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デイリー・サクラー

2018-07-06

関田育子『人々の短編の集』

 不思議なものを観た。関田育子の演劇。そこでは、ささいな出来事・他愛のない会話・見知った風景が描かれる。ただし、その「描き方」はきわめて特異だ。

 例えば。舞台上には、右腕の運動を反復する男と、両腕を何かに掴まるよう前へゆるく伸ばし足を交互に上に上げ下げする女。当日パンフを見ると『自転車に乗れない女』とある。それで、おそらく自転車にまたがっているのだと察っせられる。乗れない自転車の練習、か。男のほうはピッチングの練習をしているように見える。ここはどこかの「原っぱ」か。

 舞台の上には本当に何もない。セット、書割り、大道具そして小道具も。つまり、物語上そこがどこなのか、人物は何をしているのかを示すための「環境」が一切省かれた空間で物語が演じられる、ということだ。 実際は、二人の会話が始まると間もなく状況は(想像した通りだ、あるいは、あ、そういうことか、と)判明する。原っぱに偶然居合せた二人、女(40過ぎの主婦)の自転車のチェーンがはずれたのを男(高校生?)が直してやるのをきっかけに、自転車の後ろを支えて練習に付き合う、そこでなんとはなしに会話が紡がれる。のだけれど、具体物を欠いた抽象空間に普通の日常光景、という取り合わせの「変さ」は最後まで完全には解消されない。

 しかし、奇妙なことはそれにとどまらない。広い原っぱだからこそピッチングや自転車の練習をしているはずなのだが、広場よりはかなり狭い舞台とはいえ、二人の俳優はぴったり隣に横並びに立ってピッチングと自転車乗りをしている! わざわざ? 現実にはありえない位置取りだが「舞台上の現実」としてはそうなのだ。この演劇では、あってしかるべき物(本来あるはずの物)がない、つまり「省略」だけではなく、「距離」「パース」も圧縮・変形されているのだ。

 いわば「遠近法絵画」に対する例えば「キュビスム絵画」のような? それが一つの世界の描法であることは確かだ。だが、それによって奇妙なことが起こる。ぴったり真横に立っているので、後ろ向きでピッチングする少年の振りかぶった右腕が、横向きで自転車にまたがる女の結わえた髪のポニーテールを掠める!

  もちろん「物語上の実際」は原っぱの手前から投げたボールが向こうのほうにいる女の髪の毛を掠めた、ということだろう。あるいは少年と女の間に生起しつつあるある種の感情の「心理」描写、と考えることも出来るかもしれない。だが、たとえそうであったとしても、観客席にいる私は、ほとんど「事故」に遭遇するかのような衝撃を受けた。髪の毛が揺れるさまに見惚れながらその瞬間、「距離の圧縮」というそれまでは観客の中にもかろうじて成立していた「お約束」を突き破って、今、劇場(の舞台上)で「現実」に起こったこと、を観客席から目撃した、という生々しい、いや艶かしい感覚に襲われるのだった。それは関田のこの特異な方法でなければ起こらない。演劇はこんなことも出来るのだと改めて知らされたのだった。

(初出:『ケトル』2018年4月号)

上演:

2018年3月16日〜18日

於 スタジオ空洞