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さるぶんこ。 〜エッセイ・批評・小説〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-11-17

「けいおん」──あるいは「女の子が部活やってるアニメと視聴者の人生と何の関係があるのか」について

 一般に本作は批判されてきた。

 それはおよそ次の4つの点においてだ。

 1)萌えである

 2)中身がない(明確な物語構造がない)

 3)部室から出ない

 4)男が出てこない

 それは大きな勘違いで、関係はあるし、いまの人類社会を象徴する世界的な大傑作だ。

 本論はこれらを1)から順に取り上げ、批判がまちがっていることを証明していく。

 さらに言うと、本作はあまりに杜撰な語り口で、適当にあしらわれた悲劇の主人公でもある。

 たとえば「萌えアニメだからダメだ」という批判だが、なぜ萌えがダメなのか、そもそも萌えとは何なのか、そういったことを誰も定義しないまま否定され続けてきた。

萌えとはなにか

 だから本作について論じる前に、それを論じる。

 萌えとは燃えと対立し、次のように定義できる。

 萌え=かわいい=やさしい=仲良くする=かかわる(戦わない)

 燃え=カッコいい=厳しい=仲違いする=戦う

 これは物理(殴る蹴る)・心理論破など)は問わない。

 このように捉えると、世界のすべてはこの2つに分類され、結果たくさんのことがわかるようになる。

 たとえば「新世紀エヴァンゲリオン」は「ロボットに乗って戦うことを拒絶し続けたから萌えアニメだ」とか、「ラブライブ」は「スクールアイドルランキングの1位を目指して戦っているから燃えアニメだ」というふうに。

 これはイメージが逆だろう。

 ふつう「エヴァ」が燃えで「ラブライブ」が萌えだからだ。*1

 しかもこれはアニメに限った話ではないから、二次元以外の作品、いや現実さえも萌えで論じることができるようになる。

 このように萌えに関して、世間はあまりに大きな誤解をしている。

1)萌えである──萌えの現代性

 しかし、それでも批判はあるだろう。

 「けいおん」は心理的にすら戦わないが、世界に戦いは厳然と存在していると誰もが考えるからだ。

 だが世界は「けいおん」化=萌え化していっている。

 世界はインターネットによって間接化され、今これを読んでいるあなたの目の前には誰もおらず、戦おうにもキーボードクラッシャースマホゲーの廃課金兵ぐらいにしかなれない。

 数少ない戦争であるイラク戦争もまた、大量破壊兵器という大義名分の捏造によって生み出された「偽の戦い」だったに過ぎない。

 前者は「殴れない=物理的戦いがない」であり、後者は「議論がない=心理的戦いがない」となる。

 さらに本作は萌えに関する作品だが、萌えは無視されてきたため、誰も「議論心理的な戦い」をしてこなかったものだ。

 よって「萌え=戦わないからダメ」という批判はなり立たないことがわかる。

 もし成り立つなら、批判者は萌えの定義を誰かと議論したことがあるはずだ。

2)中身がない──見落とされた描写

 次に2)だが、これもまちがいであり、本作にはきちんとした成長物語がある。

 「中身がない」の具体例としては「プロデビューを目指さない」だの「練習しない」だのあるが、まず上記の考え方をしてみれば、「プロデビュー=オリコン1位を目指す=戦い」であり、前者は萌えアニメに対して完全に的外れな批判であるとわかる。

 さらに後者もおかしく、実際、作中では澪(ベーシスト)や梓(リズムギター)が主人公の唯(リードギター)を「練習しない」と批判し続けていた。

 しかも実際にアニメを見たものならわかるが、唯はほぼ100%の確率で毎話練習している。

 よってそこにはキャラ同士の対立があり、緊張関係があり、物語があり、成長の契機がある。

 目指されるは学園祭での演奏の成功であり、学園祭は近隣の住人の自由参加ゆえ、それは共同体への帰属というイニシエーションの意味がある。

自虐ナルシズム

 ではなぜそれは見落とされたか。

 答えは視聴者の誰もが自虐ナルシストだったからだ。

 「自虐ナルシズム」とは「根拠のない自虐によって『逆説的』かつ『不当に』自己評価を上げること」だ。

 説明が必要だろう。

 そもそも「自慢(ポジ)と自虐(ネガ)」は対立するが、なんの根拠もなく「自慢(ポジ)」することがナルシズムであるのは自明だろう。

 「自虐(ネガ)」もまた同じだ。

 そもそも自虐は自己の評価を上げるツールだ。

 なぜならそれをすることで「あの人は自分の欠点を受け入れられる立派な人格者だ」という評価を得られるからだ。

 これが無根拠だったら不当である。

 実際に欠点がある=苦しみがあるからこそ、それに耐える=偉い=評価が上がるのだ。

インターネットという自虐ナルシズムの道具

 このことに気づかないことからわかるように、誰もがこれに陥っている。

 その証拠が「炎上」だ。

 それは「読みきれないぐらいの批判コメントが殺到すること」と定義できるが、読んでないのになぜ「批判」とわかるのか。

 これが自虐ナルシズムで、受け入れやすい批判捏造し、それに殉じ反省してみせる(安全に痛い自己反省)ことで、「自己の欠点を受け入れられる立派な人格者」という評価を不当に得ようとしている。

 つまり「ネット民は積極的に炎上しようとしている」のだ。

 だからこそネット民は「わざわざ不愉快な情報ばかり」集める(ネガティブ検索ばかりする)。

 自分がいるグループAと対立するBを設定し、彼らBが「10年1日の批判をする2chスレ」を見つけ、「何回おんなじ議論するんだよ」と呆れる(マウンティングする)ことで、「グループC=別の場所で議論が進化していること」から目をそらし、己の思考停止(検索能力の低さ・情弱っぷり)からも目をそらすことができる。

 ネット民はこんなのばかりだ。

けいおん」が映す現代人の姿

 これに気づかないから、澪や梓の欺瞞に気づかない。

 くり返すが澪や梓がした「練習していない」という批判は的外れであり、実際にはしまくっている。

 対象は「自分のいる部活」だから、これは根拠のない自虐であり、自虐ナルシズムそのもの。

 現代人の似姿であり、だからそれを批判することは行為者にとって自己否定になる。

 それゆえに批判者は澪と梓を特権化し、批判の外側へ置き、自らが叩きやすい対象の唯や律といったキャラだけを批判の対象として、ナルシスティックな批判を加えたわけだ、

 ネットで「安全に痛い自己反省」をくりかえす現代人は、澪と梓(ツッコミ役)に自己投影しすぎたのである。

「低評価はアンチだけ」という誤解

 まただからこそアニメを見たものでさえ、その描写を見落とした。

 そのとき論者は自虐ナルシズムに囚われているから、一般のイメージとはちがい、作品の信者も作品の欠点を捏造すると気づかない。

 本作の評価の無根拠性に誰も気づけなかった。

 いいだろうか。

 「無根拠に作品の評価を下げるやつ」は誰もが「アンチ」だと思い込んでいるが、実際には「信者(≒ヲタ)」でもありえる。

 ここに誰も気づかない。

 無根拠根拠の提出をサボる=楽する=ナルシズム。

 この点において信者もアンチも褒めるも貶すも関係がない。

 根拠がないのに自分(他虐できる自分、自虐できる自分)が正しいと思ったら、それはナルシズムだ。

やらおん」にみる自虐ナルシズム

 そもそも信者は「萌えヲタ」だが、実際、彼らは「自ら」を「萌え豚」と呼んで「自虐」しているではないか。

 信者はしばしば「『けいおん』は好きだけど、駄作だよな」のように本作を卑下するのだ。

 象徴が「やらおん」だ。

 あれは「今日もやられやく」というまとめサイトが「けいおん」について頻繁にまとめていたために名づけられた。

 今日もやられやくけいおんやらおん

 だが「やられやく(敗北者)」とは一体なにを指していっているのか。

 何において「やられた」のか。

 これが「炎上」と同様のものだとわかるだろう。

 何の根拠もなく自らへの批判、つまり自らの敗北を設定し、それを甘受してみせることで社会的評価を上げようとしている詐術と同じなのだと。

日本社会にはびこる自虐ナルシズム

 また気づかれにくいのには、日本にそれがとくに多いことが挙げられる。

 思いつくままに列挙してもこれだけある。

 夫が妻を「うちの愚妻が」と言い、親が子を「不出来な息子で」と言うが、根拠はたいてい示されない。

 日曜日に洗車する金持ちが「フェラーリですか、お金持ちですね」と言われたとき、「いいえ中古なんですよ」と貧乏アピールするが、フェラーリは中古だって1000万する。

 「日本人は背が低い」とよく言われるが、実際は世界の平均身長だ(先進国の中で低いに過ぎない)。

 「すみません」を一日に何度も使うが、「私は謝ってもすまないぐらい酷いことをしています」という意味であり、そんなわけがない。

 相手に見えないにもかかわらず、電話で話しながら頭を下げる。

 このように日本人は何の根拠もなく自虐をする。

 アメリカ人に対して「根拠のない自慢ばかりだ」と批判してきたが、日本人は「根拠のない自虐ばかり」である。

 アメリカ根拠のない自慢=自慢(他虐)ナルシズム

 日本  =根拠のない自虐=自虐ナルシズム

存在しない議論による敗北者

 話を「けいおん」に戻そう。

 本作は萌えアニメだが、それらにもっとも近いところにいたのが東浩紀岡田斗司夫だ。

 彼らオタク論客でさえ、誰も萌えの定義について語ってこなかった。

 語らない=議論しない=論破しない=敗北者は存在しない

 なのになぜか「やられやく」なのである。

 だから「けいおん」信者の自己否定にはなんの根拠もない。

 にもかかわらず、誰もがこう思う。

 「信者が駄作だと言うんだからまちがいない。『けいおん』は駄作なんだよ」

 誰もが錯覚しているのだ。

 「アンチと信者が対立して議論した結果の答えだ」と。

 実際は一切の議論がなされていない。

けいおん」の中身=物語性

 だから2)の「中身がない」は大嘘だ。

 本作の中身=物語は一般にこう思われている。

 苦労知らずの主人公・唯が、お茶を飲みながら雑談をし、たまに思い出したように楽器を演奏し、にもかかわらず学校中から支持される

 だが実際はこうだ。

 毎日練習に明け暮れ、天才肌だと気取ることもなく、部活のメンバーとの交流も欠かさない主人公・唯が、にもかかわらず他の部員である澪・梓から「練習してない」と人格攻撃を受け、それにもめげず苦闘した結果、その自虐ナルシストたちを手なずけることに成功、バンドメンバーを一致団結させて、ついには学園祭のライブを大成功させる

 これは日本社会にはびこる自虐ナルシズムを取り上げ、これ以上なく物語化してみせた大傑作なのだ。

3)部室から出ない──ネットの時代

 まだ議論は終わりではない。

 「けいおん」にはいわれなき批判がまだあるのだ。

 次は3)「部屋から出ない」だが、これもまたまちがいなのは、現代人がネットをしているからだ。

 ネットは通販やGoogleストリートビューなどを考えればわかるように移動せずに済むものであり、移動する話は却ってリアリティを持たない。

 スマホはあり、それは移動しながらネットをするものだが、目的地へは移動していない。

 むろん逆に言えば、そこには「目的地へは動かない/それ以外へは動く」というジレンマがあり、まったく動かない「けいおん」はおかしく見えるが、本作は09年のアニメであり、スマホの本格的普及は2010年以降だ。

 よってここではスマホ的ジレンマは無視できる。

 さらにネットは「非」社会文脈であり、「オンライン=部屋の中=非社会文脈」「オフライン=部屋の外=社会(反社会)分脈」と言え、話が基本部室から出ないのは正しい。

 もしそれを批判するのなら、批判者は部屋の外で社会的活動をおこなっていなければいけないが、誰もがネットで声を上げるだけか、「ネットで知り合った誰か」とデモにいくだけ(親などには紹介しない)である。

4)男が出てこない──百合アニメにおける男性キャラの役割

 最後に残った批判が「男が出てこない」の部分だ。

 だが実際、男は出てきている。

 第1期#6の学園祭のシーンで、澪が転んだ拍子にスカートがめくれパンツが丸出しになった際、それを携帯カメラで撮影した観客がいたが、あれは男だ。

 女ならそんな行動はしない。

 むろん「その程度では物語の流れを左右しないからダメだ」となるだろう。

 だがその批判は的外れだ。

 現実に男を排除したAKB48のようなコンテンツが国民的な運動を生み出している昨今、むしろ男が大活躍するほうがおかしい。

 実際、男性たちは萌えについてまったく責務を果たしていない。

 男性=カッコいい=戦う  =議論する =定義する

 女性=かわいい =戦わない=議論しない=定義しない

 議論・定義しない男性は「歴史(社会の物語)に登場」しないのである。

 本作は「そのように情けない主体性しか発揮し得ないのが現代の男なのだ」と批評的に男を描き出しているのである。

自己投影における性転換

 むろん、それでも批判は残るだろう。

 「男は女に感情移入し得ない」と。

 だがではなぜ世の女性はトム・クルーズの映画を見れるのだろうか。

 ここからその批判が無根拠であるとわかる。

 実際、異性への感情移入は可能で、いまの図式に従ってするのだ。

 男=カッコいい=強い=戦う  =論破する =言語化する =言語担当者

 女=かわいい =弱い=かかわる=論破しない=言語化しない=非言語担当者

 ひとは非言語的に扱われる事象について感情移入するとき、対象の性別を女性に限定しようとするのだ。

 本作は自虐ナルシズムや萌えといった、まさに誰も言語化してこなかった事象について描いたものであり、だから男性は(むろん女性も)女性に感情移入する。

 そしてそのキャリアが浅いほどキャラは幼くなり、対象は少女に限定されていく。

 実際、ツイッターなどネットには自分の顔写真の代わりにアニメのみならず、少女の画像を使った男性のアカウントがごまんとある。(たとえば批評家の東浩紀は会社社長で海外で本を出版する「大人の男」のはずだが、ツイッターアイコンは娘の幼少期の画像だ)

 これはネットのアーキテクチャ、およびネット社会のルールを誰もがまだ言語化しきれていないせいだ。

まとめ

 ここで結論が見えてきた。

 「けいおん」がなぜ傑作なのか。

 それは批判への反論である次の4点で説明できる。

 1)萌え(戦わない)という世界的潮流に乗り、それをうまく物語化したから。(「萌えだからダメ」への反論

 2)それを梓や澪といった自虐ナルシストを登場させることで(、そして唯という主人公がそれらを萌え(戦わない)の力によって武装解除し、その歪んだ思想を捨てさせていくという形で)明確な物語構造を持って描き出したから。(「中身=明確な物語構造がない」への反論*2

 3)ネット時代の閉鎖性の高さ、流動性の低さを徹底して反映している。(「部室から出ない」への反論

 4)さらにもう1つの現代的潮流である、社会的な事象の非言語状態に対応し、少女キャラクターというあるべき感情移入の対象を多数配置したから。(「男が出てこない」への反論

 そしてこれは「なぜ女の子が部活やってるアニメとオレの人生とが関係するのか」の答えになっている。

 さもなくば、これを読んでいるあなたは「萌えの定義・言語化ができていて」「自虐ナルシズムに陥らず」「第三次世界大戦危機に怯え」「ネットを使わず目的地へは自分の足で必ず向かう」という「燃え真っ只中」の生活をしているはずだ。

 

*1:よって「ラブライブ」が「紅白」に出ても、萌えアニメが受け入れられたわけではない。

*2:この武装解除をひとは「あずにゃんペロペロ」と言った。(『武装=かわいくない=ペロれない』→『武装解除=かわいい=ペロれる』という変化)

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