『団欒』/乃南アサ

本書を読み終えた後、私はなぜ父と母、そしてたった一人の兄弟である兄のことを家族として受け入れ、好きになることが出来たのだろうと不思議に思った。
解説で有吉玉青さんも述べているように、父と母は互いに好き合って結びついたわけだから一緒にいる理由はまだわかるが、それ以外の家族のつながりは単に血がつながっているだけに過ぎないのである。だが、人々はそのことについて深く考えずに、家族という名の絆を信じこみ、ことあるごとに「家族なんだから」と言いたがる。それは、ある意味では少し不気味な光景だ。
「ママは何でも知っている」では、恋人の加奈の家に婿として迎えられた優次が、その家族の異常な仲の良さに葛藤する。彼女の家では、歯ブラシは家族共有で、いくつになっても家族で一緒に風呂に入り、極めつけには夫婦間の性生活についてまで家族にあけすけに話す。優次がたまに反論して見ても、「家族なんだから」の一言で片づけられてしまう。大した理屈もない安直な一言で済んでしまう家族という絆が不思議で仕方がない。
また、「ルール」と「団欒」では、この家族と言う不可解な絆によって、とんでもない団結力が生まれる。息子が急に潔癖になったのをきっかけに、母と娘まで潔癖になって家の中を清潔極まりなく大改造を始め出す「ルール」。そして、家族間で家の中を清潔に保つためのルールを立てるが、このルールを守るのが一番厳しいのが父である。家族のために働いて疲れて帰宅してそのまま寝てしまうと、翌朝娘からは汚いとののしられ、息子には白い目で見られる。こんな不憫な父親がどこにいるであろうか。いや、最近の家庭ではどこも父を汚いもの扱いしたがるか。そして、父に聞こえるくらい大きな声で、「父を隔離しよう」などと相談事をする。「家族だから家族内のルールくらい守れ」と言われれば、それまでかもしれないが、なぜ単に血がつながっているに過ぎない息子のわがままに付き合う必要があるのであろう。しかし、優しい父は心身共にぼろぼろになるまで家庭内ルールに付き合ってしまう。
息子が恋人を誤って殺してしまった、そこから物語が始まる『団欒』。そう告げられて父がまっさきに考えたことは、自分の保身であった。父と同様、母は今後日の当らない場所で暮らしていくことになるであろう自分の身を心配し、妹は兄が犯罪者ということで将来結婚できなくなると自分の不幸を嘆く。そして当の兄は、恋人の死を悲しむのではなく、自分が家族から軽蔑されることを一番に恐れている。利害が一致して、死体を始末することになるが、家族という絆によって、このような非情な団結力が生まれるから恐ろしい。
これら三つの物語は、家族の不気味さを鋭く突いている。そんな中で、曙光を見せてくれるのが「出前家族」だ。意地悪な息子夫婦と三世帯住宅で暮らす實は、ある日突然現れたレンタル家族の優しさに触れ、レンタル家族を本物の家族と信じ込むようになってしまう。家族である自分に不当な扱いをする本物の家族よりは、嘘の家族でも暖かい家族の方がいいと言うのである。この實の主張こそが、「家族」というつながりに明確な答えを出している。私たちが、「家族なんだから」の一言で様々な事を片づけてしまうことができるのは、それまでにお互いに助け合って共に生きてきたことで絆がいつの間にか育っていたからなのである。そう、「家族」という名の絆は、生まれた時から存在するものではなく、生まれてから一緒に育てていくものなのである。単に血のつながりがあるだけで、家族の絆を主張している家族などは、本当の家族とは言えないのだ。

団欒 (新潮文庫)

団欒 (新潮文庫)

『Tiny Stories』/山田詠美

本作は『文学界』で連載されていた短編小説のアソートであり、そのコンセプトは「すべて違う文体、違うイメージで」とのことだ。目次を開くと、1から5まである『GIと遊んだ日』という短編にはさまれて、さらに16の短編小説が並んでいる。16の作品はまるで飴玉かチョコレートのアソートのように、タイトルはばらんばらんだ。その様子はタイトルごとに鮮やかな違った色がついているかのようである。
どれから読もうか迷いつつも、まずは順当に1話目の『マーヴィン・ゲイが死んだ日』、続いて2話目の『電信柱さん』。前者は『僕は勉強ができない』を連想させるような一家のほのぼの話である。後者は一風変わって、本来生命を持たない電信柱にも感情があり、電信柱の視点で話が展開されている童話のような作品だ。短編集だと、こうも順序通りに読むことに飽きてしまったので、カラフルなパレットの中から、いかにもハッピーになれそうなピンク色を連想させる『LOVE 4 SALE』を選んでみたり、一体どういう話なのかと謎だらけな『にゃんにゃじじい』を唐突に選んで読んでみたりした。短編集だとこんな読み方が楽しめるのもいいところである。
そして、数あるタイトルの中でも注目したいのが、過激なタイトルで一際目立っていた『クリトリスにバターを』である。本タイトルは、もともとは村上龍氏がデビュー作『限りなく透明に近いブルー』につけようとしていたが、あまりに卑猥すぎるとの理由から却下された幻のタイトルなのだ。実はこの『クリトリスにバターを』と続く『420、加えてライトバルブの覚え書き』が視点を変えたセット作になっている。作中に出てくるカルピスバターという言葉を聞いた詠美さんの知人が村上龍氏の幻のタイトルを思いだしたことから、このタイトルをつけたという。
全体的に、著者の少し前の短編集である『色彩の息子』を思い起こさせる本であった。愛や幸せを追究したがゆえにちょっぴり残酷な結末を迎えるという物語が多い。ただ、『色彩の息子』と異なる点は、要所要所に散りばめられた『GIと遊んだ話』が唯一著者の体験を交えてピュアに描かれており、そこだけ残酷さが微塵も感じられない点であろう。
5つある中で最も気に入っているのが1つ目のGIにまつわる話だ。明日の船で横須賀を出るという恋人のカーティスとの別れを惜しむべく、多美子は最後の晩に最高のセックスをしに出掛ける。そこで何とも不思議な純和風の連れ込み宿を見つける。多美子は部屋に通されるやいなや妙な気配を感じる。女の淫靡な視線を。なんと、そこはかつて羅紗緬が西洋人と目交っていた場所であったのだ。だが、カーティスはそんな気配に全く気付かず、むしろ部屋の佇まいや朱色の寝巻にすっかり気分を高揚させ、多美子を愛することに懸命になっている。翌日カーティスは船で日本を出た。その後も多美子はその宿が気になり、別な男と連れだって繰り出すも、まるで狐につままれたかのように一向にその宿を見つけられない。後にハワイに停泊しているカーティスから手紙が届く。手紙には「また、きっと、いつか。ぼくたちの西瓜小屋で。」と書かれていた。それを読んで多美子は、「もしかしたら、カーティスと一緒でなければあの宿は見つけられないのかもしれない。」と考え、またカーティスとあの宿で愛し合える日を待ち望むも、それは叶わなかった。カーティスは本当の戦争に行ってしまったのである。少し切ない話であった。
5つのGIの物語には、共通してヴェトナム戦争湾岸戦争の話題が出てくる。著者が過去に知り合ったアメリカの軍人たちから聞いた戦争についての話がどうしても気になって、ぜひ文章で残さなければと思ったからであるという。これまで知り合ったGI達から聞いた話を鮮明に思い出し、それらをつなぎ合わせて戦争に関わった人々の感情についてよく書いている。山田詠美と言ったら、黒人との恋愛物が多い印象が強く、素敵な恋愛模様が毎回描かれているが、本作ではどちらかと言うと戦争の方が大きく取り上げられている。著者らしい恋愛物短編集かと思いきや、自由奔放に散っている16の短編を仕切るように立っている5つのGIにまつわる物語には、このような深い著者の思いが託されているのだ。

タイニーストーリーズ

タイニーストーリーズ

『泥棒猫ヒナコの事件簿 あなたの恋人、強奪します。』/永嶋恵美

別れさせ屋」という言葉を聞いて、去年の春に起きた「別れさせ屋殺人事件」を思い出した。夫に仕組まれた別れさせ屋によって、一人の女性が命を落とした事件の真相は何とも切なかった。単にだますつもりが、ミイラ取りがミイラ取りになってしまった被告。不謹慎かもしれないが、一見ロマンチックな事件にも思えた。

日本調査業協会によると、「別れさせ屋」は全国に約250存在していると言う。探偵業者同様に素行調査をし、さらに疑似恋愛する主役が現れ、脇役の工作員を使いシナリオを演じる。事件を機に、協会は人の生活の平穏を害し、個人の権利利益を侵害するなどとして、「別れさせ工作をしてはならない」と自主規制しているが、非公式の業者がほとんどであるため完全規制は難しいのが現状だ。加えて、需要があるのだからそういった業者がなくならないのは、仕方のないことなのだろう。

普通の人なら、大金を払ってまで「別れさせ屋」を雇うことは馬鹿らしいと考える。しかし、中には大金を払ってまで誰かに依頼しなければ、別れられない不幸な人間という者がいるのである。そんな不幸な人間が大勢本作には登場する。

『あなたの恋人、友だちのカレシ、強奪して差し上げます。』という奇妙な文面の女性専用広告に導かれて、登場人物たちは泥棒猫の皆実雛子に仕事を依頼する。「DVの彼氏と別れたいため」「親友に彼氏を横取りされて、その腹いせのため」「変な男につかまった姉の目を覚ますため」と事情は様々である。料金は、基本料金が10万円、オプションが入ってくると20万を超すこともある。料金は高いが、プロの雛子の手にかかれば単に問題を解決するだけではなく、依頼者の心のケアまでついてくる。雛子の人を分析する能力が非常に長けていて、雛子の前では依頼者の本心や嘘などは見え透いており、依頼者含め別れのシナリオは雛子の手中にある。手のひらで転がされているかのように、まんまと操られるターゲットは滑稽でもあり、時に哀れにもなる。

雛子の経営する業者は、現実に起きた事件のような悪徳業者ではなく、正義のための別れさせ屋であるところが本作のすがすがしいところである。現実的に考えれば、かなり怪しい広告であることは間違いないが、そこは小説と言うことで楽天的に考えよう。ただし、6つ目のストーリーは少々犯罪の臭いがあるので、意外な展開が待っているので、心の準備をして読むことを勧める。

泥棒猫ヒナコの事件簿 あなたの恋人、強奪します。 (徳間文庫)

泥棒猫ヒナコの事件簿 あなたの恋人、強奪します。 (徳間文庫)

『痴人の愛』/谷崎潤一郎

本作は谷崎潤一郎の作品の中でも、特に彼の西洋への憧憬が色濃く現れている。
 私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私たち夫婦の間柄について、できるだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いてみようと思います。
これが『痴人の愛』の書き出しである。ここから、主人公である河合譲治の、西洋美を追求するあまりの破滅のストーリーが幕を開ける。
譲治は独身で、生まれてこのかた女と交際したこともなく、平凡な日々を送っていた。電機会社の技師として仕事をし、物欲というものが生まれつきなかったため、別段お金に困るということもなかった。だが、ある日、偶々入ったカフェエで給仕をしていたナオミと出会ってひと目惚れをし、譲治の人生は転落の一途を辿ることになる。ナオミは十五の歳であった。それに対し譲治は二十九歳。二人が交際をするにはあまりにも歳が離れすぎていたが、譲治にとってはこの世に女はナオミ以外に考えられなかった。というのも、譲治は強い西洋嗜好の持ち主であったからだ。音楽や身なり、暮らしまでも西洋の真似をしていた譲治にとって、ただ一つだけ足りないものは、西洋風の妻であった。ナオミは混血児のようないでたちをしていた。手足は同世代の寸胴な女たちとは違い、まっすぐに伸びており、目鼻立ちもくっきりとしていた。そして何より、色白い肌の持ち主であった。貧しい家庭環境にあったナオミは、お金があれば英語と音楽の勉強がしたいと譲治に言う。そこで譲治は、ナオミを引き取って学校に行かせてやり、自分好みの西洋風の女に育て上げて結婚してしようと目論むのだ。
 これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿馬鹿しいと思う人は笑ってください。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身は、ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。ナオミは今年二十三で私は三十六になります。
という文で締めくくられている。締めの文章から、譲治の自虐的な一面がうかがえる。譲治の容姿は、お世辞にも美形とは言い難かった。肌の色はどす黒く、背丈は低く、そして猿のような顔つきをしていた。家でナオミと二人でいる時は自分の容姿のことを考えることもないのだが、ナオミと連れだってダンスホールなどに行く時には、いつも気後れしていた。そして、その気後れからナオミに常に気を使い、譲治が気を使えば気を使うほどナオミはつけ上がった。ナオミに必要以上に肥しを与え過ぎたために、気品のある女性を通り越して、淫婦に成長させてしまった。その妖艶なナオミの姿は、谷崎の初期の代表作でもある『刺青』の女郎蜘蛛の刺青が象徴する「悪」と「美」との不思議な諧和を思わせる。
「馬鹿馬鹿しいと思う人は笑ってください」や「ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方ありません」という自分を評している点から、自分を客観視して評価しており、ナオミに溺れつつも一定の理性は保てていることが分かる。自分でも愚かな行為をしているとも思いつつ、これが自分の生き方であるとある種開き直って見せている。作者である谷崎は、譲治を通して、自身の西洋崇拝ととことん美を追求することの陶酔の喜びを描きたかったのではないだろうか。谷崎は『刺青』の中で、「『愚』と云う貴い徳を持って」と書いている。谷崎にとっては、内面ではなく、外面の美のみを追求する愚かな行為は、非難されるものではなく、貴い徳であったのだ。

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

『俺は非情勤』/東野圭吾

本作を読み終えた後、東野圭吾のその作風の多様性に感服した。東野圭吾と言えば、最近では一番の売れっ子作家で、探偵ガリレオシリーズや新参者シリーズ、映画の公開を控えた「白夜行」、そして99年に日本推理小説作家協会賞を受賞した「秘密」が有名である。
シリーズ化された前者二作については、その内容の面白さだけでなく、主人公のユーモア溢れるキャラクター性が読者の心をつかみ、シリーズ化に至った。方向性でいえば、赤川次郎の三毛猫シリーズのようなものである。「白夜行」は東野作品の中でも超大作で、登場人物がページを追うごとに増していき、それと共に場面の切り替えも頻繁に行われるので、メモを取りながら読み進めないと、ストーリーの展開について行けない程であった。「秘密」は東野作品では珍しく一切ミステリーの要素は含まず、恋愛の要素が強い。
そして、本作はジュブナイル小説だ。学習研究社の学習雑誌「5年の学習」「6年の学習」に連載されていた作品で、私のような大学生が本来読むべきものではないとも思われるが、そんなことはない。ティーン向け小説ということで、内容自体は少々子供じみたな内容であるにも関わらず、始終名前は明かされない主人公である非常勤講師のハードボイルド性によって、作風が引き締められ、大人でも十分楽しめる内容になっている。
1章から6章で構成されており、タイトルは「6*3」や「ウラコン」など一見して一体何のことを指しているのかわからないような付け方がなされており、読者の興味を引く。主人公はストーリーごとに、勤務する小学校が変わり、担任する学級の雰囲気もそれぞれ違う。共通することは、どの学級にも問題があるということと、必ず何かしらの事件が起こるということだ。
第1章「6*3」では、勤務早々職員室で隣の席の女教師が体育用具室で殺されているのが発見される。女教師の遺体わきにはスコアボード用の数字板と紅白の旗で形作られた「6*4」というダイイングメッセージと思しきものが残されていた。並行して、クラスではいじめ問題が浮上していた。そして、結果としてこのいじめ問題が思わぬ事件の解決の糸口をもたらす。ダイイングメッセージと聞くと、昔は推理小説の一つの手として流行したが、最近ではあまり使われなくなった。ただ、ティーンの興味を引くにはとても効果的なストーリー展開の一手で、今でも小中学生向けミステリ小説では用いられることが多い。
第2章「1/64」では、担任するクラスで起きた盗難事件から子供たちの秘密が浮かび上がる。子供達が口にする「1/64」というキーワードから、事件の真相を暴く。
第3章「10*5+5+1」では、学級の異様な大人しさから、前担任の自殺とも思われる事故死に疑問を抱く。主人公の徹底した調査で団結したクラスメイトに一人立ち向かう。
第4章「ウラコン」では、飛び降り自殺未遂を起こした女生徒が飛び降り前日に電話で友人と思われる人物と「ウラコン」という謎めいた言葉を交わしあってたという母親の証言から、主人公が事件を究明する。
第5章「ムトタト」では、運動会と修学旅行という一大イベントを控えた学級に、「修学旅行を中止にしないと自殺する」という趣旨の脅迫文が届く。主人公の”オレ”が真っ先に目を付けたのは、手紙の第一発見者の体育委員長で運動神経抜群の中山と運動音痴だが将来は映画監督になりたいと考えている矢野の二人だ。二人の心情を読み解いて、事件を解決に導く。
第6章「カミノミズ」では、クラス一明るくひょうきん者として人気のある男子生徒が、机に入っていた「神の水」と書かれたペットボトルの水を飲んで倒れた。水からはヒ素が検出された。クラスの4人の生徒と学校周辺をうろつく猫、そして近所に住む男の意外なつながりから事件の真実が浮上する。
ざっと、各章の内容を紹介してみたが、どうだろう。先にも述べたように内容的には少々子供じみたストーリーだと感じた方も多いのではないだろうか。ただ、東野圭吾のすごいところは、作風を一つに特化せず、「白夜行」のような憎悪の物語から本作のような無邪気なジュブナイルミステリまで幅広く書けるという点だ。多くの作家の場合、一つの作風しか書かないのがほとんどだ。例えば、乃南アサは人間の隠された狂気を書き続けているし、貴志祐介にしてもサイコホラーものばかりを突き詰めている。その結果、両者は一定のファン層にしか受け入れられていない感がある。貴志祐介に至ってはその作品の多くを角川ホラーから出版しており、そもそも角川ホラー自体が固定ファンに向けられたカテゴリである。
白夜行」と本作「俺は非情勤」という内容的に大きく隔たった二作を書きあげる東野圭吾の頭の中身はどうなっているのだろうか。基本的にはミステリを専門にしつつも、恋愛ものや青春ものまでジャンルを問わずに平気で書きあげる力量にはすごいものがある。それは、長かった下積み時代の賜物であるのかもしれない。

おれは非情勤 (集英社文庫)

おれは非情勤 (集英社文庫)

『食わず嫌いのためのバレエ入門』/守山実花

昨今バレエが女性のエクササイズとして注目されている。熊川哲也が主宰するKバレエカンパニーでも大人の初心者コースが開設されており、仕事終りのOL達などで平日の夜はごった返している。
バレエダンサーを見てわかるとおり、彼女らの肢体はとても美しい。手足と首は長く、頭が小さい、そして何より全体的にほっそりとしている。だが、細いだけではなく、薄い皮膚の下には鍛え上げられた筋肉が隠されている。華やかな舞台上のダンサー達はいつも笑顔を忘れず軽やかに動きまわっており、一見楽しそうに踊っているように見えるが、その裏では絶えまない努力を欠かしていない。バレエのポーズ一つとってみても足の筋肉を細部まで駆使しないと、キープするのは厳しいものばかりである。また、ポーズだけではなく、跳躍やピルエットでも強靭な筋肉が必要とされる。特に、東洋人においては西洋人と違い、生まれつき足が湾曲しているためバレエ技術の基礎の一つアンドゥオール(足全体を股関節から外側に開くこと)をするにしても大変な訓練が必要とされる。そしてその厳しい訓練を乗り越えたあかつきにあのしなやかな肢体を手にするのだ。
本書はタイトルの通りバレエに対して食わず嫌いになっているあるいは、バレエを勘違いしている人たちのために書かれた本であるとともに、バレエを好きになり始めた者達の入門書でもある。わたし自身バレエの魅力に気付いたのは数年前から愛読しているバレエ漫画がきっかけなので、バレエに関して詳しい知識は身につけていないし、バレエを習うつもりも今のところはないので技術についてもさして興味は無い。だが、本書の中では技術や振付家・ダンサーについての解説の他にもバレエ作品についての解説がなされており、技術に興味の無い私のような者でも楽しく読めるような内容になっている。また、バレエの作品のほとんどが古典文学を題材にしているので、文学に興味のある人でも楽しく読めるのではないかと思う。
第1章ではバレエを食わず嫌いになった理由とその克服方法について、第2章では作品テーマについて、その他の章では劇場での鑑賞にあたってのマナーについて、ダンサー・振付家の紹介、そして最後にバレエに関する蘊蓄が紹介されている。ここでは、一番興味をひかれた第2章の作品テーマについて見て行こうと思う。バレエの作品としてよく知られているのが、チャイコフスキーの音楽で有名な『白鳥の湖』と『くるみ割り人形』だ。どちらもファンタジック過ぎて、大人の方には少々退屈な作品かもしれない。
だが、これらはバレエ作品のほんの一部に過ぎず、バレエ作品に最も多いテーマはもっと残酷なものであることを述べておく。例えば、本章で紹介されている『マノン』は、「愛と官能のR−15指定バレエ」というキャッチフレーズと共に、内容成分として売春/裏切り/殺人の三つが挙げられている。簡単なあらすじを述べると、少女マノンはある日騎士デ・グリューと恋に落ちるが、デートの最中に兄のレスコーにそそのかされ大金持ちのGM氏の情婦となってしまう。GM氏の主宰する乱交パーティーで再びデ・グリューとの愛に目覚めるも怒り狂ったGM氏により兄は射殺され、マノンは娼婦として逮捕される。牢屋に入れられたマノンであるが、その魅力は健在で看守からのセクハラに苦しむ毎日。その現場を目撃したデ・グリューは看守を殺害してマノンと逃げ出す。やがて二人は沼地の中を彷徨い衰弱したマノンはとうとうデ・グリューの腕の中で息絶えてしまう。以上のように淫らで暴力的な場面がこの作品には多く見られる。
また、本章では紹介されていないが、『春の祭典』もなんとも残酷な物語である。作品のあらすじは、ある村が豊かな大地を守るために年に一度太陽神ヤリロに生贄として少女を差し出すという物語。あるバレエ団では、春の祭典の衣装として全身肌色のタイツにして、振付もレイプまがいの表現が多く物議を醸したという。これら二作の他にも、本章で紹介されている『ラ・バヤデール』や『ジゼル』もロマンティック・バレエと称されている作品なども残酷な結末を迎えている。華やかな衣装や華麗な踊りとは裏腹に、作品のテーマは意外と残酷なのだ。
これらを読んで少しでもバレエに興味を持っていただけたであろうか。ここでは、作品のみに焦点を当てて紹介したが、バレエには他にも見所がたくさんある。これまで全くバレエに興味のなかった人でも、ぜひ読んでもらいたいバレエ本の一冊である。

食わず嫌いのためのバレエ入門 (光文社新書)

食わず嫌いのためのバレエ入門 (光文社新書)

『花伽藍』より『偽アマント』/中山可穂

些細な諍いが原因で別れることになったかおりと仁子。かおりが帰宅すると、部屋からは仁子の荷物はなくなっており、おまけに愛猫のアマントまで消えていた。かおりは悲しみに打ちひしがれながら、仁子との思い出を一人回想する。
会社員のかおりと社員食堂で働く派遣社員の仁子は食堂で出会った。いつも男性顔負けに仕事をしているかおりが食堂で唯一の好物の肉じゃがが切れてしまった時に見せるがっかりした時の顔の子供っぽさに仁子は惹かれた。かおりはあからさまな恋心で見つめてくる仁子に口説き落とされ二人は付き合うことになる。映画館での初めてのデート、そして初めてのセックス。女性どうしならではの清潔感とみずみずしさにあふれていて、耽美な情景が目に浮かぶ。
私はノーマルだから女性にときめいたことなんて一度もなく二人が惹かれ合うことがよくわからない、というのは嘘で、いくらノーマルであっても街でとびっきりの美人や愛嬌のある子を見かけると、ついときめいてしまう時がある。そして自分が男性だったらああいう女性を好きになるだろうなあ、思わず空想してしまう。また、男性顔負けに男性らしい女性に出会った時も、「この人だったら別に女どうしだろうと関係ないな。」などと考えてしまう時もある。だから、かおりの男性的な風貌にときめく仁子の気持ちも、仁子のかわいらしい面に惹かれるかおりの気持ちも理解できる。
女性と男性が付き合うと、興味の向くことや考え方の違いから衝突が絶えない。いくらわかり合おうとしても、考え方の根本が理解し合えないからどこかで妥協が必要になるのが男女の仲だと思っている。だから衝突し合って壊せない壁にぶつかってしまった時には、壊すことをあきらめるという選択肢もあるので幾分気持ちが楽である。だが、同性どうしであればそうはいかない。本書を読んでいてそう思った。同性として互いの気持ちをわかりあえてしまうからこそ、衝突した時にはぶち当たった壁をどうにか壊すか乗り越えなければならない。そういった意味では異性と付き合うことより複雑で大変だ。だが、その分ひと山超えた時には男女の仲よりも深い絆で結ばれることができるに違いない。そういった意味で女性同士の仲というのも素敵だなと思う。それと同時に、バイセクシュアルの人々について、ただ一つの性を持って生まれながら、両性を等しく愛することができる点はある意味でとても羨ましい。偏見にまみれた世の中では障害も多いだろうが、両性を等しく愛することができれば、それだけ素敵な恋に巡り会う機会も増えるからだ。

花伽藍 (角川文庫)

花伽藍 (角川文庫)