Hatena::ブログ(Diary)

 ■ 萩原朔美ブログ ■ 

2013-02-17

「てんとう虫」 3月号の中の言葉

 昨年の暮れ、小沢昭一さんが亡くなりました。その少し前に森光子さんや中村勘三郎さんが・・その度にテレビは、「天国にいる森さん」とか「天国にいる勘三郎さん」とか大騒ぎしていましたね。キリスト教とかイスラム教のような一神教なら、神様は天国にいます。でも、仏教なら、神様は西方浄土です。無神論者も天国にはいかないでしょう。日本人の感覚でいえば「草葉の陰」にいるんです。親しかった小沢さんが天国にいるなんて僕には思えません。「草葉の陰」にいるから身近にいてくれると感じることができるんです。

  「永六輔のお話供養」

2013-02-15

文庫本の中の言葉

ーひとは思春期とともに「言葉」に出会う。肉体の成長・変化を迎えて、あわてふためき、ほとんどドロナワ式に「言葉」を用意する。しかし、死臭のただよう祖母の病床の枕もとで本をよみあさり、辞書を本のようにして読んで育った少年にとって、たしかになによりもまず先に「言葉」がやってくる。彼にとって、人生は「言葉」であった、「言葉」は人生であった。未熟な肉体はすでに爛熟した「言葉」の捕囚であった。そういうところに、三島由紀夫の人生と文学の出発がはらむ幸福も、また不幸もあったのである。

 「解説」野島秀勝 「ラディゲの死」三島由紀夫 新潮文庫

2013-02-03

雑誌の中の言葉

ー「もしも『我々は何者か』という命題を幼稚園児から聞かれたとしたら、藤井さんは何と答えますか?」

 「世界の一部ですね。個というものはない。本来は、たぶん境界がないはずなんです。もしかしたら人以外の生き物、もしくは高次霊長類以外は、境界という意味であまり個というものをもっていないのかもしれません。それを切り離してしまったことで、僕たちの不幸は始まったのではないかと思います。本来は一部です。

 外部との相互作用の結果として意識は生まれてきます。主体は自分の中にあると思った方が幸せですから、そうおもって差し支えないと思うのですが、実態はやはり相互作用の結果で生まれてきているものだと思います。−

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」 森達也 「ちくま」NO503

2013-02-01

本の中の言葉

ー「猥褻」はむしろ、表現されざるもの、見えざるもの、かくされたもののなかにあるのではないか。

 そして、それらと対応する人間の心のなかにあるのだ。

 大胆に言えば、心の中にタブーを持つ人間ほど「猥褻」を感じるのである。子供は何を見ても「猥褻」を感じたりはしない。

 何かを見たくてしょうがないくせに、心の中にタブーがあって自らそれを禁じている人間があえてそれを見ようとする時、「猥褻」が試される。

 「愛のコリーダ」 大島渚 三一書房

2013-01-31

リーフレットの中の言葉

ー舞踏なんかを知る前に、能を観ていた事があったんですけれど、銕仙会で、「船弁慶」という、少年が義経役でそれを弁慶平家悪霊から守るというストーリーですが、その義経役の少年が初めて舞台に出たもので、舞台の上で吐いちゃったんですよ、それで結局、舞台と楽屋のあいだを何回も何回も出て来たが結局舞台に出られなくなってしまった。で、どうしたかというと、そのときたまたま銕仙会で観世英夫が後見をやっていて楽屋へ少年の世話したり、結局少年義経が舞台にはいないまま周りはいるものとして演じ義経の謡は観世英夫が後ろに座ったまま、居ない主人公の台詞を謡う。ああ、後見というのはこういう事か・・、で、その当時、まだご健在でいらした朝日新聞に能の評を書いていた長尾一雄さん、舞踏にも精通していた人でしたが、そんな話をしたら「えーっ、そんなもの私も観た事が無い」と仰っていて、能では、舞台で人が死んだら止めよう、というのを1968年に取り決めたそうで、つまり、能というのは戦場の武士達がやるもので、だから死んでもやるんです。死んだってそのままやる、その為に後見がいるということを初めて知って、へーって思ったんですけど。−

 テレプシコール通信 1月2日 NO134「佐藤正敏氏の講評」