ジュール役と思われる男性ダンサー1人と女性ダンサー3名によるもの。この時点で、自分はまだ見方がよくわかってなかった。蜘蛛っぽいなあという動きとかあったけれど。タイトルは原作の1章と同じ


2.苦痛の記憶
おそらく、もっとも再現的であったパート
まず、ピエールが巨大なランゴーニに食われるシーンから(原作5章)。いきなり、サックスのつんざくような音から始まる。大勢のダンサーがステージ中心で絡まりあい、またほぼ全裸の男性ダンサー2人が苦痛にのたうちまわる。金髪で小人のダンサーが巨大ランゴーニのセリフを言っていた。
唐突に会場全体を貫くサックスの音とダンサーの声によって、一気にステージへと集中させられた。
それから、罠の一部であるメイド・ステラ(原作4章)。基本的に、ダンサーはシンプルな衣装を着ているだけで小道具などもほぼ使わないのだけど、ここだけステラ役のダンサー4名がメイド服を着て、さらに小道具として便器も使っていた。そういう意味で分かりやすいところ。
硝視体の中に住んでいるマリアの話(5章)。ステージ奥に作られた部屋の中にマリアがいて、コーヒーをいれている。その様子が右側のモニタに映し出される。これは、マリアの部屋に侵入したランゴーニの視点なのだけれど、監視カメラ的な画質で映し出されるこの演出は、<夏の区界>の設定の下衆な感じとも通じているような感じがした。ランゴーニ役のダンサーが4人。
それから船大工ルネのあたり?(5章)。ランゴーニの「このぺたぺたしたものはなんですか」という台詞などが、複数人のダンサーによって何度も反響するかのように繰り返される。
あと、長テーブルを持ってきて、コックのジョエルの話(6章)もやっていた。


3.無人の廊下を歩く者
タイトルは、5章のタイトルの一部から。イヴの夫フェリックスが、ランゴーニの罠に引っ掛かってからめとられていくシーン。全体を通して、このパートが一番よかった。また、上のように思うようになったのも大体このパートを見ていたときのこと。
フェリックスがランゴーニに少しずつむしり取られていくこのエピソードは、原作では決して長くはないのだけど、ダンス版ではたっぷりと演じられる(もしかしたら他の部分も何か混ぜていたのかもしれないけど)。
苦痛の記憶と違って小道具は出てこないし、台詞を言うこともない(原作の地の文がいくつかモニタに表示されたりはした)。
ダンサー全員が、フェリックスの歩行の様子であり彼の感情の動きであり長々とした廊下でありランゴーニによってフェリックスが少しずつ奪い取られていく様子であった。まさにそのシーンの演算をダンサーがになっていたとでも言えるような。
ダンサー全員が一列に並んで歩くところから始まる。これは、フェリックスの歩行をあらわしてもいるし、また同時に長く不気味な廊下そのものであるとも言える。
そいて、叫ぶような顔をしてダンサーが並んでステージ前方に向かってくるシーンがある。これなどはまさに、廊下(という仮想空間)が、フェリックスの感情を演算しているところを再現しているとでも言えるのではないだろうか。
このフェリックスのエピソードから受ける印象が、原作以上に切ないものになっていた。音楽との相互作用も大きかったように思う。
原作小説ではあまり感じなかった、非常にエモーショナルなものとなっていた。
原作でも確かに印象に残るシーンではあるが、原作を読んだときに受けた印象とは異なる印象を受けた。フェリックスのシーンの再解釈を促すようだった。


4.遠い日の思い出
4章のウサギのスウシーの話から、第8章のジュールとジュリーのセックス、第9章のジョゼのもとに向かう2人、第10章のジェリーの崩壊が描かれていた。
基本的には、白い服の男性ダンサーがジュール、灰色の服の男性ダンサーがランゴーニかなと思いながら見ていたけど、ここでは灰色の服の男性ダンサーは老ジュールだったような気もする。金色の小人のダンサーは、ランゴーニもやってたけど、ここではウサギのスウシーをやっていた。
最初は、ウサギのスウシーとジュリーのあたりで舞台ではスウシーがあちこちぴょんぴょん跳ねまわっている。一方、左奥の部屋のセットの中では照明は全く当たっていないけれど灰色の服のダンサーがずっとうずくまっていた(と思う)。父(ゲスト)の老ジュールだったのだろうと思う。
ステラの自慰といい、ジュールとジュリーのセックスといい、性的なシーンは動きが露骨だったなあという気が。<夏の区界>が消滅した後は、蛍光灯の照明がついたり消えたり、プロジェクターで舞台の壁全面にデジタルっぽい(?)パターンが映し出されたりしていた。
最後は、砂が上から舞台上に降ってきて、ジュールがステージ前方へと歩き去っていって終わった。このラストシーンは、砂が落ちてくる演出はともかく、なんかあっさりしていたなあという感じもした。

小説版

2007年に一回読んでそれ以来読んでなかったのを久々に再読したのだけど、07年の時の自分の感想が今となると結構的外れ感がある。
以下、あらすじ


舞台は、仮想リゾート数値海岸の<夏の区界>。人間のゲストが来なくなった大途絶から1000年。突如、「蜘蛛」たちが襲いかかり、区界の半分以上が消滅させられてしまう。
生き残ったAIたちは、鉱泉ホテルに集まり「蜘蛛」たちとの戦いに挑む
チェスの天才少年ジュール、奔放な少女ジュリー、精悍な漁師の青年ジョゼ、漁師たちを束ねる大柄な女性アンヌ、編み物が達者な盲目の婦人イヴ、見わけがつかない三つ子の老三姉妹アナ、ドナ、ルナ、助役のバスタン、ホテルの支配人ドニなど。
ジュールの発案で、ホテルに罠のネットワークが構築される。
一方、不思議な力を秘めた石「硝視体」の使い手ばかりが都合よく生き残り、蜘蛛の糸が罠のネットワークを構築するのに役に立ったという点を、ジョゼは訝しく思っていた。
蜘蛛への反撃を始めた区界のAIたちの前に、蜘蛛の王であるランゴーニが様々に姿を変えて現れる。
ランゴーニが区界のAIたちを1人ずつ攻撃していくにつれて、穏やかな海辺の田舎町として設計された<夏の区界>に隠された秘密が明かされていく。<夏の区界>は、ゲストたちのサディスティックな欲望を満たすために巧妙に設計されており、それぞれのAIにはそれぞれのトラウマめいた過去が設定されており、それを利用してゲストたちは彼らに苦痛を味合わせていた。
多くの領域が消滅し、演算がリッチになった<夏の区界>において、ランゴーニは個々のAIが記憶している、あるいは計算しうる苦痛を再生していく。
また、罠のネットワークに侵入するために、ランゴーニはイヴとフェリックス夫妻を利用する。盲目でおっとりした性格ながら仕事熱心な妻とお調子者ながら妻を愛する夫という設定であったが、大途絶以降に区界に現れるようになった硝視体によって、2人の仲は変化した。イヴはすっかり硝視体の能力を見出すことに自分の才能を見出し、フェリックスはそのことに反発していた。罠の異変に気付きながら、硝視体の全能感を手放したくなかったイヴはそれを見逃す。
ジョゼが、ランゴーニに捕獲され、ランゴーニはジョゼに<夏の区界>襲撃の理由を告げる。数値海岸の他の区界は、「天使」という謎の存在の襲撃を受けている。ランゴーニは、その「天使」を撃退するために、ジュールが組んだ罠のネットワークと<夏の区界>に隠されている苦痛を利用することにしたのだ。ランゴーニは、<夏の区界>の時間などをコントロールできる程の能力を持っているが、やはり彼もまたAIなのである。<夏の区界>には、設定として過去の歴史が作られており、その歴史物語をもとに各AIはつくられている。イヴとフェリックスの元になった、農民夫婦の話はかなり陰惨。夫が編み物の才能を発揮した妻を牢屋に閉じ込め、妻は自分の歯で編み物の模様を作り続け、自分の歯が足りなくなると気付くとそのために妊娠する。それに気付いた夫は発狂して妻を殺して死ぬ。
ジョゼが消えたことを知って、ジュリーはジョゼを探すために罠のネットから離れる。
罠のネットは食い荒らされ、ランゴーニがコントロールを奪ったフェリックスがイヴに巣食う。謎の老人、老ジュールはアナ、ドナ、ルナの協力のもと、ジュリーとジュールを守る。<夏の区界>は、老ジュールがジュリーとジュールのために守った空間を除き、消滅する。
AIは各自機能を持っている。ホテルのシェフAIは、<夏の区界>の料理データベースを管理しているし、ホテルの支配人ドニは、<夏の区界>に訪れたゲストのデータベースを管理しているなど。その中で、ジョゼとジュリーは特別な役割を持っている。AIたちを統制する役割である。ジョゼは政治的なリーダーという、ジュリーは誰とでも寝るという役割・設定を通して、AIがゲストから被った苦痛を受け止める。ジョゼとジュリーはお互いに惹かれあっているが、ジョゼにはアンヌ、ジュリーにはジュールがいて、その二人が結ばれないように三角関係を作っている。
ランゴーニは、ジョゼとジュリーを共に自らの罠に戴いて彼らの苦痛を永遠に引き延ばそうとしている。老ジュールは、いわばそれに抵抗するために、ジュリーとジュールが結ばれるようにした。
ジュリーとジュールがジョゼのもとに向かうあいだ、他のAIたちは壁の向こうに閉じ込められて永遠に苦痛を味わう羽目になっている。その際に、ガラスというのは実は非常にゆっくり流れる液体でという比喩を通じて、ジュリーと他のAIの流れる時間が違ってしまったということを表しているのが、よかった。
老ジュールというのは、ジュール本人で、何らかの時間操作によってこの区界に来た存在だった。
大途絶以前に、ジュリーのもとに訪れた、謎のゲストの正体も老ジュール。ウサギのスウシーを煮殺したエピソード。


グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

*1:アイマスとかのライブは別としてねw クラシックバレエとか見たことない、という意味

*2:文芸担当のこと、らしい

*3:暗黒舞踏でつかむSF小説『グラン・ヴァカンス』の世界 - インタビュー : CINRA.NET

*4:http://twitter.com/naoya_fujita/status/354095356549660672

*5:MMDでは、本当に1フレームのズレもなくあうと逆に気持ち悪く見えるので、わざとずらすということが行われている