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salmosax note

2016-11-05  北米・北西海岸ツアー 3-3

(続き)


10/19. オリンピアは全部歩けるほどの小さな港街。ファーマーズマーケットでゆっくり過ごし、夜は地元でライブ。中心部にある Obsidian という広いレストランの奥にまた広がる秘密っぽい会場。

夫婦のバンド Hammer of Hathor。そしてアーリントンのバンド、ブラッドムーンラガ(タブラがよかった)。そしてぼくのソロ。アーリントンの声のパフォーマンスもいいなあ。

ぼくのソロの途中で近くの空調の音が大きく鳴り出して困ったが、この日のお客さんたちも集中して聴いてくれてCDも売れたので、やれやれ胸をなでおろすのだった。日本にいる親に勧められて来たというハーフのコが嬉しそうに話しかけてくれ、こちらも嬉しかった。

https://www.facebook.com/events/1792717220942537/



10/20. 昼食後、昨夜のHammerの2人の家の地下でセッション。普通の家ですから!

夕方、アーリントンとエレクトロニクスのネイサンの3人で、ネイサンの快適な車でポートランドへ。オリンピアから片道2時間。

演奏会場はレコードと雑貨とバーが一緒になった店、Turn Turn Turn。音楽シーンに重要な拠点のひとつらしい。聴衆も多く熱かった。こんな店がミュージシャンと音楽を支える。

ふたつのバンドが終わってぼくのソロ。次にアーリントンのバンドで、その一部に再び参加する4部構成のプログラム

開場前に食べた牛のテールのジャマイカ料理が腹に重くて心配したが、ソロ演奏は自分なりに高い水準でできたし、素晴らしいドラマーを有するアーリントンはエキサイトしていたし、コラボも完全だった。

深夜帰宅。

https://www.facebook.com/events/330327090644257/



10/21. オフ日。1人街を探索し、夜、再びネイサンのアパートで、チャイナを加えた4人でレコーディング。

なかなかにおもしろい録音も残せた。これらの音源、どうなるのかな。



10/22. ツアー最後のライブ。チャイナの車に5人乗り込み、再びシアトルを訪れた。

着いて驚いたが、会場のチャペルは2007年にも訪れていて、その時打ち上げに行ったという日本人と話していて記憶が蘇ってきた。Good Shepherd Center といい、もと学校でその中にある礼拝堂だったらしい。天井の高い響きの良い会場で気持ち良く演奏できた。一部はアーリントンのブラッドムーンラガで、二部はサックスソロ。三部全員によるセッションというプログラム

なにしろ最後だしで、ツアー中やらなかった曲を交えてゆったりと響きと間を最大限生かして演奏。

ソプラニーノサックスは小さく精密で、そのオクターブ用の穴を唾や水分が塞ぐ不甲斐ない事故が時折起きていた。そのためツアー直前にそのキーとの隙間を広げる修理を済ませていたのだが、最後の曲の最後でまた起きてしまった。冷や汗が出る暇も与えず、必死に口の圧力で1オクターブ落ちた音を上げてごまかす場面も。

それでも続くアルトサックス即興演奏も気持ち良くでき、なんとか納得の有終の美を飾れたと思う。聴衆の暖かい拍手が嬉しい。

今回のツアー全般に言えるが、ありがちなアメリカ人に対する先入観とは違い、こんな場所!というような所も含めて、みんなが静かに集中して音に耳を傾ける光景は素晴らしかった。やはり懐が大きいのだ。

ぼくの音楽を理解し、このツアーをアレンジしてくれたアーリントンに感謝。

https://www.facebook.com/events/341761649506874/



その後、バスでまたまたバンクーバーに戻って飛行機に搭乗。寒がりのぼくは2週間ずっと厚着で通したのだけど、福岡空港に降り立つと汗が吹き出し慌てて服を脱ぎ捨てた。九州はいい。



(演奏スケジュール)

10/12 バンクーバー

10/14 タコマ

10/15 シアトル

10/16 ビクトリア

10/17 バンクーバー

10/19 オリンピア

10/20 ポートランド

10/22 シアトル


(完)

2016-11-04  北米・北西海岸ツアー 3-2

(続き)


10/14. 本日から実質ツアーの始まりで、全部車で移動する。ヨーロッパにしろアジアにしろ基本公共交通機関の利用で、たまにスクーターとか、、。やはりアメリカだ。

日中のんびりとカフェに行ったりして過ごし、夜はマウント・レイニアが近い隣の市タコマのブックカフェ NPCC でライブ。木造の壁の一角に本棚があるが新刊ではなさそうで、むしろバーの雰囲気。

3組出演のラスト。まずソロ。ソプラニーノで新曲を交え数曲とアルト即興演奏。30分。そしてアーリントンとチャイナのソプラノサックスとの3人で3、40分。アーリントンの自作バスクラリネット(ブロミオフォン)はいい。

みんな静かに聴いてくれて好評。深夜帰宅。

https://www.facebook.com/events/1668571343455357/



10/15. シアトルに移動し、海岸沿いのパイク・プレイス・マーケットに連れて行ってくれた。そこが観光名所とは知らなかった。某カフェ1号店をチラ見。日本の食料や物品のマーケットもチャイナタウンも巨大大学もあるシアトルは大きな中核都市だろうか。

夜は郊外にあるブルームーン、、、カントリーを演奏すべきか悩むようなバーで公演。3組のラスト。アーリントンにチャイナのソプラノサックスとロリのチェロとの4人の演奏。嵐の警戒情報が出ている夜に集まった多くの聴衆は、失礼ながら静かに聴き入っていた。

米国に入ってから、数十年来の最恐と言われる嵐がつきまとうものの、微妙に我々を避けていく。

https://www.facebook.com/events/1784666318415804/



10/16. シアトルからカナダ国境を超え、大型フェリーでちょっとした船旅を楽しんでビクトリアへ。美しい風景の中、アザラシが潮を吹いて泳いでいた。

初のビクトリア公演の会場は Copper Owl という高級クラブ!? 海外では思いがけない会場が時折あり、ビックリやら楽しいやら。本当にここで自分の音楽やっていいの、と思ってしまうのが日本人かもしれない。アーリントンは燃えてたなあ。赤いライトを浴びて絨毯の上で、2人はソロとデュオを楽しんだ。

その後地元のパンクバンドにかれと乱入して爆発炎上を起こして感謝され、隣接するホテルの広いベッドでゆっくり休んだ。

https://www.facebook.com/events/1288671361150473/



10/17. 大きなトーテムポールが立ち並ぶ先住民博物館に寄って、大きいけれど静かなビクトリア市街を後にした。きのうのフェリーで後戻りして上陸後ひたすら北上。車のラジエターのパイプがはずれて水温が上がるトラブルがあったものの、エンジン音も快調で良く走る車ではある。せめて左のサイドミラーくらいは付けて欲しいが。拾ったクレヨンで車内に落書きしてデコレーションするアーリントン、、。

再びバンクーバー入りして、チョット物騒なチャイナタウンにある会場のセレクターズ・レコードに到着。カッコいい店だ。手際よく商品をのけたスペースに、質の高い聴衆が散々午後集まってくる。

40分位ソロをやって次にアーリントンのソロ。最後に日本に滞在中のレニック・ベルのコンピュータ音楽。pcの言語をリアルタイムに音に変換していた。

終演後、日本人の友人たちを交えてコリアンレストランへ。

https://www.facebook.com/events/174025099711028/



10/18. 3度目の国境超えでオリンピアのアーリントン宅に帰る。

オフ日で身体を休める間、まるで川のような細長い海峡の自然公園に連れて行ってくれた。静かな海面をたまに通るボートの起こす波が時間をかけて岸に到着する。その時の音と形に興奮する。この宇宙は全てが繋がっていて一体であることの実感は難しいが、それを易しく伝えてくれた。音の波は残念ながら見えないが、それは立体であり猛烈に優しくあらゆるものを巻き込み影響しあい変化し、そこに単独の動きはありえない。


(続く)

2016-11-03  北米・北西海岸ツアー 3-1

10/10. 2007年以来9年ぶりの北米ツアー2週間のため、カナダバンクーバーに向けて福岡空港を飛び立った。今回も旅立ちは晴天。

前回はバンクーバーから始まりサンフランシスコまで西海岸を半月。そして東海岸半月の計1ヶ月のツアーだった。その内アーリントン(Arrington de Dionyso)が北西部をアレンジしてくれ、ポートランドの当時のかれの家に滞在した。今回はその北西部限定(バンクーバービクトリアタコマ、シアトルオリンピアポートランド)2週間の旅。

かれはバス・クラリネット奏者だが、声のパフォーマーでもあり、またオールド・タイム・レリジョンというバンドではギターとボーカルでKレコードからCDリリースもしていた。そしてかれの描く絵も大したものだった。

今回再会して、すべてにおいてパワーアップしていることに驚き嬉しかった。バスクラリネットの本体をプラスティックのパイプに替えて更に低音を強調した手製楽器ブロミオフォンや、インドネシアの笛、ホーミーなどを駆使。またシンセタブラを加えたバンド、ブラッド・ムーン・ラガも素晴らしく、それらによってかれの音楽は増強拡大されていた。

かれの絵の色使いやその題材も不思議ででもリアルな異空間を創造していて、画集も出版したり、各地で展覧会も行われていた。http://arringtondedionyso.bigcartel.com

そのかれが今回のツアーをアレンジしてくれ、ぼくは基本何も準備することなく大名旅行に臨んだのだった。



10/12. バンクーバー Red Gate Arts Society のイベントはアーリントン企画ではなく、いくつかの手違いから数日前にやっと確定したイベントだった。集客は厳しかったが、映画ホフネンとハルリの北米初上映をすることができた。

https://www.facebook.com/events/179868915753497/

バンクーバーだけでなく、今回ツアー全体で思ったことだけど、ホームレスが多い。イギリスなどでも感じたことで、ちょっと危機感を感じる。



10/13. 移動日。現在アーリントンの住むアメリカオリンピアに列車で行く。

迎えに来てくれたかれの車を見て唖然。前回、ヒーターもなく窓を開けたまま冬の国境を超えた時のボロ車だったのだ。更に磨きがかかった、、、

で、とにかく歓迎してくれ、前回も行った川にサケを見に連れていってくれ、夜は早速シンセのネイサンを加えた3人でレコーディング。ネイサンの多分普通のアパートなのに窓も開けて爆音もなんのその、なのだった。


(続く)

2016-01-12  山内佐芽

11月中旬からの1ヶ月に及ぶアジアツアーを前に、裏山のハルリ池に紅葉を見納めに母(佐芽・サガ)を連れてドライブした。少しだけど手を引いて一緒に歩いた。

ツアーの中頃に母が食べなくなったと姉から知らせが来た。どうすることもできず、不安を押し殺して旅を続け、ビルマで父の足跡を辿り奇跡や出会いでウルウルして12月中旬帰国。その時の母はすぐにも死ぬのかというような状況だった。ウルウルはなおも続いた。


一旦は危機を脱したものの、下降線は続いた。在宅診療の上に在宅看護も追加し、電動式ベッドを入れ、日々状況は変化していった。姉の介護にも限界が近づいていた。

年を越せるだろうかと思ったが、幸い兄たち家族の集まる新年を迎えることができた。が、かれらが帰ってからいよいよ脚が萎え、液体さえも喉を通るのが難しくなり、声を出す元気もなくなってきた。最後の3、4日は息も荒く苦しそうだった。それでも最後までオシメでなくトイレで用をたす意思を持っていた。


1月9日、新年最初の演奏のため筑後市の芸文館に車で行く朝8時に便器に座らせてベッドに戻し、そして黙ってそっと出た。出て行くことを知られることで気落ちするようなことが僅かでもないように。

12:40、芸文館が見えて来たところで訃報の電話。それからあとは共演者のハエちち(ダンス)に会っても、受付や事務員や関係者の前でも涙があふれ、気持ちは上の空でコントロールできないまま14時、ソロ演奏に入った。


実に見事なタイミングで逝った。

芸文館ライブにしろ、翌週に控える1週間の関西ツアー、そして2月の台湾ツアーなど、どれにも影響を与えなかった。

今後のスケジュールをどうするか随分悩んだのだった。結論としては母の死を予定する考え方自体が不遜であり、あくまでも生を生きるのが基本だと思い、若干の変更はしたものの計画を進めて来た。とはいうものの当然苦渋が消えたわけではなかった。

すべてをリセットして、動く2016年の年明けの幕を開ける死だった。

最後まで生きる意思を持ち、残される者たちに1ヶ月間の猶予を与え、悔いのない長寿を全うし、最後の瞬間は安らかに息を引き取ったようだ。

毅然、気丈、、、もちろん優しかった93歳、大往生。

ますます自分の道を歩き自分の活動を存分に楽しもう。それが母のメッセージだと思う。




独り言、、、


●母は生来の真面目さゆえに、認知症と老衰が進んでいく中で自分の頭の中が整理できないことを悲しんでいた。いったいどうなっているのか、どうしてなのか教えてと訊かれ、再々言葉が詰まった。


●私は誰だ?などと母に訊くのに、だんだん名前の間違いが増えてきて、でもみんなコミュニケーションとして軽く笑っていたのだが、ある日「誰の名前を言っても間違う」と1回きりだが悲しそうに呟くのを聞いて胸が締め付けられ、猛反省した。


●父の急逝の時、兄たち全員が初めて病院に集った直後にスクランブルがかかった。今回それを恐れていたのだがやはりそうなった。(全員集まるのを見届ける、あるいは呼び寄せる。)


●姉が小さなメモ帳介護の記録を書き始めたのだが、 1月9日で最後のページが終わった。


ポルトガルから2016年ニューリリースCD "The presence of air particles ignited by memory” が届いたのが、「1月9日 12:30頃」と郵便局の不在届表に記載されていた。


●大戦中に父が数年滞在した、未来の妻サガを連想したであろうビルマのサガインを訪問したこと。これから始動するバンド名をサガインとしたこと、などがつながってきた。

2015-12-31  ビルマ 完 (サガイン)

サガイン到着日に主な目的を果たせてしまったので気分は楽だ。

街をブラブラしていると目立つのか、よくジロジロ見られる。

マーケットの賑わい活気は凄い。積み上げた袋から血がしたたり路上に溜まりを作っている。ビンロウを噛んで吐きすてる赤いツバ。たかるハエ。等々文明社会ではタブーとされる価値観について考えてしまう。

イツからナニゴトがナゼ許されなくなったのか。


美容室に入った。みんな困った風な顔をしている。となりから英語が話せる人が来て、男はダメだという。日本じゃOKだよと言って出たので、習慣が変わるかもしれない。

それで理髪店に入った。3分で終わってしまうのでスキバサミを指示。それでも5、6分。洗髪もない。100円だから文句も言えない。変なガイジンに早く帰ってもらいたかっただけかもしれない。

きのうは時間がなかったので、再度貨物廠跡を訪問。さすが英国の建物は頑丈で現役だ。そこで働いている女性たちが大騒ぎ。でも向かいからお茶を買ってきてくれたり記念撮影したりと接待してくれた。

夕方、橋の見えるイラワジ川畔で時間を過ごした。ここも父の好きなスポットで、スケッチなどが残っている。すぐ横では若者たちが釣りをしたり頭を洗ったり泳いだりしている。この原風景は変わっていないのだろう。足で櫓をこぐ舟は、さすがにエンジンに替わっていた。

川幅は広く悠久の時間が流れている。夕陽は素晴らしかった。ソプラニーノサックスで曲ができた。


サガイン3日目最終日。

夜9時に眠る街はワイファイも不安定で、自然早起きになる。

貨物廠と密接なはずのサガイン駅に行った。古いし小さいしもう使われてないのかと思った。駅長が現れたので父のことに触れたあと、地図がないか尋ねた。実はサガインの地図がどこにもなく、ホテルマンと手描きの地図を作って動いていたのだ。すると何を思ったのか、午後行く予定にしていた10km程離れたカムロパゴダにバイクで連れて行くと言い出したのだ。

カムロはビルマ最大のパゴダで持参の父の写真にも写っていた。お願いした。でも駅長さん、、ナゼ、、いいのかしら。

着いたカムロは金ピカで、ツーリストと土産屋で溢れていた。父一行の写真では、誰もいない静けさで、ライオン像もパゴダも真っ白だし、かれらはパゴダの上に上ってもいるのだ。巨大さには感銘を受けたが早々に帰った。70年前とこうも変わってしまった。もっとも日本もその頃は随分違ったのだろうが。

さて駅長さん、その後サガインヒルや観光客の行かない要塞跡や舟の渡しなどにも連れていってくれたのだった。お互い名前も知らぬままに。


かくしてビルマ・サガインを去る朝が来た。例のタクシードライバーマンダレー空港行きを9時に頼んでおいた。

見納めにホテル屋上からサガインヒルを眺める。朝霧の中に数々のパゴダのシルエットが浮かび、やがて金色の光を放つ。

街に出た。相変わらず活気があり、車もバイクもクラクションばかり鳴らし、みんな気が立っている。しばらく眺めていた。

そして気付いた。こんなのを見に来たんじゃない。エキゾチズムという違いをでなく、世界に通じ合う、共通の人の心性と風景を見たいのだ。

車が増えたこの4、5年以前は、交通騒音もスピーカーから大音量で流れる音楽や祈りもなかったはずだ。それにどこもかしこも自然に還らないゴミゴミゴミ。

パゴダだらけのこの小さな街は、ほんのちょっと前まで静けさに包まれていたのではないか。父が愛したのはそんなサガインとビルマだったはずだ。

人々はいつも父の写真に群がった。それ程昔で珍しい写真でもあった。そしてそれをきっかけにいくつもの出会いや奇跡が起こったのは、写真にも表れている父たちの人間同士の交流が時間や空間を超えて綾なしたのだ。ぼくが探しに来たのは、そんな世界や宇宙につながる心のような気がする。

なのにここもすでに「自由主義経済」に取り込まれ、人の気持ちが荒くなっているのか。荒い気が世界を覆っているのか。


イラワジ川畔に行こう。行きたい。強い衝動が起きた。もう8時をとうに回っていた。 急ぎ足で懸命に歩く、、、間に合った、、。

川はひとまず浮世に関係なく滔々と流れ、父のスケッチのままの風景があった。