Hatena::ブログ(Diary)

salmosax note

2016-01-12  山内佐芽

11月中旬からの1ヶ月に及ぶアジアツアーを前に、裏山のハルリ池に紅葉を見納めに母(佐芽・サガ)を連れてドライブした。少しだけど手を引いて一緒に歩いた。

ツアーの中頃に母が食べなくなったと姉から知らせが来た。どうすることもできず、不安を押し殺して旅を続け、ビルマで父の足跡を辿り奇跡や出会いでウルウルして12月中旬帰国。その時の母はすぐにも死ぬのかというような状況だった。ウルウルはなおも続いた。


一旦は危機を脱したものの、下降線は続いた。在宅診療の上に在宅看護も追加し、電動式ベッドを入れ、日々状況は変化していった。姉の介護にも限界が近づいていた。

年を越せるだろうかと思ったが、幸い兄たち家族の集まる新年を迎えることができた。が、かれらが帰ってからいよいよ脚が萎え、液体さえも喉を通るのが難しくなり、声を出す元気もなくなってきた。最後の3、4日は息も荒く苦しそうだった。それでも最後までオシメでなくトイレで用をたす意思を持っていた。


1月9日、新年最初の演奏のため筑後市の芸文館に車で行く朝8時に便器に座らせてベッドに戻し、そして黙って出た。出て行くことを知られることで気落ちするようなことが僅かでもないように。

12:40、芸文館が見えて来たところで訃報の電話。それからあとは共演者のハエちち(ダンス)に会っても、受付や事務員や関係者の前でも涙があふれ、気持ちは上の空でコントロールできないまま14時、演奏に入った。


実に見事なタイミングで逝った。

芸文館ライブにしろ、これから翌週に控える1週間の関西ツアー、そして2月の台湾ツアーなど、どれにも影響を与えなかった。

今後のスケジュールをどうするか随分悩んだのだった。結論としては母の死を予定する考え方自体が不遜であり、あくまでも生を生きるのが基本だと思い、若干の変更はしたものの計画を進めて来た。とはいうものの当然苦渋が消えたわけではなかった。

すべてをリセットして、動く2016年の年明けの幕を開ける死だった。

最後まで生きる意思を持ち、残される者たちに1ヶ月間の猶予を与え、悔いのない長寿を全うし、最後の瞬間は安らかに息を引き取ったようだ。

毅然、気丈、、、もちろん優しかった93歳、大往生。

ますます自分の道を歩き自分の活動を存分に楽しもう。それが母のメッセージだと思う。




独り言、、、


●母は生来の真面目さゆえに、認知症と老衰が進んでいく中で自分の頭の中が整理できないことを悲しんでいた。いったいどうなっているのか、どうしてなのか教えてと訊かれ、再々言葉が詰まった。


●私は誰だ?などと母に訊くのに、だんだん名前の間違いが増えてきて、でもみんなコミュニケーションとして軽く笑っていたのだが、ある日「誰の名前を言っても間違う」と1回きりだが悲しそうに呟くのを聞いて胸が締め付けられ、猛反省した。


●父の急逝の時、兄たち全員が初めて病院に集った直後にスクランブルがかかった。今回それを恐れていたのだが、やはりそうなった。


●姉が小さなメモ帳介護の記録を書き始めたのだが、 1月9日で最後のページが終わった。


ポルトガルから2016年ニューリリースCD "The presence of air particles ignited by memory” が届いたのが、「1月9日 12:30頃」と郵便局の不在届表に記載されていた。


●大戦中に父が数年滞在した、未来の妻サガを連想したであろうビルマのサガインを訪問したこと。これから始動するバンド名をサガインとしたこと、などがつながってきた。

2015-12-31  ビルマ 完 (サガイン)

サガイン到着日に主な目的を果たせてしまったので気分は楽だ。

街をブラブラしていると目立つのか、よくジロジロ見られる。

マーケットの賑わい活気は凄い。積み上げた袋から血がしたたり路上に溜まりを作っている。ビンロウを噛んで吐きすてる赤いツバ。たかるハエ。等々文明社会ではタブーとされる価値観について考えてしまう。

イツからナニゴトがナゼ許されなくなったのか。


美容室に入った。みんな困った風な顔をしている。となりから英語が話せる人が来て、男はダメだという。日本じゃOKだよと言って出たので、習慣が変わるかもしれない。

それで理髪店に入った。3分で終わってしまうのでスキバサミを指示。それでも5、6分。洗髪もない。100円だから文句も言えない。変なガイジンに早く帰ってもらいたかっただけかもしれない。

きのうは時間がなかったので、再度貨物廠跡を訪問。さすが英国の建物は頑丈で現役だ。そこで働いている女性たちが大騒ぎ。でも向かいからお茶を買ってきてくれたり記念撮影したりと接待してくれた。

夕方、橋の見えるイラワジ川畔で時間を過ごした。ここも父の好きなスポットで、スケッチなどが残っている。すぐ横では若者たちが釣りをしたり頭を洗ったり泳いだりしている。この原風景は変わっていないのだろう。足で櫓をこぐ舟は、さすがにエンジンに替わっていた。

川幅は広く悠久の時間が流れている。夕陽は素晴らしかった。ソプラニーノサックスで曲ができた。


サガイン3日目最終日。

夜9時に眠る街はワイファイも不安定で、自然早起きになる。

貨物廠と密接なはずのサガイン駅に行った。古いし小さいしもう使われてないのかと思った。駅長が現れたので父のことに触れたあと、地図がないか尋ねた。実はサガインの地図がどこにもなく、ホテルマンと手描きの地図を作って動いていたのだ。すると何を思ったのか、午後行く予定にしていた10km程離れたカムロパゴダにバイクで連れて行くと言い出したのだ。

カムロはビルマ最大のパゴダで持参の父の写真にも写っていた。お願いした。でも駅長さん、、ナゼ、、いいのかしら。

着いたカムロは金ピカで、ツーリストと土産屋で溢れていた。父一行の写真では、誰もいない静けさで、ライオン像もパゴダも真っ白だし、かれらはパゴダの上に上ってもいるのだ。巨大さには感銘を受けたが早々に帰った。70年前とこうも変わってしまった。もっとも日本もその頃は随分違ったのだろうが。

さて駅長さん、その後サガインヒルや観光客の行かない要塞跡や舟の渡しなどにも連れていってくれたのだった。お互い名前も知らぬままに。


かくしてビルマ・サガインを去る朝が来た。例のタクシードライバーマンダレー空港行きを9時に頼んでおいた。

見納めにホテル屋上からサガインヒルを眺める。朝霧の中に数々のパゴダのシルエットが浮かび、やがて金色の光を放つ。

街に出た。相変わらず活気があり、車もバイクもクラクションばかり鳴らし、みんな気が立っている。しばらく眺めていた。

そして気付いた。こんなのを見に来たんじゃない。エキゾチズムという違いをでなく、世界に通じ合う、共通の人の心性と風景を見たいのだ。

車が増えたこの4、5年以前は、交通騒音もスピーカーから大音量で流れる音楽や祈りもなかったはずだ。それにどこもかしこも自然に還らないゴミゴミゴミ。

パゴダだらけのこの小さな街は、ほんのちょっと前まで静けさに包まれていたのではないか。父が愛したのはそんなサガインとビルマだったはずだ。

人々はいつも父の写真に群がった。それ程昔で珍しい写真でもあった。そしてそれをきっかけにいくつもの出会いや奇跡が起こったのは、写真にも表れている父たちの人間同士の交流が時間や空間を超えて綾なしたのだ。ぼくが探しに来たのは、そんな世界や宇宙につながる心のような気がする。

なのにここもすでに「自由主義経済」に取り込まれ、人の気持ちが荒くなっているのか。荒い気が世界を覆っているのか。


イラワジ川畔に行こう。行きたい。強い衝動が起きた。もう8時をとうに回っていた。 急ぎ足で懸命に歩く、、、間に合った、、。

川はひとまず浮世に関係なく滔々と流れ、父のスケッチのままの風景があった。

2015-12-30  ビルマ 4 (サガイン)

12/9 前夜ホテルにタクシーガイドを予約してお金も支払ったのに、朝来たのはバイクタクシー。あちゃー! 追い金出して頼んだタクシードライバーは大当たりで、父のことなどを少し話しただけで名ガイドとなった。しかも日本語好きという娘も同乗することになった。

マンダレーヒル〜街〜サガインヒル〜サガインのホテル、と希望行程をドライバーに伝えた。

そして翌日からの3泊のサガイン滞在中にゆっくり探索するつもりだった。


マンダレーヒルに向かう。その名は子供の頃からたびたび聞かされてきた。ドキドキする。街の風景はもう目に入らない。

やがて道は上り坂になり、右に左にパゴダや伽藍や遺跡やらが通り過ぎる。そしてついに丘の上に着いた。それは思った以上の規模と荘厳なパゴダ群と寺院群だった。それまではそこは単に見張らしのいい丘で、それに父はロマンチズムを盛り込んで話していたのだ、くらいに思っていた。確かに景色はいいしイラワジ川の流れも雄大だ。でもそんなどこにでもある山から見る下界の展望より、この丘そのものが持つ歴史、エネルギー、秩序、静寂、美しさ、、、それらに感動するのだ。


いくつかある日本兵慰霊の塔も参拝し、また他のパゴダなども見たあと、いよいよイラワジ川を渡り父が主に駐留していたサガインのサガインヒルへ向かう。

この名前もよく聞かされてきたなあ。この丘もまた同様に、パゴダ群をはじめ本当に素晴らしかった。丘の頂上部の寺院群を歩いて廻るだけでもけっこうな時間を要するし、金箔に包まれた数々の仏像なども実に美しくて見応えがある。単に権力や資金だけでこうした聖域ができるわけではないと思う。

僧侶や三日坊主の子供たちが溢れる、父が愛したこの土地がやっと少し分かった気がした。人々は敬虔なのだ、人として。


サガインヒルを下りてサガインの街へ。ドライバーの的確な判断や通訳は助かった。今回父の当時の写真などを10枚程手掛かりに持って行ったのだが、かれは人々に訊ねながら写真を見ながら、なんと貨物廠跡や宿泊所跡を次々に探し出したのだった。父はいつも写真の裏にデータを書き込んでいたことも役立った。

その上、当時父の元で働いていた若いビルマ人の写真とカタカナの名前で、なんと彼の所在を聞き出したのだ。父が1982年に1人で1度だけビルマ訪問した時も、彼コミヤテンには会えなかった。

ドライバーがどうするか訊くも、探す気も会う気もなくただ情報として持参した写真だった。躊躇するぼくに会うべきだと言ってくれた。そう、これは奇蹟なのだった。かれが生きていることも。そして父の代理で会うのだ、70年ぶりに。


暗くなって家に着いた。家族が迎え入れてくれた。彼は足が不自由でもう認知症状態だったが、先の宿泊所跡に住んでいたというし、なにより家族が本人であることを認めた。

かれに当時の父の写真を見せて「Do you know him?」と言ったきり、言葉が詰まってしまい涙を抑えられなかったのは、やはり父の代理だったのかもしれない。だれも英語が話せないのが残念だった。

感謝とお別れに父に捧げた曲キホウを演奏した。奥さんは泣いてくれていた。娘さんはぼくの腕を強くつかんでくれた。

2015-12-29  ビルマ 3 (マンダレー)

12/8 2泊したラングーンからバスでマンダレーに向かう。ホテルの人は 9:30 のバスに乗るにはタクシーは7時だといい、6時過ぎに起こされる。どうも渋滞がひどいからのようだ。この4、5年で車が激増したらしい。郊外に向かって走る間にも渋滞は激しさを増していく。ドライバーは30分で着いても街に戻るのに2時間かかると嘆いていた。


バスセンターというよりバス村と言った方がいい程広い所に、何十あるいはそれ以上のバス会社と様々な店が軒を連ね、バスを自分で探すのは不可能だ。その混雑ぶりにも閉口してしまう。

2時間待って乗車。ビップバスという割に大したことはない。車内は相変わらず大変に寒い。なぜ南方の人たちってこうも冷房をきかすのだろう。

バスはラングーンからマンダレー目指してほぼまっすぐ北上する。簡易舗装状の高速道路はガタンゴトンを繰り返し、楽器が心配になる。後部シートに置いていたのがいつの間に床の上だったもんなあ。

サービスエリアで休憩。中華風の食材がいっぱい並んでいて、システムは分からないがチャーハンを指差す。それを受け取って席に着くとスープが運ばれ請求書が来た。ちゃんと係が見ているんだな。案ずるより産むが易し。


それにしても走っているのは高速道路だと思うんだけど、田畑民家牛山羊馬、、境がない、、のだ。料金所みたいなのは時々通過するんだけど。山というか丘陵が少しばかりあってそれ以外は平原が続く。

農村の民家を見ていると、従来は高床式ではなかったかと思われた。一見粗末に見えるが理にかなっているし、快適そうだし、そこでの家族の営みまで見える気がする。自然や環境に溶け込んで存在していたモノに「近代」「文明」というモノ(や利器)を置くと、たちまち秩序が崩れて、汚いモノ、遅れているモノ、未開発、に見えてしまう。そんな心理にしてしまう仕掛けの恐ろしさ。風景そのものもしっとり感を失い乾いていく。物理的にも形而上的にも砂漠化が進行する。

そんなことを考えながら、もちろんビルマの風景を楽しみながら、でも半分は寝不足で失神状態のまま、最後は見事な夕日に見とれながら18時半到着。もう暗くなっていた。


幼い頃から聞かされていたマンダレー、、、そんな感慨に耽る間もなく、どっとタクシーの誘いが押し寄せる。7000チャットの申し出に対し5000で交渉。相乗りすることでオーケーになりタクシーで待っていたが、結局誰も見つけられず言い値が通った。かわいそうなので気持ちオマケした。

マンダレーの中心あたりのはずなのに、表通りを1本はずれるとガタ道の上に暗い。そんな所のホテルに到着。

周りを歩いたが本当に暗くて足下もでこぼこだし、レストランもお店も見当たらない。

それでも子供たちがバトミントンで遊んでいたし、作業している人たちもいる。つまり、文明国の人間が暗く感じるだけで、夜が明るいということ自体が狂っているのだ。結局ホテルのとなりのレストランで夕食をとった。

2015-12-28  ビルマ 2 (ラングーン)

ヤンゴン(ラングーン)2日目。

前夜にユズルさんからこんなミュージシャンがいる、とメールが来ていた。コンタクトするとすぐに返信が来て Jeuko 氏と急遽会うことになった。バイオリンやギターやキーボード、色んな楽器を使うらしい。その内 Soe たち仲間も合流してお茶したり散歩したり。夜は軽く飲み会状態に。店先なのか歩道なのか道路なのか分からないエリアにテーブルが並べられていて、そこはレストランの仕切り範囲のはずなのに、自転車の屋台が近づいてインド料理を提供している。

ああ、ゆるくていいなあ。考えてみると、そんなのがないのが日本だけかもしれない。

ただの1人も知り合いのいないビルマに初めて来て、その翌日に地元ミュージシャンとこんなディープな時間と関係を持っているなんて、全く想像できることではない。ありがたいとしか言いようがない。


かれらのおかげで、ツーリストが体験しない生の観光もすることができた。

人が乗り降り中でも動きドアが開いたままでも走るギュウギュウ詰めのバスも経験できた。その様々なバスたちはダイヤで運行しているというよりも、車掌の呼び込みやかけ声、そしてかれのさじ加減で動いているようだった。

信号もあまり意味なく、車も人も自転車も何もかもごちゃ混ぜで無灯火も多いし道路の境も曖昧、そんな中を誰しもが自分の感覚と身体を使って交通が成り立っている。

街全体灯りが少なく、薄暗がりの中に多くの屋台があり、近づいてやっとそこに人が大勢いることに気づく。

あらゆることがアナログに動いている。こんな状況を無秩序に感じる日本人が異常なのだろう。少し前の日本もこうだったのにシステム化され尽くしてしまった。しかもそれに優越感を持っている。


かつての日本軍のことを訊いた。「ノープロブレム」という。やはり不幸な出来事があったことは否定できないようだ。でも表情からも日本に対する恨みを感じることはなかったし、実に前向きだった。

ビルマの90%の人々はスーチー女史に希望を持って未来に向かおうとしている。現政権の起こした事件などの話も聞いた。それらについて旅人がとやかく言うまい。ただ開放の扉を開けて猛獣が入って来ないことを祈るばかりだ。


かれらとの英語でのコミュニケーションは少々大変だったものの、それを不便に感じることはなく、15時から22時まで熱く語り合った。そして色々な質問をされアドバイスさえ求められた。

ぼくの音楽との違いは大いにあった。が、かれらなりに一生懸命新しい音楽やお金のためでない音楽をやっていることが貴い。通じるものはあった。その心の部分を今もっと知りたい。

いつかかれらとセッションが実現することを楽しみにしている。

かれらと未来の再会を約して別れ、ホテルに歩き着いたのは23時だった。