『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
sakstyle.hatenadiary.jp

一番手に取りやすい形式ではあるかと思います。
ただ、エゴサをしていて、レイアウトの崩れなどがあるというツイートを見かけています。
これ、発行者がちゃんとメンテナンスしろやって話ではあるのですが、自分の端末では確認できていないのと、現在これを修正するための作業環境を失ってしまったという理由で、未対応です。
ですので、本来、kindle版があってアクセスしやすい、っていう状況を作りたかったのですが、閲覧環境によっては読みにくくなっているかもしれないです。申し訳ないです。

  • pdf版について(BOOTH)

ペーパーバック版と同じレイアウトのpdfです。
固定レイアウトなので電子書籍のメリットのいくつかが失われますが、kindle版のようなレイアウト崩れのリスクはないです。
また、価格はkindle版と同じです。

(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)


(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

海野弘『万国博覧会の二十世紀』

海野弘『アール・デコの時代』 - logical cypher scape2に引き続き、海野弘本。
20世紀に開催された万博のうち10の万博を紹介している。
それらは、第二次大戦後のブリュッセルと大阪を除くと、パリかアメリカで開催されたものとなる。
元々筆者は、アール・ヌーヴォーへの関心から、1900年のパリ万博を調べ始めたのが、万博に興味をもつきっかけとなったようだから、パリが多いのは当然といえば当然だろう。
タイトルは「20世紀」となっているが、7つ目までが1930年代までのものとなる。万博はそれ以降、いったん下火になる。このため、万博研究の書籍なども1930年代までしか取り上げてこなかったらしいが、近年(本書の刊行は2013年)、戦後まで取り上げた万博研究書が出てきたこともあって、本書執筆へとつながったようだ。
自分としては今、戦間期への興味関心で読んでいるのだが、ページ数的にも、ほぼ戦間期についての本としても読むことができる。


何故万博の本を読むことにしたかというと、
松井裕美『もっと知りたいキュビスム』 - logical cypher scape2で、1925年と1937年の万博が取り上げられていたからである。
また、海野弘『アール・デコの時代』 - logical cypher scape2にも時々万博は出てきて、本書とリンクするところがいくつかあって面白かった。
また、数年前に読んだ暮沢剛巳・江藤光紀・鯖江秀樹・寺本敬子『幻の万博 紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』 - logical cypher scape2が万博テーマの本で、1937年のパリ万博についての章もあった。


プロローグ

万博の歴史はフランスで始まるが、国際博覧会として定着させたのはロンドン。
ロンドンの成功はフランスのプライドを傷つけ、以後、フランスは万博に力を入れるようになる(一方、イギリスはその後はあまり)。また、19世紀後半はアメリカも万博に力を入れる。
万博のひとつの頂点として、1889年パリ博(エッフェル塔の奴)がある。
そんなわけで、万博の歴史が語られるとき、19世紀が中心で、20世紀はあまり重視されてこなかった。が、万博が大衆化し、20世紀からは観客が1桁増えている。

第一章 〈アール・ヌーヴォー〉の頂点──一九〇〇年パリ博

1900年万博は、当初ドイツが開催に名乗りをあげていた。が、それにフランスが対抗して開催することになったのが、1900年パリ万博(ドイツは開催から手を引いた。ドイツではその後、2000年のハノーヴァー博まで万博が開催されなかった)。
万博は、技術と芸術の2つの軸があるが、技術寄りだった1889年に対して、1900年は芸術寄り、となった。
新しさよりは19世紀のまとめ
注目を集めたのは、アメリカからきたロイ・フラーの劇場で、電気の光を効果的に用いた。また、川上貞奴も出演した。これをイサドラ・ダンカンが見ていたというのが海野弘『アール・デコの時代』 - logical cypher scape2にあった。
1900年万博は、公式にはアール・ヌーヴォーではなかったが、アール・ヌーヴォーを世界に広めた万博となった。ただ、ここがアール・ヌーヴォーの頂点であり、その後は、衰退がはじまる
ナンシーから、ガレが出展した。ただ、ナンシーは、パリ中心主義に反対していた土地ではあった。

第二章 環太平洋文化の幕開け──一九一五年サンフランシスコ博

パナマ運河開通と、1906年サンフランシスコ地震からの復興を記念した万博
間接照明が全面的に使われた最初の博覧会
間接照明は1920年アール・デコに不可欠となった。
カラー・コーディネーターを置いたのも、特徴的。
バーナード・メイベックによる美術宮殿という建物が象徴的。メイベックは自然に朽ちていくことをテーマとしたが、唯一、現存する建物となっている。
ある種のメランコリックな気分が醸し出された万博だった。
企業が単独でパビリオンを出したのは1876年フィラデルフィア博のシンガー・ミシン(!)
サンフランシスコ博では多くの企業がパヴィリオンを出し、コマーシャリズムがより徹底された。

第三章 〈アール・デコ〉の登場──一九二五年パリ装飾美術博

1912年に計画が始まったが、第一次大戦の勃発や、復興に時間がかかり、延期につぐ延期
アートと工業の統一が目指されたが、メーカーとアーティストの間に対立があった(新製品情報は隠したいメーカーと、新しいものこそお披露目したいアーティスト)
モダンと伝統という対立もあり、唯一のモダンとされたのが、コルビジェエスプリ館
〈女性らしさ〉の雰囲気があり、それには百貨店の出展が一役買っていた、と。
百貨店ル・プランタンとアトリエ・プリマヴェーラ。百貨店で販売していたため、大量生産品を作る工房であり、一種のインダストリアル・アートといえた。
パリの中心地で開催されたのが、パリ博のよさ。
また、その後の万博では、大きな建築が中心になっていくのに対して、小さい工芸品・装飾品を見てまわることができた。
目的があまりはっきりせず、それが逆に、のんびりした感じにつながった。
ドイツは呼ばれなかったが、ソヴィエトやチェコは参加
間接照明の演出
アール・デコ家具のルールマンや、ルネ・ラリックが出展
ムッソリーニ時代で古典主義スタイルが復活したイタリア
メリニコフ設計のロシア館、タトリンの第三インターナショナル記念塔プラン
ホフマンのオーストリア
和風建築の日本館
キュビスム建築のチェコ
アール・ヌーヴォーのベルギー館

第四章 コロニアル文化の最後のきらめき──一九三一年パリ植民地博

不景気ながら消費文化の盛んな1930年代は、万博が盛んに開催された。
1925年パリ博と同時並行に企画されながら、パリ中心地ではなくパリ外れの森が会場に
植民地をテーマにしたのはマルセイユ博の成功がきっかけ
リヨテ元帥が責任者となり、エキゾティシズムではなく、植民地政策の成功を示すことが目的になった。とはいえ、観客はやはりエキゾティシズムに魅せられた。
目玉は、アンコール・ワットの再現。写真が掲載されていたが、かなりすごかった。
夜間はライトアップされていた。
噴水と夜間照明が展開された。
植民地の展示は一般には人気があったが、しかし、植民地主義への批判も既にあった時代(植民地政策の成功を示すことを目的としたのも、そうした批判をかわすため)。
シュルレアリストたちは、反対の立場をとった。

第五章 「進歩の世紀」とアメリカ資本主義──一九三三年シカゴ世界博

シカゴは1893年にも万博をやっていて2度目。市政100年を記念して1933年開催
ケンブリッジの教授が用いた「進歩(プログレス)」という言葉が1930年に再注目を浴び、シカゴ博のテーマに
スカイライド=200mの2つの鉄塔を結ぶケーブルカー
はじめてネオンの装飾照明を本格的に使用
未来のエネルギーとして原子力が予告されていた
禁酒法が廃止され飲酒可能に
GM、フォード、クライスラーという三大自動車会社による、白く巨大なビルが並びたち、その近くには、旅行と交通のビル。巨大ドームを鉄骨で吊り、内部には蒸気船・蒸気機関車が展示されていた
ナチス・ドイツが参加しており、ツェッペリン号が来訪
サリー・ランドのダンスが話題に

第六章 近代生活の光と影──一九三七年パリ〈芸術と技術〉博

最後のパリ博
左翼系の代議士により提案
1925年のアール・デコ博を引き継ぐもの。1931年の植民地博が右翼寄りだったのにたいして、1937年は左翼寄り
世界恐慌以降の不況もあって、テーマは「現代生活の芸術と技術」と限定的


1933 ヒトラーが政権をとる
1935 イタリアのエチオピア侵攻
1936 フランス人民戦線にによるブルム内閣発足/ドイツのラインラント進駐
1937 ゲルニカ爆撃(4月)/パリ万博開幕(5月)/ブルム内閣総辞職(6月)/万博閉幕(11月)/イタリア国際連盟脱退/南京事件(12月)
1938 第二次ブルム内閣
1939 ドイツのチェコポーランド侵攻
1940 パリ陥落
と、激動の時期のさなかに開催された
人民戦線内閣は、ファシズムに対抗するべく発足したが、風前の灯火みたいなものだった
しかし、大衆にとって少し生活がよくなった時期でもあり、ブルム内閣は、大衆のためのレジャーとスポーツの局をつくり、万博でもそれらはテーマとなった
また、この万博では、ブラック、レジェ、マルクーシス、マティスピカソ、ドローネー、ル・コルビジェなどが参加
コルビジェは、1937年万博に批判的ではあったが、積極的に参加。住まいの単位(ユニテ)による共同住宅を提案。これはいったんポシャる。その後、移動できる建築として「新時代館」を設計し、また「十万人のスタジアム計画案」を出した。
この万博で作られ現存している建築として、シャイヨー宮と近代美術館がある。
シャイヨー宮は、1878年パリ万博でトロカデロ宮殿を建てた場所
近代美術館は、ネオクラシック様式
航空館のインテリアは、オーブレとドローネーらが手がけ、飛行機をあしらった三次元オブジェも。これ、白黒写真が掲載されているが、なかなかかっこいい
ドローネーらはほかに鉄鋼館の壁画も。また、松井裕美『もっと知りたいキュビスム』 - logical cypher scape2では、ドローネーの発明館の壁画が掲載されていた。
なお、岡本太郎はこの万博を見ている。


1925年には招かれていなかったドイツが、1937年には参加している
1920年代のドイツは賠償問題もあり、万博どころではなく、フランスもドイツを評価していなかったが、1937年においては、フランスは孤立しかけており、妥協してのドイツ参加だった。
ドイツ館の設計はシュペーア
古典主義建築と夜間照明演出
そして、ドイツ館と向き合う形でのソ連館は、ボリス・イオファン設計
ソ連も、スターリン独裁が始まり、アヴァンギャルドから社会主義リアリズムへと変わっていた
なお、1931年に「ソヴィエト・パレス」のコンペが行われ、コルビジェやグロピウスなどが参加したのだが、勝ったのはイオファンだった
内乱状態のスペインは、人民政府が万博参加を決め、ミロとピカソが壁画を担当
4月26日にゲルニカ爆撃が起きて、5月1日にピカソはこれを描くことを決め、6月4日に描き上げた
パリ万博自体は5月に開幕していたが、スペイン館のオープンは7月にずれこみ、そして閉幕するのは11月なので、「ゲルニカ」が展示されていたのは4か月ほどだった。その後、ゲルニカアメリカへわたり、フランコ政権崩壊後にスペインへ返還される。
一方、同時に展示されたミロの壁画の方は、万博後行方がわからなくなっているらしい。

第七章 インダストリアル・デザインの勝利──一九三九年ニューヨーク博

会場は、マンハッタン島の東にあるフラッシング・メドーズ
〈灰の谷〉と呼ばれた地区で、燃やされた石炭の灰やごみが蓄積していた。
ここを博覧会のために再開発して、その後、公園にするという計画
戦後、ここには一時期国連ビルがあり、1964年に再びニューヨーク博が開催されている。


一番最初に参加を決めたのが、ソ連
ドイツは、ぎりぎりまで参加を検討していたが、ドイツはすでに戦時体制で参加取りやめ
60か国という史上最多の参加国数
インダストリアル・デザイナーによるストリームライン(流線型)=マシン・エイジ
建築デザインの統一
色彩も地域別に統一
トライロンという尖塔とペリスフィアという球形の建築が、シンボル
ゼネラル・モーターズのフュートラマ
赤字を埋めるため、期間延長して第二期を開催したが、結局赤字に。


インダストリアル・デザイナーたち
ヘンリー・ドレイファス
→舞台デザイナー。ヘリスフィア内部の未来都市模型
ウォルター・ドーウィン・ティー
→広告デザイナー。ジオラマ
ノーマン・ベル・ゲデス
→舞台デザイナー。フュートラマ、映画『明日の都市」
レイモンド・ローウィ
→ファッション・イラストレーターからインダストリアル・デザイナー。クライスラー・ビルや流線型の機関車

第八章 壊れた人間像の再構築──一九五八年ブリュッセル

アメリカがソ連に対するスパイ戦を展開
コルビジェクセナキスと協力してフィリップス館
世紀末ブリュッセル回顧と戦後モダンアートの発信
日本館は前川國男が設計

第九章 〈スペース・エイジ〉の到来──一九六四年ニューヨーク博

1939年のニューヨーク博にもかかわったロバート・モーゼズが責任者
ヨーロッパの万博は政府主導だが、アメリカの万博は民間主導
そのため、完全に営利事業として行うが、万博条約が求める会期や会場費の条件と衝突
万博委員会とモーゼズは決裂し、公認を得られなかった。
実は、前回のニューヨーク博も公認はなかった。だが、今回は公認なし、だけではなく、万博条約参加国は参加すべきではない、とされた。このため、英仏などは不参加。冷戦によりソ連も不参加。
それでも46か国が参加。ソ連の代わりにヴァチカンが参加し、「ピエタ」を出展
演出担当者は、ウォルト・ディズニー
「イッツ・ア・スモール・ワールド」を作り、これがのちに、フロリダのディズニーワールドへ
〈シオタラマ〉という映画館には美術館が併設され、エドワード・ホッパーからポロックまでが展示され、また、外壁は、リキテンスタインラウシェンバーグ、ローゼンクイスト、オルデンバーグ、チェンバレンらが参加
その中には、ウォーホルも含まれていたのだが、彼の作品は非公開となった。
ウォーホル自身の都合とされたが、実際には政治的な圧力があった。ウォーホルは犯罪者の顔写真を描いたのだが、その中にマフィアがいて、イタリア人の票を失うことを恐れた州知事からクレームが入った、と。その後、ウォーホルは、モーゼズの顔を描いたが、モーゼズがこれを許可しなかった。

第十章 忘れ去られた万博──一九七〇年大阪博

直前のモントリオール博から、マルチメディア・映像表現について学ぶ。ブリュッセル博や
ニューヨーク博からの引用もある
丹下健三グループ仕切り
メタボリズムグループと関西文化人につながりができて、のちに黒川紀章国立民族学博物館の建築を行う
実験工房のメンバーも参加

第十一章 長い空白期を過ぎて──ポスト・モダンの万博

大阪万博以降、1992年のセビリア博まで万博は開かれていない
が、1980年代に日本では地方博ブームがあった(沖縄海洋博、つくば科学技術博、大阪国際花と緑の博覧会など)
1992 セビリア
2000 ハノーヴァー博
2005 愛知博
2010 上海博

海野弘『アール・デコの時代』

1920年代のアール・デコと総称される芸術・文化・生活スタイルについて
最近、20世紀前半の文化史等についていくつか本を読んでいるが、このテーマの本を探していると、海野弘の本にあたることが多い。
ただし、アカデミックな研究者というわけではないので、この本も研究書ではない。様々な雑誌等に書いた記事を集めた本になっている。
1985年に出た本を2005年に文庫化したもので、初出は全て1980年代で、文庫化の際に追加収録したものも初出は1998・1999年である。
そういう経緯の本なので、内容としては繰り返しの部分も多い。また、記事によってはかなり短いものもある。
「デザイン」の時代であること、「女性」の時代であることが、わりと繰り返し強調されていた印象がある。
この時代のアメリカのことを知りたくてピックアップしていたのだが、内容としては、ほぼフランス・パリの話だった。まあ、それもそうか。

1 アール・デコの歴史とスタイル

一九二〇年代のアール・デコ

この記事は、1920年代から30年代にかけて普及した「三色信号機」を、現代の都市生活の象徴として、アール・デコと照らし合わせるところから始まる。
一つは、原色
アール・デコは、フォーヴやバレエ・リュスから原色を取り入れている
また、原色は人工的なものである
信号機は記号だが、ここから記号化とは複製化だと敷衍して、アール・デコのもう一つの特徴として「複製化」をあげる。
ここでアール・ヌーヴォーと対比されている。アール・ヌーヴォーがハンドメイドによる高品質な作品・製品をつくったのに対して、アール・デコはそうではない。
その例として、ルネ・ラリックがあげられる
ラリックはもともと宝石装飾を手がけていたが、1920年代からガラスへ移る。ガラスは一つの型からいくつも同じ作品を作ることができる。
筆者はそこからさらに「デザイン」が誕生したとする。
物ではなく形が重視される。パリのファッションがマスコミを通じて世界中で流行する。この時、デザインという形が商品となっている。


この「原色」「人工的」「複製」「デザイン」というのは、本書の様々なところで反復されている。ラリックの例も何度か出てくる。


アール・デコの由来は、1925年パリで開催された装飾美術(アール・デコラティヴ)の博覧会(アール・デコ展)から
狭義にはフランスのみをさすともいわれるが、広く、大戦間期の装飾スタイル一般もさす
バレエ・リュスなどのロシア趣味、ジャズなどのアメリカ趣味、ツタンカーメン発掘きっかけのエジプト趣味などが要素として入る(エキゾティシズム)。
スコットランドマッキントッシュやウィーン工房に源流がある。


少し遅れてアメリカでも広まる
第一次大戦後、アメリカ人が多くヨーロッパへと旅行へいった
(このアメリカ人がヨーロッパへ、という話も本書で繰り返し出てくる。当時のアメリカは禁酒法時代で、酒を飲みにヨーロッパへ行った、と。ジャズやドレスコードのゆるいバーなどのアメリカ文化がヨーロッパに広まり、一方、アール・デコアメリカへと持ち帰る)
エンパイヤー・ステート・ビルやクライスラー・ビルなど
アール・デコ」は、1970年代になってから再発見された
半世紀たってこれらのビルが取り壊しの対象になりはじめたことが、再発見のきっかけ
日本のアール・デコは、現在(この本が書かれた1980年代)、研究途上
日本での歴史区分は、明治・大正・昭和が一般的だが、筆者は「1920年代」という歴史区分の重要性を提言している。


なお「アール・デコ」という言い方は当時はなかったようである。もともと1つの潮流と見なされていたわけではなく、後年の再評価の中で名付けられていったようで、何を含むかは論者によって幅があるようである。上述の通り、広くは、大戦間期の装飾スタイル一般なので、内実としては違いがあるものもひっくるめて「アール・デコ」と称されていることもある。

アール・デコの二つの神話
  • プリミティズム

バレエ・リュスやウィーン工房がフォーク・アートから由来した要素を取り込んだように、アール・デコでは、プリミティズムがみられる
ここではその一例として、ファッション・デザイナーであるポール・ポワレの「マルチーヌ」というデザイン工房が取り上げられている。
1911年から1914年にかけてポワレが主宰したデザイン学校で、少女たちに自由に創作させた

  • エキゾティシズム

ここでは、彫刻家から工芸家になったジャン・デュナンが例に挙げられている。
彼は日本の漆技法を、日本人の職人から学び、取り入れていった

装飾とデザインの間

(省略)

ポスター

アール・ヌーヴォーからアール・デコ
遠距離からすばやく見てもわかるように「単純化」されたデザインへ
主要なモチーフは「機械」と「女性」
広告でよくあらわれるオブジェは、酒のボトル
ボトルを描いたポスターは19世紀末まではない。なぜなら、酒のボトルにラベルを貼って売るのが20世紀からだから。

インテリア

(省略)

(省略)

日本のアール・デコ(1)陶磁器

(省略)

日本のアール・デコ(2)挿絵

川端康成『浅草紅団』の太田三郎による挿絵
山名文夫による挿絵は、フォト・モンタージュの技法も使われている(ダダやロシア構成派を見ていたかもしれない。
井口壽乃・田中正之・村上博哉『西洋美術の歴史〈8〉20世紀―越境する現代美術』 - logical cypher scape2でベルリン・ダダがフォト・モンタージュを用いてた旨載っていた)
新青年』の表紙、松野一夫。ウィーン分離派からの影響

2 アール・デコの女性たち

この章には、以下7つの記事が収録されているが、この章に限らず、本書全体を通して、1920年代が女性の社会進出の時代であったことが繰り返し出てくる。
ところで、女性の社会進出については木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2において、女性の就労人口自体は変化しておらず、就労以外の社会参加が増えたという記載があった。
本書はその点についてまで意識されてはいないと思うが、社会進出の例として度々あがるのが、女性がスポーツをするようになったことと化粧をするようになったこと(女性だけで遊びに行くなど)であり、確かに、あまり労働についての例は出てこなかった。

ソフィスティケーテッド・レディ

「ソフィスティケーテッド」という単語は「洗練された」などのよい意味で使われるが、元々はむしろネガティブな意味で使われていた言葉で、1920年代に意味が変わったらしい。
もともと「人工的な」という意味合いの言葉で、それまでは、自然がよいもの、人工は悪いものだったので、ネガティブな意味だったが、1920年代頃からむしろ人工的なものにポジティブな意味がのってくる、と。

ポスターの中のモダン・ガール

男女でゴルフかなんかをしているポスターが取り上げられている。
1920年代の女性の社会進出として、スポーツをすることになったことが書かれている。

ヌードの一九二〇年代

ポストカードに描かれた女性について
海水浴をする水着姿の女性とか(上述の通り、女性がスポーツをするようになったという意味でもあるし、一方、現在から見ると露出の多くない水着だが、当時はポルノ的にも見られていた、と)
ヌードモデルをしていた女性として、マタ・ハリやモンパルナスのキキなどが紹介されている。

グレタ・ガルボの化粧

ベルリン・ダダの画家ハンナ・ヘッヒの、とあるフォト・モンタージュ作品について
女優グレタ・ガルボの顔のパーツがそれぞれ分割されて使われている。
かつて化粧するのは「プロの女性」だけだったのが、1920年代になって一般化
それにより、パターン化(本書では「デザイン」になったとも表現している)していったのではないか、と。ヘッヒが、グレタ・ガルボの化粧された顔をパーツに分割してしまったのはそのあらわれではないかというような話

ブラジャー 一九二八年

1928年、ケストスのブラジャーの広告について

アンナ・パブロワの時代

『アンナ・パブロワ』という映画があって、そのパンフレットに掲載された文章っぽい。
アンナ・パブロワはロシアの帝室バレエ出身のダンサー。
しかし、帝室バレエの保守性に反発。パトロンを見つけて渡英。その後、ディアギレフのバレエ・リュスに一時参加している。しかし、ディアギレフのところも満足できなくなり、独立する(イギリスで出会った人に「あなたはディアギレフ派? わたし派?」と聞くくらい)。

イサドラ・ダンカン

裸足のダンサーとして知られるイサドラ・ダンカン
今まで時折名前は見かけていて気になっていたのだが、イサドラ・ダンカンその人についてまとめている文章は読めていなかったので、面白かった。
古代ギリシア風の衣装を着て、トゥ・シューズを履かずに裸足でダンスした。
当時は、裸足で人前に出るということ自体、衝撃的だったらしい。


1877年サンフランシスコ生まれ。4人兄妹の末っ子。父親が破産していなくなったため貧窮しており、幼い頃からダンスをしたり、兄と芝居をしたりして、日銭を稼いでいた。
ニューヨークを経て、1900年にロンドンへ
当時のアメリカは価値観が保守的であり、彼女のダンスはアメリカよりもヨーロッパの方で受け入れられた。
1900年のパリ博で、ロイ・フラー貞奴のパフォーマンスや、ロダンの彫刻を見て、強い影響を受ける。
また、大英博物館ルーブル古代ギリシア彫刻を熱心に研究した。
1902年ロイ・フラーに誘われドイツへ行くが、ロイ・フラーのもとを離れる。
1903年ブダペスト公演を行う。彼女にとって初めて劇場での公演。これまで、富裕層のパーティなどで披露していただけだったので、ここで初めて一般客にも披露した。また、当時のブダペストは、パリなどで公演する前の前哨戦的な立ち位置で、後にバレエ・リュスもブダペスト公演を行っているとのこと。
1905年ペテルブルクへ来訪し、ディアギレフなどと出会う。
1904年に舞台演出家ゴートン・クレイグとの恋に落ちる。彼との出会いの際にフォーレの曲を演奏していたというエピソードがあった。以前、青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2を読んでなかったら、フォーレに気付かなかったと思う。クレイグとの間に子どもができるが、結婚はしなかった。天才と天才の交際という感じ。お互い惹かれ合ってはいたけど、自分の活動を重視していた。
1909年には、パリス・シンガーと関係をもつ
パリス・シンガーは、シンガー・ミシンの御曹司でポリニャック大公妃の弟! ポリニャック大公妃については、やはりこれもまた、青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2に出てきていた。
シンガーとの間にも子どもができ、結婚を迫られるが、これを断る。
その後、子供が2人とも事故死してしまうと、ダンススクール構想へとのめりこんでいく。
世界各地を巡ったが、1921年ソ連への移住を決める。周囲からは反対されるも、ダンススクール設立の希望を見ていたようだ。
言葉も通じない青年エセーニンと恋に落ち、結婚。アメリカ公演へ彼を同行させるための結婚だったとも言われているが、アメリカではよく思われなかった。エセーニンは別れて自殺している。

3 アール・デコの都市

“イン・スタイル”の時代

(省略)

パリ(1)エコール・ド・パリの時代

前半では、クロフツの『樽』というミステリ小説を解題しながら、当時のパリにいた若い画家志望者の典型例を紹介している。
モンパルナスを中心としたセーヌ左岸
これに対して、セーヌ右岸にはシュルレアリストたちがいた。
左岸は貧しく、右岸は富裕層が多いという違いがあり、シュルレアリストたちは左岸を蔑視していたらしい。
青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2で、グロスコクトーを左岸へと結びつけた、というようなことが書いてあった気がする。


1920年代の特徴として、さまざまな階層や芸術家の交流をあげている。
つまり、上流階級とそれ以外の階級の間でも交流があったことと、画家と詩人などジャンルの違う芸術家同士の交流があったこと。後者は、バレエ・リュスなどにつながっていく。
それから、女性について
シルヴィア・ビーチの書店には、ジョイスヘミングウェイ、スタインが集った。ジョイスユリシーズ』はアメリカで発禁処分を受けており、シルヴィア・ビーチの手によって刊行された、とか。
また、パトロネスの時代でもあったとして、ガートルード・スタインペギー・グッゲンハイムミシェル・セール、ココ・シャネルの名前が挙がっている。
セールとシャネルは青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2で読んだ。スタインについても名前は知っていたが、ペギー・グッゲンハイムはノーマーク(?)だった。
ココ・シャネルから、ファッションの一般化について
デザインが流通するということや、シャネルが漁民の作業服に着想を得てデザインした服があることなど

パリ(2)マン・レイのパリ、ナンシー・キュナードのパリ

右岸と左岸を行き来したマン・レイ
セーヌのサン・ルイ島に居を構えたナンシー・キュナード
ナンシーはイギリスの上流階級出身、1920年代のパトロネスで、シュルレアリスムをイギリスへ紹介した。
「一度見たら忘れられないような印象的な顔立ちやスタイル」と書かれているが、確かに眼光鋭い美人という感じである。象牙のブレスレットをいくつもつけていた、と。
ツァラと親しく、ブランクーシが彼女をモデルにした彫刻作品を作った。また、ルイ・アラゴンと交際していた。
アン・チザムによるナンシー・キュナードの伝記では、シュルレアリストが、女性観については保守的であったことを批判しているという。

ロンドン ブライト・ヤング・ピープル

1920年代のロンドンには、ブライト・ヤング・ピープルと呼ばれる若者たちがいた。
ミッドフォード・シスターズ(ミッドフォード男爵の娘たち)、作家のバーバラ・カートランド、さらには後のエドワード8世もブライト・ヤング・ピープルだった。
かつて、男女交際するには事前に友人も含めてディナーをして、などがあったが、大戦後、そういう金銭的余裕がなくなり、直接ダンスに誘うようになった。また、女性も女性だけで出歩くようになった。父親を戦争で亡くした家族がロンドンへ出てきたり。
ダンスホールやナイトクラブで遊ぶ。
メイフェア地区がロンドンのモンパルナスのようになった。
貴族の住宅地であるウエストランド(メイフェア地区含む)で、貴族の邸宅がホテルやアパートに変わっていき、住人が変化した。

ミラノ 一九二五年

ミラノは、自動車やファッションの街
イタリアでは、ローマ、フィレンツェ、ミラノなどがファッションの中心地となるべく互いに競い合っていたが、ミラノは、国際港があり、衣料の原料地とも近く、既製服の中心となる。
ミラノは国際都市でありビジネス都市であったが、それは全くイタリア的ではなかった。
しかし、シチリアから出稼ぎでミラノに流入してくるため、イタリア的でもあった。
ムッソリーニがその政治的勢力を拡大したのはミラノであったが、最後に処刑されたのもミラノであった。
ミラノ出身であるヴィスコンティの映画は、ミラノへの両義的な思いがこめられている。
この時代のイタリアの近代化を象徴するような街だが、相反する要素がせめぎあっている

ニューヨーク(1) アール・デコ・ハント

(省略)

ニューヨーク(2) ジャズ・エイジへの挽歌

映画『ワンス・アポン・タイム・イン・アメリカ』について

4 アール・デコの生活

ジャズ・エイジの自動車

初出は『Road Star』1983年1号~1984年6号とのことで、以下7つの記事
車は、現在の車もあんまりよくわかっていないので、クラシック・カーとなるとなおのこと無知で、読んでいても知らない固有名詞ばかりだった。あとからググって、こういう車なのかーと写真を見たりはしたが。

  • モードと自動車

1920年代の自動車メーカー・ハップモビールについて
独特の広告ポリシーを持っていた、と
ニュー・センチュリーという車を出しているが、広告には女性のイラストが使われている。
男性と女性の両方をターゲットにしており、男性が求める機能性だけでなく、女性が求める外観も重視した。
細かい違いで価格帯の異なる選択肢を用意するなど
1941年になくなっている

  • ブガッティ家の人々

ブガッティの創設者エットーレ・ブガッティは、ミラノ生まれのイタリア人だが、ドイツの会社で働いたのち、アルザス地方(第一次大戦を境にドイツ領からフランス領)に工場を作った。
祖父は彫刻家、父カルロは家具、食器、宝飾細工を手がけるデザイナーという芸術家一家に生まれる。
カルロはアール・ヌーヴォースタイルで、1900年のパリ万博にも出品している。
1910年に工場設立、1920年代に黄金期を迎える。1923年、ブガッティを代表するT35がつくられる。1930年代には息子のジャンがロワイヤル・ロードスターを作るが、ジャンは自動車事故で亡くなる

  • ハリウッドではなんに乗るか

イソッタ=フラスキーニについて
1900年にミラノに作られた会社で、一時期、ブガッティも属していたフランスのド・ディードリヒの配下にあったが、そこから抜けて、イタリアの会社であり続けた。
フィアットやイタラと並ぶイタリアを代表する自動車に
豪華でエレガントな外観で、多くがアメリカへ輸出された。
最後に、キャサリン・ヘップバーンのエピソードが紹介される。1932年にハリウッドに移った彼女が手に入れた車が、イソッタ=フラスキーニであった。ところが、映画でよく使われていた車の払い下げであったため、近所の人から笑われた、というエピソード
筆者は、しかし、映画によく使われたということは、それだけイソッタ=フラスキーニがかっこよかったということだろう、としている

  • ジョセフィン・ベーカーと車

ジョセフィン・ベーカーは、1920年代のパリを席巻したアメリカ出身の黒人ダンサー
車をたくさんプレゼントされており、その中でも有名だったのが、内装に蛇皮を用いたヴォワザンであった。
ガブリエル・ヴォワザンはもともと飛行機を作っていたが、第一次大戦終結後、自動車に転業。しかし、あまり売れず、1938年に閉じてしまうので、戦間期にのみ作られた自動車となった。
飛行機作りの経験を生かした、流線型のボディが特徴であった。
なお、ベーカーは、免許を取得し自分でも運転をしていたらしい。

  • スペインの王様が愛した車

スペインとスイスの自動車イスパノ・スイザ
革命で王位を追われたアルフォンソ13世は自動車ファンで、自動車レースを主催し、イスパノ・スイザには「アルフォンソ」というモデルもあった。
イスパノ・スイザは1911年にパリに工場を作り拡大していく。1920年代以降は、スペインよりもフランス工場の方が大きくなっていった。アルフォンソ13世も1931年に王位を追われる。

オハラは、日本ではあまり読まれていないが、アメリカでは人気の作家らしい。1930年代から作家活動を行い、ハリウッドのスクリーン・ライターとしてヒットした。
そんな彼か乗っていた車がデューセンバーグ
1920年から1937年まで作られていた車
シャーシだけを購入し、ボディをカスタムメイドするのが特徴。ハリウッドで人気があった車で、オハラもハリウッドで購入した。

  • 君はデュージイを見たかい

引き続きオハラとデューセンバーグ
オハラ自身をモデルにした作家の主人公が中古自動車を購入する小説が紹介されている

スポーツ ラグビーはジェントルマンズ・スポーツ

(省略)

ホテル 虚栄と孤独の劇場

世界最初のホテルは、1829年アメリカ・ボストンの「トレモント・ハウス」
ホテルの語源はホスピタルで、ホスピス、ホステルも同根
近代的なホテルと、従来までの宿屋(イン)との違い
(1)豪華で大きな建物
(2)絵看板や馬をとめる柵がない
→客は文字が読める・交通機関の変化
(3)入口に入るとまずロビーがある(インは、まずバールーム)
(4)客室はシングルとダブル
 「ボウル・アンド・ピッチャー」部屋で手が洗える
 部屋に鍵がついている
1920年代、観光旅行が盛んになりホテルが重要に
さらに、ホテルで生活する人も出現
ホテル生活の孤独と自由
ホテルは、パブリック・ルームがあるのも重要
1920年は広告の時代。セレブたちが自分たちをみせびらかすのが、ホテルのパブリック・ルームだった

バー ヘミングウェイの好きなバーで

(省略)

腕時計(1) エルキュール・ポワロの腕時計

アガサ・クリスティ『青列車の謎』から
青列車は、カレーから地中海のニースまでいく特急
この列車で富豪の娘が殺され、ポワロが事件を解決する。その際、列車に乗り合わせていたキャザリンがポワロを手伝う。
キャザリンは、英国の片田舎から旅行しにきていた女性。女性の一人旅というのが、1920年代の新しいライフスタイル
1920年代、時計は懐中時計と葉巻から腕時計とシガレットへと変わろうとする時代。
ポワロは腕時計をつけてシガレットを吸う。
ポワロはキャザリンのことを「人間牡蠣(ヒューマン・オイスター)」と評する。
ここから筆者は、ポワロの腕時計をロレックス・オイスターと結びつける。
ロレックス・オイスターは、1927年に英仏海峡を泳いで渡った女性、メルセデス・グライツがつけていた世界初の完全な防水時計
メルセデスは、自立する女性の象徴であり、筆者は、ともに英仏海峡を渡った女性として、キャザリンとメルセデスを重ねる。


この記事は、この後、アール・ヌーヴォーアール・デコの時代を整理した後、実際に、この時代の腕時計のデザインを確認している。
アール・デコを、1920年代のジグザグ・デコ、1930年代のストリームライン(流線型)・デコに分割している。
生井英孝『空の帝国 アメリカの20世紀』 - logical cypher scape2でマシン・エイジの美学としての「流線型」というのがあげられていたなあ。
本書では、リンドバーグが腕時計の広告に使われたという話もあった。

腕時計(2) カルティエアール・デコの時代

(省略)

腕時計(3) 一九二〇年代と腕時計

(省略)

三〇年代のざわめき ルシアン・エニェの世界

エニェは、1931年にベルサイユ宮殿での大統領選の様子をとった写真が出世作で、1935年に、国会復帰してごきげんのチャーチルや、同じく1935年に、緊張して鼻をつまむムッソリーニの写真を撮ったりしている。
政治的な時代となっていった1930年代に、それを少し斜にかまえて、政治的な人間の人間らしさを撮影した、と筆者は整理している。
また、パリの街頭を撮影した写真で、水着やマーティニのポスターが写されている。これらは1920年代から現れた新しい風俗だが、人々はこれらのポスターを見ておらず、参戦か非戦かという政治ビラを見つめている、という。
20年代と30年代は、戦間期としてひとつづきの時代だが、大恐慌を挟んで差異があるのだ、と。

キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』

韓国のSF作家キム・チョヨプによる短編集
キム作品の邦訳としては『わたしたちが光の速さで進めないなら』『地球の果ての温室で』に続く3冊目となる。1、2冊目も存在は知っていたのだが、書評等読んでもあまりピンと来ていなかった。3冊目は書評等を読んで、知覚や認知に関わるSFだということを知って、非常に気になって読んでみることにした。
読んでみたらこれは大当たりで、非常に面白かった。
知覚・認知ネタもあるが、収録作品の中では、宇宙というか異なる惑星を舞台にした作品も多かった。
収録作「ローラ」の中に「愛することと理解することは違う」という印象的なフレーズが出てくるが、愛する者を理解することができないことを巡る作品が多くでてくる。
あるいは、自分らしく生きようとすることに伴う孤独、とでもいうような事態が繰り返し描かれる。
自分の知覚・自分の文化・自分の性質そうしたものに従って生きようとした時に、しかし、それが愛する者、ごく近しい者から理解されない。あるいは、愛する者がそのように生きようとしているが、自分にはそれが全く理解できない。
SF的ギミックにそれほどウェイトを置かず、登場人物たちのエモーショナルな部分が描かれている。しかし一方で、SFネタとしても結構面白いネタが使われている気がするし、SF的なワンダーさも味わえる作品になっていると思う。
「ローラ」「マリのダンス」「古の協約」あたりが特に面白かった。

最後のライオニ

主人公は、様々な惑星を探索しては資源や情報を持ち帰ってくる種族の1人なのだが、恐怖心をあまり持ち合わせない彼らとしては珍しく、怖がりであり、いわば落ちこぼれであった。
そんな彼女に、彼女を名指しで、廃墟となったとある惑星の探索についての依頼がくる。
彼女の種族は、冒険家ではあるけれど、見返りのない土地には赴かない実際家でもあって、その惑星は見向きもされていなかった。
しかして彼女は、その惑星にわずかに残っていた機械たちに捕まり、セルというロボットから「ライオニ」という人間と勘違いされる。
なぜセルは、彼女のことを「ライオニ」だと思っているのか。そもそも、この惑星の人間は、ライオニは何故いなくなったのか。
マスターに忠実なロボットものであり、そういうのが好きな人には刺さるだろう。
主人公は、当然自分はライオニではないと言い続けるのだが、後半になって、下位の機械たちからこの惑星で起きたこと、セルとライオニの間で起きたことを全て聞かされ、かつ、セルの寿命ももう長くないことを知らされた後、ライオニのふりをしてセルに接する。
一方のセルも、どこか彼女がライオニではないことを察しつつ、ライオニだと信じて接する。
主人公は、彼女の属する種族の中では落ちこぼれなのだが、それについても意味づけがなされて終わる。

マリのダンス

主人公はフリーのダンス講師。マリという少女に一時的にダンスを教えていたことを回想する形で語られる。
ある種の薬害で、5%程、視知覚障害が生まれるようになっている。マリはその患者(モーグと呼ばれている)の1人。
主人公は、目が見えない*1マリに、視覚の美であるダンスが理解できるのか、そもそもなぜダンスを教わることができるのかと訝しがるが、好奇心から結局引き受けることになる。
果たしてマリは、主人公が思うよりは踊れる、というか動けるわけだが、教えるほどに、差異もはっきりとしてくる。
マリは、ダンスのような動きはするけれど、しかし決してダンスではなかった。少なくとも、主人公が理解するダンスはしていなかった。マリは、目が見えないので、モーションキャプチャー的な装置を介して、体の動きを知るのだが、それゆえに、細かな部分の動きはあまり理解できない。というか、そこに意味があるということ自体が理解できないのである。
しかし、マリはなんとダンスを発表する機会を得てくる。しかも、グループで。
モーグたちは、独特のデバイスでネットワークを作り上げていた。それは別にモーグ用に開発された技術ではない、一種のVRのようなものなのだが、モーグでない者の多くには情報が過剰すぎてあまり受け入れられていなかった。
しかし、モーグたちは、そこを非常に豊かな情報量の世界として生活していた。
主人公からダンスを教わっていたのはマリ一人だが、そのネットワークを通じて、ほかのボーグたちにも教わった内容が伝えられていた。
主人公も、そのネットワークを体験させてもらうが、彼らが体験している一部しか体験できない。それは声の世界であった。
主人公は、モーグを視覚が「欠損」した者だと思っている。しかし、マリは、むしろモーグたちは新しい感覚を得ている者なのだという。
ただ、マリたちは、単にダンスの発表をしようとしているわけではなかった。
後天的にローグ化してしまう薬物を散布することを計画していたのだ。
マリは、ダンスをそのための手段としてしか考えていなかったのか。それとも、彼女なりにダンスに何かを見出していたのか。

ローラ

この作品なんか読んだことあるなと思ったのだが、【キム・チョヨプ来日決定! 記念企画第2弾】新刊『この世界からは出ていくけれど』より傑作短篇「ローラ」をWeb全文公開!【2カ月限定】|Hayakawa Books & Magazines(β)で無料公開されていたので、その際読んだのだった。それを読んだ時も面白いなと思ったが、再読してやはり面白かった。
本短編集のタイトルは、収録作のいずれかのタイトルでもない(「この世界からは出ていくけれど」という作品はない。なお、日本語版オリジナルタイトルらしい)が、もし仮にいずれかの作品を短編集全体のタイトルにするならば、言い換えれば、この短編集を代表する作品はどれかと聞かれれば、自分なら「ローラ」を選ぶと思う。
主人公はかつて『誤った地図』というノンフィクションを発表して、それがそれなりに話題になったことがあるライター。
「誤った地図」というのは、人間の脳内にある固有感覚に基づく自分自身の身体の地図が、実際に持っている身体とズレてしまっている、ということをさす。具体的には、身体が欠損しているという感覚に悩まされている人たちを取材している。実際には五体満足であるのに、例えば脚がないという感覚をもっていて、脚を切り落としてほしいと訴えている。あるいは、それとは逆に、トランスヒューマニストたちのことも取材している。彼らは、実際の身体にはない機能を付け加えようとしている。
主人公は一体なぜそんな本を書いたのか。
それは実は、元恋人のローラのことを理解するためだった。
彼女は子供のころから、自分に3番目の腕がある、という感覚に悩まされていた。そして彼女はついに、義腕を3番目の腕としてとりつける手術を決行する。
主人公は、彼女がそのような感覚を持っていて、さらに手術まで考えているということをかなりギリギリになるまで聞かされていなかった。そのためひどく混乱してしまう。
『誤った地図』では、自分の身体に違和を覚えるという意味でローラと似ている人たちを取材しているが、彼らは自分の腕なり脚なりを切り落としたいと考えている点でローラと異なる。トランスヒューマニストは、それまで自分の身体になかったものを付け加えるという意味でローラと似ているが、彼らは別に身体感覚に違和を持っているわけではない。
結局主人公は、本一冊を書いてもローラを理解することはできなかった。
さらに悪いことに、ローラの第三の腕手術は失敗する。腕の取付自体はできたのだが、接合がうまくいかず、自分の思うようには動かせず、さらに化膿を起こしてしまう。しかし、ローラはその腕を外そうとはしなかった。
実はその後も、主人公とローラは、別れたりくっついたりを繰り返す、という微妙な関係を続けている。
ローラの3本目の腕をめぐる2人の距離は埋まらないままだが、しかし、2人は共に生きようとしている。

ブレスシャドー

これも舞台は地球とは異なる惑星
もともと人類が入植した惑星だが、この星ではコミュニケーションが大気中の分子を通じて行われ、逆に、音は用いられない。
大気中の分子、とは要するに匂いのことだが、彼らは分子を明確に意味としてデコードするので、「匂い」のようなものとしては知覚していない。聴覚的コミュニケーションと異なり、その場に居合わせなくてもコミュニケーションができるという特徴がある。
また、この惑星は外気が汚染されていて、人々は地下施設で生活している(あまり大気が拡散していかない環境)
主人公のダンヒは、まだ子どもだが、分子が意味を持つことに強い関心をもち、(飛び級的に)研究員として働き始めた。
その研究所には「怪物」が隠されているという噂があったのだが、実はその正体は、極地で発見されたかつての人類の子どもだった。移民宇宙船の中で冷凍睡眠されていた中の唯一の生き残りであった。
彼女(ジョアン)はもちろん、匂いでのコミュニケーションはできないが、翻訳機を用いながら、同世代のダンヒと少しずつ心を通わせていく。
しかし、元々人間関係の狭いコミュニティの中、ダンヒ以外はジョアンのことを真に受け入れることはなかった。
ダンヒとジョアンの友情と、しかし、それでも埋められないジョアンの孤独

古の協約

主人公は、惑星ベラータの司祭の一人である女性
この星に、地球からの探査船が訪れる。地球との関係が途絶えて久しいベラータは、地球人一行を歓迎する。彼らは他の惑星の探査計画もあり、しばしの滞在ののち、ベラータを去る。
この物語は、主人公が、去っていた地球人科学者の一人へ書いた手紙、という形をとっている。
出会った直後から2人は意気投合し急速に親しくなっていくのだが、彼と地球人たちは、ベラータに隠された秘密に気づいてしまう。
それは、ベラータ人が惑星の大気に含まれる毒性の成分のため、30歳を前に亡くなる短命であるということ。しかし、彼らが宗教的な禁忌としている植物が解毒剤になっていることだった。
地球人たちは、そのことをベラータの人々に伝えるが、宗教的な怒りを向けられて、ほうほうの体で去っていくしかできなかった。
主人公は、しかし、この宗教的な禁忌の裏に隠されたさらなる秘密を、直接は打ち明けることができず、去っていった後に手紙として伝えることにしたのである。
これは、ベラータの司祭にしか伝えられていないことなのだが、今は人類以外、ほとんど生命がいないように見える(少なくとも動物はいない)惑星ベラータだが、実はもともとはそんなことはなかった。しかし、入植直後の人類が次々と死んでいくのを見たベラータの生物が、大気中の有毒成分の量を減らすために、長きの眠りについてくれたのだった。これがベラータに入植した人類と、ベラータの原住生物の間に取り交わされた「古の協約」だった。
毒性が薄まり、生きられるようになったとはいえ、それでも短命にならざるをえなかった。しかし、人類のために、自らの時間を譲ってくれた原住生物に人々は敬意を抱き、この主教的禁忌を生み出したのだった。そしてまた、世代を経るごとに少しずつこの毒性への耐性が生じていることに、一縷の希望を託すのだった。
ベラータ人女性の主人公と、地球人科学者の男との間に、文化の違いから壁が生じている話で、主人公は、彼が自分たちのことを本当に思って提案してくれていることを知った上でなお、その提案を拒まざるをえない

認知空間

これもまた地球とは異なる惑星の話
認知空間と呼ばれる幾何学的な構造物があって、それが社会の集合的記憶や科学的知識の蓄積を担っている社会。
認知空間という名前からヴァーチャルなものかと思ったけど、物理的な実態のある空間で、この社会の人々は、ある一定の年齢以上になるとその空間の中に入って、そこを登っていっていろいろな知識を得るようになる。一方、個人的な記憶・知識を極端に軽視している。
主人公のジェナの幼馴染であるイヴは、幼少期から低成長で、肉体的に認知空間に入ることがかなわなかった。しかし、イヴは、認知空間には限界があって、それだけが知識の総体ではないのだと考えるようになっていた。
ジェナは、イヴの親友であったが、認知空間に入れるようになってからは次第に疎遠になっていく。ジェナは、イヴがそのように考えるのは、認知空間に入れない無知ゆえのものだと思っていた。
イヴは若くして死んでしまうのだが、その遺品のノートを読んでいくなかで、ジェナはイヴの考えが正しかったことを知る。
この作品は「ローラ」にも似ていて、一方的に欠損がある、劣っていると思っていた者が、実はその欠損・劣位ゆえにまったく異なる認知の仕方をしていて、そこに優劣はなかった、あるいは、もしかするとより優れた認識を持っていたのかもしれない、という話になっている。

キャビン方程式

これは地球が舞台
天才的な物理学者の姉を持つ妹が主人公
ある時姉が、とある障害をもつ。それは、彼女の脳内の時間が非常に遅くなってしまうという障害。当初、生きているのに何の反応もせず、閉じ込め症候群か何かのように見えたのだが、実はものすごく反応速度が遅くなっていることがわかる。
妹は必死に看病して様々な治療法を試すのだが、ある日、姉は失踪してしまう。
数年後、失踪した姉からの手紙には、地元にある観覧車の幽霊の噂話について書かれていた。
幼いころから筋金入りの唯物論者であった姉が、なにゆえに、そんなローカルな幽霊話に興味を持ったのか。
それが実は姉の研究していた時空バブルへとつながっていく。
テーマ的には、本短編集のほかの作品群と通じあう話ではあるのだけど、個人的には(特に最後が)あんまりピンとこなかった作品だった。

*1:正確には、目や視神経に問題はなく、それを認識する脳領域に障害がある(なので、単に視覚障害ではなく視知覚障害という書き方なのだろうと思う)わけだが、簡便のため、ここでは単に「目が見えない」と書く

フリオ・コルタサル『八面体』

1974年刊行の短編集『八面体』に加えて、『最終ラウンド』(1969年)から3編と短編小説について論じたエッセーを加えた短編集。
コルタサルについては、これまで以下の2つの短編集を読んだ。『動物寓話集』は彼の初期短編集で、『悪魔の涎・追い求める男他八篇』は、『動物寓話譚』『遊戯の終わり』『秘密の武器』『すべての火は火』から10編を採録した日本オリジナル短編集で、1950年代から1960年代の作品が入っている。
『八面体』は上述の通り1974年のもの。コルタサルは70年代半ばから政治運動へ傾倒して創作活動が少なくなっていき、1984年に亡くなっている。このため『八面体』は、これ以降にも短編集は出ているものの、作家にとって後期の作品集となるらしい。
以前2作の短編集のどちらかの解説に、これらに加えて『八面体』も読んでおけば、大体おさえたことになる的なことが書かれていた記憶があったので、読んだ。
フリオ・コルタサル『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(寺尾隆吉・訳) - logical cypher scape2
フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2


文体として、普通なら句点で区切れるようなところも読点でつないで、文が長くなっているみたいなのが見られた気がする。
登場人物や舞台について説明的な文章がなく、何が起きているのか、登場人物たちの関係がなんなのか、読み始めは掴みにくい。そのため、上の特徴とあわせて、多少読みにくい文章かなとも思うのだが、少し読んでいると意外とするすると入っていける。
面白かったのは「リリアナが泣く」「セベロの諸段階」「シルビア」かな。後ろの2つは、ちょっと不思議な出来事が起きる、という点で、小説としての面白さが分かりやすい。
「手掛かりを辿ると」も面白いか。

八面体

リリアナが泣く

病気で余命わずかな男が語り手で、リリアナは妻の名前
病室で無聊を慰めるために書いている手記という体裁で、友人でもある主治医への感謝や見舞いに来る友人・家族の様子などを綴りながら、次第に、自分の死後、葬式での友人たちやリリアナの様子などへと話題が移っていく。
これが、主人公の想像なのか、実際に起きることの描写なのかが、読んでいて次第に曖昧になっていく。
非常に献身的な友人が1人いて、彼が様々な手配や遺された家族の心理的ケアなどやってくれていて、主人公も、彼にしか任せられない、彼はきっとこうしてくれるだろうなど、全面的に信頼していることをうかがわせるが、最終的に、彼とリリアナが結ばれることになる。
まあ、夫が死んだ後に、未亡人が夫の友人と親しくなっていくという展開自体は、ありがちな話だとは思うが、それを夫自身の手記という体裁で、かつ、そう至る経緯がわりと詳細に描かれるので、これはNTR妄想なのでは、みたいになっているのが面白いといえば面白い。
さらに、最後の最後に、主人公は奇跡的に回復するのだが、もう少しだけリリアナが独りぼっちでなくなる夢を見させてくれ、と言って終わる。

手掛かりを辿ると

主人公の文学研究者フラガが、詩人ロメロの半生を研究する話。
この詩人というのは、非常に評価が高いのだが、その人生の大半が謎に包まれているため、これについて調べてみようと思い立つ。
で、調べているうちに、関係者のふとした発言から、ある女性の存在にいきあたる。婚約したのだが結局別れた女性がいて、2人の間には娘がいた。その娘に話を聞き、残されていた詩人からの手紙を入手する。
こうして、この詩人が、自らの病気により相手が未亡人になってしまうことを不憫に思い、相手の可能性を閉ざさないように結婚をとりやめていた、ということが分かり、それをもとにsた伝記を出版し、主人公は一躍時の人となる。
がしかし、主人公はある時に気付いてしまう。それは、自分が都合良く解釈した物語に過ぎないことを。そしてそのことを、授賞式のスピーチで暴露する。
娘から渡された手紙は、そのように解釈できるように都合良く選別された手紙であって、実際のところ、詩人は相手を思いやって別れたわけではなく、手ひどい扱いをしていたのである。
主人公は、自分と詩人とを、栄誉に浴するためにごまかしをおこなった点で、同じ穴の狢だったのだと

ポケットに残された手記

地下鉄の中で出会った女性を追いかけるゲームをしている主人公
と書くと何やらいかがわしいが、というか実際いかがわしいが、駅から事前にどのルートを通るか考えておいて、どこまでその女性の通る道と一致するか、みたいなことをしている。
そんなことを不特定多数を相手にしていたら、ある時、一人の女性と実際に親しくなる

隣人の娘を一晩預かることになった夫婦マリアノとスマル。
夜になって、馬のいななきが聞こえてくる。つながれていない馬が家の周りを歩いていた。
それに気付いて妻の方が、馬が家の中に入り込んでくるのではないかという恐怖で、恐慌を来す。夫も警戒する。一方の娘の方は、何も気付かずすやすや眠っている。

そこ、でも、どこ、どんなふうに

夢であって夢でない存在、それは友人のパコで、そこにいないのに近くにいるように感じられる。
亡霊のようであるが、まだ死んではいないし、亡霊とも違う。
パコは病気を患っているようでもある。
語り手本人も、なんだか上手く説明できないことをなんとか言葉にしようとしていて、何が起きているか分かりにくいが、友人たちへの思いが書かれている、気がする。

キントベルクという名の町

雨の日、ヒッチハイクしていた女性リナを乗せたマルセロは、キントベルクにたどり着き、そこで一晩雨宿りする。
リナをなぜか小熊にたとえている

セベロの諸段階

セベロの家に親族郎党が集まっている。
セベロの息子から声をかけられて、セベロの寝室に赴くと、セベロは寝ていて妻が着替えさせている。発汗段階だという。
その後、いくつかの「段階」があって、「時計の段階」では集まった人たちに対してそれぞれセベロから数字が言い渡される。
なんかそういう謎の儀式的なことで夜をあかすことになる。
言い渡される数字に何か意味があるらしいのだが、読者に対してその意味は明示されない。
焦点人物となる男は、これをあんまり真面目に受け取っていないようだが、集まった人によってはもっと深刻に受け取る人もあれば、もっと軽く扱っている人もいる。

黒猫の首

「ポケットに残された手記」同様、電車で出会った女性に対して「ゲーム」をする男の話で。こちらは、電車の手すりを握っている手を握るというもの(それは限りなく痴漢なのでは)
ムラート娘の手を触るところから始まるのだが、このムラート娘がその誘いにのってくる。で、なんか勘違いしないでくださいよ的なことを言いつつ、男の部屋へと入っていく、というなんかポルノみたいな展開。
この短編集は、この作品以外も、性的な場面やエロティックな描写があったが、この作品は特にそのウェイトが大きいものだった。
ただ、行為のさいちゅうに、女が蝋燭を探してきてみたいなことを言って、男は取りに行くのだけど、何故か部屋から裸で閉め出される。大家や隣の住人からどやされる、みたいなことを心配して終わり、みたいな話だった気がする。

最終ラウンド

シルビア

とある別荘地に、3家族くらいが集まって長期休暇を楽しんでいる。
主人公は独身だが、友人たちは子どもがいて、子連れでそれぞれの家にいってはバーベキューなりなんなりしている。
主人公は、子どもたち(2歳から7歳まで)と一緒に、見慣れない若い女性シルビアがいるのに気付く。ふとした拍子にシルビアのことを目で追っており、主人公はシルビアに惹かれ始める。
彼女について質問すると、シルビアは「みんなの友だち」なのだという。そして大人たちは「子どもの作り話」だという。
子どもたちがみんな揃わないとシルビアは現れない。休暇が終わって去っていく家族もいるので、子どもたちが揃わなくなって、シルビアとはもう会えないなってところで終わる。

旅路

夫婦が電車の切符を買いに駅にやってくる。
知り合いに、この乗り換えでここに行くといいよと言われたので、それを買いに来るのだが、その話を聞いた夫が経由地も目的地も忘れてしまう。
なお、駅に着く直前くらいに、夫が妻に対して乗り換え内容を伝えているシーンがあって、読者は経由地も目的地も分かっている。その直後くらいに、夫がどっちも思い出せなくなり、夫が妻に対して、さっきお前に言っただろ、俺はこういうの忘れやすいからお前に言ったんだ、とか言い出すのだけど、妻もちゃんと覚えていない。
その夫婦のおぼろげな記憶から、駅員がサジェストしていって、なんとか最終的には切符を買うことができる。
なお、電車にはそこから乗るのではなく、さらに車で移動した別の駅から乗るという行程

昼寝

主人公ワンダは思春期の少女。唯一、主人公が女性なのではないか。というか、登場人物がほぼ全員女性だ。
夫婦が主人公になっている作品は、女性「も」主人公になっているとはいえたかもしれないが、基本的にはここまで全ての作品が男性主人公であった。
近所にいる友だちテレシータが、悪友みたいな感じで、叔母たちが顔をしかめるような性的な話題、サブカルチャーなどを共有している。
自慰行為を叔母に見られて手ひどく叱られたりもする。
少女2人の、ある種のシスターフッドというか、性的なものへの興味を描いているのだが、最後の最後で、主人公の性被害の記憶が描かれている。
三人称小説だが、主人公の意識の流れで描かれていて、時間がいったりきたりしながら、回想なのか現在時点の話なのか明示されないまま進行する。

短編小説とその周辺

コルタサルによる短編小説創作論
作品の構想がえられた瞬間を「(自分が)短編小説になる。」と形容している。
短編小説を書く作家と詩人との類似性を強調し、長編小説と区別している。

キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』

パリ議定書に基づき、気候変動に国際的に対処するために発足した組織、通称「未来省」の活動を中心に、気候変動に見舞われる2020年代後半以降の世界を描く。
火星三部作のキム・スタンリー・ロビンスンの新刊ということで、面白そうだなと思って読むことにした。
今まで読んだことのあるロビンスン作品は下記の通り。
キム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上下 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『グリーン・マーズ』上下 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『ブルー・マーズ』上下 - logical cypher scape2
ところでこの本、パーソナルメディアというところが版元で、ソフトウェア会社で出版も手がけているところだった。出版部門から出ているのほとんどが技術書で、小説はこの本が唯一とかなのではないか。ソフトウェア会社というかTRON関係の開発をしていて、本書の解説を坂村健が書いてたりする。


2025年、インドを破滅的な熱波が襲い、2000万人もの人々が死亡するというところから物語は始まる。
これをきっかけとして未来省が設立されることになる。
未来省トップに就任したメアリー・マーフィーと、インドでの熱波を体験し九死に一生を得たフランク・メイ、この2人が物語の主軸となる。
とはいえ、この作品の特徴的なところは、物語が無数の断片から構成されていく点にある。
106の節にわけられており、短いものだと1節あたり見開き2ページしかないし(とはいえ二段組みだが)、長くても10ページ程度だろうか。4~5ページ程度の節がもっとも多いのではないか。そんな感じで、比較的短い分量の節で構成されている。
(ところで、各節は数字が付されているだけで、小説の場合、こういう時は目次がついていない方が普通だと思うのだが、本書は目次がふされている。しかも、1行目の文の冒頭を便宜的にタイトルのように扱ってずらりと目次に並べられて、結構スゴイ)
節が変わるごとに、人称や語り手・語り口が次々と変わっていく。メアリーとフランクの物語は繰り返しでてきて、作品全体を貫く縦糸となっていくが、1回だけしか出てこない登場人物・エピソードも多い。そして、そもそも出来事・事項の解説みたいな節も多い。
このため、物語というよりノンフィクションに近い、という紹介のされ方もしている。
実際、事実をベースにしている部分もあり、ノンフィクションっぽいといえばノンフィクションっぽいが、ただ、意外と三人称の節は少なくて(メアリーやフランクが登場するところは三人称)、一人称のクセの強い語りが採用されているところが結構ある。そもそも、次々と語り手が変わっていくという手法自体、ノンフィクションではなくこの作品が小説であることを強調しているとは思う。
とはいえ、独特の小説であることは確かだろう。



本作品は、気候変動に立ち向かう人々の物語、のように紹介されていることが多く、実際、未来省は気候変動対策のために作られた組織であり、登場人物たちもそれを目的として行動している。
がしかし、筆者の目論見はむしろ、気候変動を奇貨として、人類社会がポスト資本主義へと移行する様を描くところにあったのではないだろうかと思われる。
実際、キム・スタンリー・ロビンスンは度々、未来社会としてポスト資本主義世界を描いてきた作家である。もちろん、それをいうなら環境問題にも関心を持っている作家なので、気候変動対策の話もまた間違いなく本作の主題ではある。
ただ、本書については、このポスト資本主義、もっとはっきり言ってしまえば社会主義への傾倒がはっきり見られる作品である。
まあ、だからどうということでもないのだけど、


メアリーは、元々アイルランド外務大臣経験者で、様々な分野の専門家が集まる未来省を束ねることになる。また、諸外国の(特に中央銀行の)トップとの交渉にも携わる。
本作はこういう作風なので、物語性は薄く、メアリーのドラマもあまり起伏は多くないのだが、彼女の物語で盛んに強調されるのが、アイルランド人であることだった。
メアリーの特徴ともされるアイルランド人っぽさって何なのか、欧米で生活したことのない自分にはあまりピンとこないが、スイスでアイルランド人が働くこと、というのが何某か意識されているように思う。
そう、アイルランド人っぽさとあわせて、スイスの国民性もまたしきりに強調される。
気候変動はグローバルな課題であり、未来省も多国籍な職場であり、国民性・国民の気質みたいなものをやたら気にするのも不思議と言えば不思議な話なのだが、火星三部作も、スイス人への着目みたいなのはあったし、ロビンスン的には何かしらの裏テーマなのかもしれない。あるいは、手癖か。
正直、自分にはアイルランド人っぽさとかスイス人っぽさとか言われてもあまりピンとこないところではあるし、逆に、アジア諸国への”解像度”は相対的に低そうだし、そこんとこどうなのと思わせる箇所でもあるが、ヨーロッパの中では小国であるアイルランドやスイスがキーを握っている、というところが何かポイントなのかなー。
それ以外の国だと、インド、中国、ロシアの作中でのプレゼンスが高い。
インドは、何せ2000万人の被害者を出しているので、未来省の動きよりも早く色々とやっている。太陽光を防ぐための大気への粒子撒布というジオエンジニアリングも、先に勝手にやったりしている(期間限定だが効果をあげる)。


国民国家的な枠組みは最後まで維持されるというかわりと重視されているが、その国民概念を支えるものとして、言語への注目もある。あまり、中心的なテーマではないが、言及自体は少ないが。
スイスは公用語が4つあるが、ロマンシュ語公用語としているのはスイスをスイスたらしめてるものの一つだろう、とか。


スイス話というと、ロビンスン自身がチューリッヒ滞在歴があるためか、チューリッヒへの愛着も結構強く描かれている気がする。チューリッヒという街の過ごしやすさというか。


さて、もう一人の主人公とでもいうべきフランク・メイだが、彼はインドで難民支援事業に携わっていたが、2025年の熱波に襲われる。人々とともに湖へと逃げるが、その町の住民はフランク以外全滅する。フランクは偶々生き残るが、それによりPTSDを発症する。
しかして彼は、いちどヨーロッパに戻るが、インドのテロ組織に入ろうとする。が、白人であるために断れる。それでも何かできることはないかと考え、メアリーを彼女の自宅で脅迫する。
フランクはその後うまく逃げて、チューリッヒ市内で逃亡生活を続けるが、最終的には逮捕される。メアリーは、収監されたフランクに面会するようになる。
この2人の不思議な関係が、物語の縦軸となる。
メアリーがフランクに対して最初に抱いた感情は、当然ながら恐怖であり、その後、面会に行ったのもその恐怖を和らげるためではあった。しかし一方で、脅迫時に彼から言われた「(未来省は)やれることを全てやっていない」という言葉は彼女の中に残り続ける。
メアリーは何故フランクと面会するのか、メアリーにもフランクにもその理由ははっきりとは分からないまま、この面会は2人の習慣となっていく。
次第にフランクは、刑務所の外にも行けるようになる(就労だかボランティアだかでだが、アルプスの山へ訪れることも可能で、門限さえ守れば結構自由そうな雰囲気がある)。
フランクに誘われて、メアリーはアルプスの山に動物を見に行ったりもする。
ついにフランクの刑期が終わると、彼はチューリッヒ市内の組合住宅で暮らすようになり、そうなってからもメアリーは定期的にフランクと会い続けた。
しかし、フランクには悪性腫瘍が発見され、メアリーは彼が亡くなるまで交流を続けることになる。メアリーはフランクのホスピスにおいて、かつて死別した夫との最後の日々を思い返すようになる。
メアリーは、未来省の長官として多忙な日々を送り続けるわけだが、フランクとの交流、そして彼の死を通じて、自分がかつて経験したある種のトラウマ(つまり夫の死)と再度向き合うことになる。メアリーが未来省トップから離れたあとも物語は続くが、彼女の第二の人生の始まりまで物語は描いていくことになる。
メアリーとフランクの個人的な物語は、この作品の本題である、人類がいかに気候変動に立ち向かうかという物語とはあまり関わりがない。むろん、メアリーとフランクに人生は、気候変動に大きな影響を受けたものであるが、メアリーにとってフランクとの面会はあくまでもプライベートに属するものだし、フランクの脅迫は表立ってメアリーに政策・仕事に影響は与えていない。しかし、ともすればマクロな話一辺倒になりがちなテーマの中で、彼らの物語が、個人に着目する視点を与えてくれる。


テロ
気候変動にいかに対応するか、本書が提案するのは、氷河の融解を食い止める技術であったり、炭素回収へのインセンティブとなる金融政策であったりするわけだが、地味に効果をあげているのが、実はテロである。
ある時期に集中的に富裕層の個人ジエットなどを対象とした攻撃が行われ、航空機需要がガタ落ちするのである。
これの犯人は不明である。
なお、未来省の中には汚れ仕事を担当する裏の部署が存在することが示唆されている。ある時期に、メアリーは、この部署を取り仕切っている部下からその存在を示唆されるのだが、これはメアリーが言うように迫ったからであり、この部下は、こういう部署の存在はトップが知らないことこそが重要なのだといって、その詳細は決して明かさない。
そして、基本的に未来省のことは、メアリー視点で描かれるので、読者もそれ以上のことは分からずじまいである。
テロ、ということでいうと、フランクによる脅迫事件以外にも、未来省庁舎への爆弾テロなどが起きる。この際、メアリーはスイスのシークレットサービスの手によって、アルプスへと避難させられる。登山経験のない彼女は辟易するのだが、最終的に、山中に隠された空軍施設でスイス内閣の大臣たちと面会することになる。未来省だけでなくスイスにある国連機関が攻撃を受けていて、これに対して、スイスは「スイスへの攻撃だ」と徹底抗戦の姿勢を示したためである。
これはメアリーにとっても未来省にとってもスイスにとっても転機になる出来事として描かれている。
他には、ロシア人によって未来省の幹部職員が暗殺される事件もある。
本作の中のロシアは、基本的にプーチン失脚後のロシアであって、国際的な枠組みに基本的に強調してくれる、良いロシアとして描かれるが、それをよく思っていない守旧派もいて、そちらの仕業、という話


前半は、氷河の融解をどうやって阻止するかという話が、技術的な話としてはわりと中心で、氷河と地面の間にある水をくみ上げて、氷河が滑り落ちるのを阻止する、という策をやっている。


巻末の坂村健の解説でも触れられているが、本書は、原子力への言及が少ない。
というか、温暖化ガスを減らすにあたって、エネルギー問題をどうするかはかなり重要なファクターなはずだが、ほぼ「クリーンエネルギー」の単語だけで濁している。
クリーンエネルギーの内実は、少ない言及から察するに、太陽光発電と思われる。
インドでは大規模な太陽光プラントができたというような話が書いてあった気がする。
エネルギー問題より、空気中からの炭素除去技術とかのイノベーションとかについての言及が多い。
核融合については、本作のタイムスパンの中では実用化されない、という見込で外されたのだとは思うし、作中の未来省があんまり検討していないのもそのせいかと思う。
通常の原子力については謎といえば謎。
アメリカの原子力空母への言及はあるのだが、これは南極の基地として使われるようになる。
航空機や船舶も、電力飛行船や電力船に移行していて、主に太陽光で賄っているっぽい。


動物保護
後半からは、かなり動物保護運動への言及が増える。
生息回廊やハーフ・アースプロジェクトなど(いずれも実在するプロジェクト)
物語の後半の年代では、地球全体の人口自体が減少フェーズに入っている模様。
そういえばキム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2も動物保護的なイメージが使われていたなーと思うので、ロビンスンの好きなモチーフなんだろうな、と思う。
まあ、メアリーとフランクがアルプスに野生動物見に行くシーンも、効いているのかなとも思う。


ポスト資本主義
本作で一番中心的に描かれる気候変動対策は、カーボンコインである。
空気中の炭素を回収するとその量に応じて発行される通貨で、炭素回収へのインセンティブとするものである。これと炭素税の組み合わせで、石油資源を負債化させる(燃焼させると損する。採掘をやめると得する)ようにもっていく。
金融理論的には、量的緩和政策の一種であり、MMTも作中に出てくる。
連邦準備銀行欧州中央銀行、中国財政部に、いかにこの政策を実行させるか、というのがメアリーと未来省の腕の見せ所となってくる。
未来省では、既存のSNSに代わる分散インターネット的な仕組みを構築する。ネットワーク上の個人情報を個々に管理できるブロックチェーンで、ここに決済システムを組み込むことで、グローバルな電子通貨システムを生み出すのである。
カネの流れを完全に追跡可能にして、は富裕層の「逃げ道」を防ぐのに用いられる。
カーボンコインで何かしらズルされるのを防ぐというのもあるが、それ以上に本書では、貧富の格差を縮小させることも目的として描かれる。作中では「マルクス主義DX」なる単語も出てくる。
経営者と従業員の賃金格差を10対1まで縮減させる政策とか。
また、一部インフラについては国有化の方向に舵が切られ、また、様々な組織が協同組合化していく。
パリ占拠(2030年代のパリ・コミューン?)であったりとか、アメリカでの学生ローンをめぐるストや中国の十億人労働者による天安門デモなどが世界的に連鎖して発生したりとかいったエピソードも出てくる。アフリカ連合による鉱山の国有化エピソードとか。



人間以外の何かによる一人称で語られる箇所が何カ所かあったりする(光子、暗号、市場など)。
鍵括弧なしで、対話篇のように描かれている節がいくつかある。
未来省の会議などの議事録、という体裁の文章も何か所か。
「読者への課題とする。」とかいった文が出てくる節もあった。


〈2000ワット社会〉、新しい様々な指数、認知エラー、ジェボンズパラドックスなどなど……
(タイムリーにこんな記事。
国連報告書“国民の豊かさ”日本24位 世界は格差拡大し二極化 | NHK | 国連人間開発指数」は、本書でも言及があった気がする。それにしても1位がスイスというのがまたなんとも)



1節で完結する掌編小説的なのもたくさんある。
あと、場合によっては、語り手が同じなのかな、と思わせるものもあるのだが、固有名詞が出てこなかったりするからよくわからない。
色々なエピソードがあるが、
難民の話が何回か出てくる。北アフリカあたりからスイスへ移動してきた人・家族の話。結構面白かった記憶。
ダボスに集まってる富豪たちが突如軟禁されて「再教育」を受けるエピソードも
ロサンゼルスで大洪水が起きて、語り手がカヤックに乗って、遭難してる人を救助してく話とかもあった。同じように船持ってる人たちが協力し合って、高速道路まで連れていくという。これも面白かった。
かなり最後の方、メアリーがもう退職したあとだったと思うが、「〈ガイア〉の日」という、全世界で同時に歌うイベントなのもあった。未来省は、金融政策とかだけじゃなくて、宗教的なものも必要だと考えていた(ただし、〈ガイア〉の日は未来省発のイベントではない)

ルーシャス・シェパード『タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短編集』

竜のグリオールシリーズから「タボリンの鱗」「スカル」の2編が収録されている。短編集とはいうが、「スカル」は中編サイズだと思う。
ルーシャス・シェパード『美しき血(竜のグリオールシリーズ)』 - logical cypher scape2の訳者あとがきを読んだら、「タボリンの鱗」関係の部分があったようなので、こちらも読むことにした。
刊行順としては『タボリンの鱗』が先で『美しき血』が後なのだが、それとは逆順で読むことになった。しかし、それがわりと正解だった気がする。作中世界の時系列順としては、大ざっばにいうと『美しき血』→「タボリンの鱗」→「スカル」なので。
(ただし、「タボリンの鱗」はタイムスリップしているので単純にこの順ではないし、『美しき血』には「タボリンの鱗」よりもあとの出来事も出てくる)
どちらの作品も、確かに、いわゆるファンタジーを期待して読むと困惑するだろうが、しかし、個人的には結構面白かった。
また、全然ファンタジーではないか、といえば、そういうわけでもない。
「タボリンの鱗」は、はっきりと竜のグリオールが直接暴れる話だし、
また、「スカル」は確かに現在の中南米の政情不安をそのまま描いたような作品で、また「アメリカ」への批判・風刺みたいな側面もあるのだろうけれど、しかし、あのラストとか、やはり竜がいた世界だからこその味というか、昏い魔力への願望みたいものがなんとなく漂っている。

タボリンの鱗

古銭を扱うジョージ・タボリンという男が、グリオールの麓の娼館でシルヴィアという娼婦と出会う。たまたま手に入れたグリオールの鱗をいじっていると、なんと2人は、グリオールがまだ若い竜だった時代へとタイムスリップしてしまう。
グリオールは横たわっておらず、テオシテンテもまだない時代の原野で、まだそこまで巨大化しておらず自由に空を飛び回っているグリオールに、2人は突然追い立てられる。
こうして2人のサバイバル生活が始まるのだが、この平原には、彼ら以外にもやはりタイムスリップしてきた人たちがいることを知る。
タボリンは、そうやってタイムスリップしてきた家族の娘が虐待されていることに気づき、彼女を保護する。こうして、タボリンとシルヴィアはその娘ピオニーとともに疑似家族のようなものをつくっていく。
最後、再び元の時代に戻ってくると、グリオールがテオシンテを焼き払っているところに出くわす。このテオシンテの最後は『美しき血』では、簡単に記述されているにとどまっていたところだったが、こちらで詳細に記述されている。
最期の断末魔のようなもので、グリオールはいよいよ本当に死ぬのだが、その過程で何千人もの人々を焼き殺している。大火災が発生し、そしてグリオールは崩れ落ちた。
(若い方と死ぬ直前の両方の)グリオールの物理的パワーを味わうことのできる作品となっている。
ところで、シルヴィアがグリオールの不思議な力について、とある本から引用してタボリンに語るシーンがあるのだが、その本の作者が、何を隠そう『美しき血』の主人公であるリャルト・ロザッハーである。ただし、本作では「リチャード・ローゼチャー」と訳出されている。これは『美しき血』の訳者あとがきの方でも触れられていて、「タボリンの鱗」ではリチャード・ローゼチャーと訳したけど、『美しき血』でドイツ人だと分かったのでリヒャルト・ロザッハーとした、と。
また、本作は脚注が度々挿入されているのがちょっと面白い。上述のロザッハー(ローゼチャー)についても脚注で触れられている。また、メリック・キャタネイのグリオール毒殺計画が、テオシンテの財政にとって大きな負担となり、それにより周辺の都市国家との武力衝突につながった旨の注釈もある。このあたり『美しき血』ではカルロスがそれらしきことをいっていたかなと思う。
注釈の中では、南極圏バイカル湖にも竜がいる、ということが述べられていて、この世界がやはりこの現実世界の中に位置づけられていることが分かる。
一番最後の節が、シルヴィアの著作からの抜粋で、後日、シルヴィアがタボリンとピオニーのもとを訪れた話になっている。
グリオールが死んだあと、その遺体はばらばらに切り裂かれてあちこちへと売りさばかれたのだが、タボリンはこれによってグリオールは地球中を支配するようになった、という。
グリオールの力を信じるかどうかで、シルヴィアとタボリンの立場はいつの間にか逆転していた。

スカル

タイトルのスカルは、グリオールの頭蓋骨(スカル)のこと。
なんと舞台は21世紀(2000年代~2010年代頃)である。
グリオールが死んだ後、その亡骸は切り取られてあちこちに売却されていったが、頭蓋骨はテマラグアの皇帝のもとに運ばれた。テマラグアはその後、カルロス8世、アディルベルト1世、2世、3世と続き、アディルベルト4世の代で君主制が廃止される。そして、1960年代には頭蓋骨のあるジャングル周辺に、まるでグリオール周辺にテオシンテができたように、再び街(シウダ・テマラグア)ができあがる。
その街でとある奇妙な教団を率いた女性ヤーラと、ヒッピー崩れのアメリカ人男性スノウとの物語となる。
冒頭、グリオールが死んでから現代までの期間についての歴史が足早に語られたあと、ここからはヤーラという女性についての物語だ、といって、憶測と風聞と創作混じりの話になる、と釘を刺して始まるのが、結構ワクワクする。
基本的に3人称で書かれているが、第2節だけは、スノウの回顧録からの抜粋という形をとっている。
物語の最初、ヤーラは、グリオールの頭蓋骨に住み着いている少女なのだが、その周辺には彼女とグリオールの「信者」たちが自然発生的に集落を形成している。また、彼女は多額の現金を誰かに渡している。
スノウは、テマラグアに流れ着いてきたアメリカ人で、女好きの冷笑家の無職というクズっぽい奴なのだが、ヤーラに惹かれてしばしの間、グリオールの頭蓋骨で同棲するようになる。しかし、この頃のヤーラは、たびたび宗教的トランス状態に陥ることがあり、スノウは、周辺の信者たちの信仰にものれず、疎外感と恐怖を感じて逃げ出してしまう(スノウは、ジョーンズタウンを想起している)。
アメリカの実家に戻ったスノウは、やはりそこでもろくに仕事をしてないのだが、雑誌にテマラグアでのヤーラのことを回想した記事を書いていて、それが第2節に抜粋されている。
テマラグアで、スノウは、とあるゲイバーに入り浸っているのだが、そのゲイバーには人妻が夜遊びしにきていて、スノウはそっちが目当て。ただ、この人妻たちは、右翼や軍人の妻たちなので、手を出すとヤバイとかなんとか。
スノウが、シウダ・テマラグアに滞在していたのは2002年から2008年とされている。
で、10年後、スノウは、中米のとあるカルト教団が突如消えたというゴシップ記事を見つけて、再びテマラグアを訪れるのである。
(なお、この記事の中で、グリオールの頭蓋骨は、メガラニ*1属の頭蓋骨と書かれている)
ゲイバーのマスターから、今のテマラグアでは、POV(組織暴力党)が勢力拡大しており、ゲイは生きにくくなっていることや、ヤーラについて聞き回るのはやめるように言われるが、スノウはその警告を軽視する。
当時ヤーラが現金を渡していた相手がPOVであることが分かる。そして、ゲイバーのマスターはPOVに殺されてしまう。
この頃、スノウは英語講師をやっていたのだが、教え子の母親と親密になりかけていた。彼女の夫がPOVの幹部であったので、スノウはついにその母親と関係をもって、POVについての情報を探る。そして、田舎の村に、ヘフェ(指揮官)とだけ呼ばれる謎の男がいることが分かり、スノウはその村へと向かう。
果たしてヘフェと遭遇し、半ば無理矢理ヘフェに連れて行かれると、そこには大人になったヤーラがいた。
ヤーラによれば、頭蓋骨が消滅したあと、そこに倒れていたのがヘフェだったという。グリオールの生まれ変わりだとヤーラは信じている。彼女はヘフェを育て、今ではヘフェの使用人のような存在になっている。ヘフェは残虐で、この村の男たちをみな殺しているが、ヤーラはヘフェをこの国の指導者にしようと考えているようだった。
スノウは、ヘフェの客としてヘフェの家に泊まることになる(ヘフェに軟禁されている、といってもいい)。再び、ヤーラと寝るようにもなる。
ヘフェの家には奇妙な部屋があって、そこでヘフェは「空を飛んでいる」。その部屋は、非常に天井高の高い部屋で、鎖が何本もぶら下がっており、ヘフェはそれを掴んで跳躍しているのだが、その様子がほとんど「空を飛んでいる」ようなのだ。そしてまた、ヘフェはその部屋で人を殺してもいる。
最終的に、ヤーラとスノウは協力してヘフェを殺すことに成功する。
トラックに乗って2人が走り去るシーンで終わるのだが、そこでは残虐な男の支配から逃れられた解放感を覚えつつも、竜の復活をどこかで願っているという喪失感もないまぜになっており、なかなかビターで味のある結末になっている。
ところで、このヘフェの、人間の姿をしているけれど人間離れした身体能力と性格をしているところと、最期、致命傷を負いながらもなお歩き出して逃げようとしたところをマチェーテで斬られるところに、どことなく寄生獣っぽさを感じた。


最後に筆者の覚え書きがあるのだが、シェパードは実際にグアテマラ滞在経験があり、ゲイバーについてのエピソードやPOV幹部の妻との関係についての話が、その頃の実体験をベースに書かれているらしい。POVも実在する政党だとか。また、テマラグアがグアテマラをもとにした名前だというのも明言されていた。
覚え書きの最後に、在グアテマラ・スペイン大使館占拠事件(1980年)について触れられていて、何だそのヤバイ事件は、と思って、Wikipedia読んでみたら、まじでやばい事件だった。農民と労働者が窮状を訴えるために首都で抗議行動を行い、そのままスペイン大使館を占拠し、スペイン大使や元副大統領を人質にとった。が、グアテマラ政府はスペイン大使、元副大統領がいるにもかかわらず、大使館を焼き討ちに。大使はかろうじて逃げ延びたが、元副大統領やスペイン領事は死亡し、スペインはグアテマラとの国交を断絶した、という事件……。
シェパードは、この事件が起きたときにグアテマラにいたらしい。
ところで、本書巻末に池澤春菜の解説があるのだが、池澤春菜池澤春菜で、2019年のチリ暴動に巻き込まれた話を書いている。

グリーオルシリーズ

sakstyle.hatenadiary.jp
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*1:ググってみたところ、オーストラリアに生息していた絶滅したオオトカゲらしい