いるかホテルで待ちながら

2012-12-20

aphasiaのような

_燭盻颪べきことがないということを確認するために気がつけば何かを書いているという事態がしばしばあって、それは僕がこの僕であらずにはいられないことの確認であり、所詮は有限の存在でしかありえないことの確認である。暫く僕はひたすら「分析」を続けるしかない。もちろん「総合」を彼方に見据えながらの「分析」でなければ意味がないのだが。



読書について
 

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)


ファッション学のすべて (ハンドブック・シリーズ)

ファッション学のすべて (ハンドブック・シリーズ)




短歌には少しずつ興味を抱くようになっている。あとファッション。ユベール・ド・ジヴァンシーというデザイナーに近頃は関心が出てきた。様々なイメージの結節点としてのファッションについて。


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2012-12-17

よそ者についての補論

選挙があって、国政がまた大きく変化することになりそうだ。諸事情あって投票には行かなかったが、仮に投票に行けていたとしても、行っていたのかどうかというのは正直にいって微妙な所である。投票権というのは国民に保障された権利であって義務ではないのだから、もちろん棄権しようがしまいが勝手であるわけだし(例えばオーストラリアなど、投票権を棄権したら罰則が科される国というのは、どういう理屈でそうなっていった制度になっているのだろう?)、どうも自分の身の回りのこと以外についてあまり関心が湧かない。強いて言えば徴兵はされたくないし、消費税はあまり上がってほしくない。社会に出て様々な制度に曝されるようになったら、政治的なことについても自覚的になるのだろうけど(当然、自分の「身の回り」のことも全て制度によって構築されているのだから)、いまはある程度は盲目でも別に構わないと思う。所詮は大学生である。そうしている間に物事が不可逆的に動いていってしまうとしても、それはそれで仕方が無い。



∨佑橋川文三という評論家が割と好きなのであるが、彼が三島由紀夫の『文化防衛論』によせて書いた批評文に『美の論理と政治の論理』というものがある。ふと思い出して読み返してみる。やはり無駄のない美しい文体である。二人とも美の論理で思考していながら、政治について語っているのだから、面白い。



「しかしどうして彼らはすんなりと社会に適応できるのだろうか」と自問する。「それは彼らに適応しようという意志があるからです」と自答する。「初めに言葉ありき、は本当なのだろうか」と自問する。「それは本当です」と自答する。「メロスには政治が分からなかったのだろうか」と自問する。「仮に分からなかったとしても人は政治的な存在でしかありえない」と自答する。



ゑ─垢叛犬ていたいものですと彼は言った。西洋言語においてこういった文章は接続法を用いて表されるが、接続法とは主観性を示す法である。



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2012-12-13

ぼくが電話をかけている場所

小松未歩の『氷の上に立つように』という曲(名探偵コナンの主題歌。昔アニメを見ていてよく聴いた気がする)の歌詞で「前髪を少し短くしただけで 生まれ変われちゃう そんな考え方が好きよ」というものがある。僕も一昨日前髪を少し短くした。というより、前髪も少し短くしたし、全体的にコンパクトな印象になるように、切り整えた。特に裾はかなり短くした。髪の毛の色も前回染めた時からするとかなり色が抜けて明るく発色していたし(茶色ではあるが、かなり金に近かった。髪質的に明るく出やすいらしい)、もう少し落ち着いたトーンの色合いにしようと思い立って、やや赤みがかった、以前と比べるともう少し深みのある茶色に染め直した。新しい年を迎えるには先ずは髪から、という言葉はあるのだろうか。いよいよ2013年が近づいてきている。年が変わるだけで生まれ変われちゃうという考え方も、悪くない。



公認会計士資格を取るべく勉強している。なぜか。ここでなぜかという問いを発しても仕方が無いし(だいたいのことは自分の意思よりもタイミングの問題で決まってしまう)、実際の所はよく分かっていない(公認会計士を職にしている人は、残念ながら知り合いにあまりいない)。それなりの社会的地位だとか、それなりのサラリーだとか、それなりの安定性だとか、そのあたりの答えが最も妥当ではあるし、僕としてもそれらの理由には頷ける。おそらくそれ以上に高尚な理由はない。僕も21歳になったのだし、いつまでも何も考えずに生きていけるほど社会は甘くないのだろう。僕にとって「試験勉強」というものが持つ意味や「独学すること」が持つ意味というのはかなり大きいようで、それはある意味では過去の自分の在り方をなぞり直しているようでもあって(精神分析タームを用いれば「抑圧していたものの回帰」)、少し複雑な思いに囚われてしまうのだけれど、無理のない生き方を模索する上で、落ち着くべき所に落ち着こうと日々少しずつ勉強している。失った何かがあるとすれば、それを取り戻すべく。



メタファーで遠くにまで行けたら良いなといつも思っている。口笛を遠く 永遠に祈るように遠く。








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2012-12-11

火星の運河を。絶対的現存を。

_瓩てしまえば些細な出来事に過ぎなかったと笑いながら振り返るに違いないと分かっていながら、いざ事を構えるにあたってはどうも深刻に考えてしまって、気持ちが塞ぎ込むことがしばしばある。そしてそんな下らないことで落ち込んでしまう己の心の弱さに辟易として、こんな欠陥だらけの自分を一から全て作り変えてしまいたいという夢想を弄び、結局は漸進的な解決策を求めて現実を直視することも無く、いつものように逃げ出す。また一つ「逃げ出した」という経験的事実が僕の中に堆積する。「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」と念仏のように唱えながら、向かい側に聳える壁を乗り越えてみようとすることも無く、ちっぽけなプライドを守ることを最優先にして、緩慢に死んでいく可能性の数々から目を背けて、その結果僕に残されるものがこんなチッポケであるはずがないと不平不満を漏らし、そしてまた己を取り囲む状況から逃げ出していく。永遠の逃避。



△箸海海泙能颪い討いて、僕が逃げ出すことをそれほどネガティヴに捉えているかというと、実はそうでもない。自分勝手な言い草を正当化しているのは承知ではあるが、逃げることが許されているのであれば幾らでも逃げだせばいいと僕は考えている。何か御しがたいものが迫ってきたときに闘わずに済むのであれば、それに越したことはない。嫌なことはしなければいい。もちろんその反射的作用として一抹の罪悪感を感じざるを得ないのは仕方が無いにしても、それですら考えようによっては貴重な心的経験として処理できてしまう(何も感じないよりは罪悪感でも何でも感じている方が良いだろう)。



2燭が書きたいわけではないのについ書きたくなるのは(「無駄口を叩く」というよりは「無駄キーボードを叩く」と言った方が良いのであろう)逃げ出しても逃げ出してもまだ僕はまだ生きていけるんだと確認したい時なのかもしれない。逃げ続けた先に僕のための個人的な世界が存在するのだろうか。都合のよいユートピアに思いを馳せながら、今日も僕は自分の存在のまどろっこさに足元を掬われる。段差に躓いて転んで、膝小僧を擦り剥く。立ちあがっては、また逃げ出すことを考えている。逃げるのも楽ではない。生を全うするにあたって逃げ足が速くある必要はないが、逃げ足を持続できることは重要であるように感じる。人生は長いのだ。



ぁ岼Δ擦覆い發里呂匹Υ萃イ辰討皸Δ擦覆い里澄廚箸いΔ△觴錣凌人を悟った時から、僕は逃げ出すようになったのだろう。その姿勢が誠実なのか不誠実なのかは分からない。倫理とは「愛せないものをそれでも愛することが出来るのか」という問いに集約されるように思われるのだが、僕に倫理観が欠如しているとすれば、意図的にその問いの存在を消去してしまっているからだろう。愛すべきものを愛することが出来るのであれば、というズルイ免罪符を自信気に携えて。



イ△訖佑法峽は詩人のようだ」と言われたことがある。僕はあまり上手くない冗談だと思ったが、あながち冗談でも無いのかもしれない。そして僕が仮に詩人のようであるとしても、決して詩人ではない。倫理的であるとしても、倫理がない、という時と同じ意味で。


最後に。詩人といえば、町田康詩集はなかなか好きです。





不具の心


俺はいつでも不具の心で
楽しい事を考える
俺はいつでも不具の心で
自由を二つに分離する
俺はいつでも不具の心で
腐った弁当を抱え椅子の上で
ぐったりする
俺はいつでも不具の心で
カステラを切断している
何もかもを愛するとき
どんな局面でも
次の一手を覚えているのだ
不具の心で



町田康詩集 (ハルキ文庫)

町田康詩集 (ハルキ文庫)





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2012-12-06

美術愛好家の陳列室

ゝど佞い浸には、ものを書くという習慣は途切れている。いやその言い方は不正確であるし、もしかするとズルイのかもしれない。色々と忙しくって。書きたいことがなくって。別に罰も当たらないだろうって。そうやってまたいつものように途切れていく。ぷっつん。



◆崕颪こと」が「表現すること」に不可分に結び付けられているとしたら(事実としておそらくそうなのだけれど)、それは僕にとって良くないことであって、歪んだ欲望に由来する単なる錯覚に過ぎないのだから、もっと純粋にテクニカルに書くことを追究しなければならないのだ。貪欲な好奇心でもってストイックに研鑽を積むこと。消去すべきは空想的で明確な指示対象を持たないロマン主義の残滓であり、称揚すべきは冷静な観察眼を失うことないリアリズム復興であり、標榜すべきは新しいリアリズムである。



するべきことの量をざっと考えてみると、思っていた以上に多いみたいだ。それくらいが遣り甲斐があってちょうどよいと強がっておこう。もうすぐ会社法のテキストをざっと一通り見終えたことになる。管理会計論というのはそれほど難しそうではない。問題は財務会計論なのだが(計算はあまり得意ではない)、やれやれ。淡々と処理するという一択しかない。そして残すは選択科目として経営学をやらなければならない。何とも軽薄な学問であるというように思ってしまうのだが、プラグマティックに捉えるべきところはプラグマティックに捉えるべきであろう。



ず鯑はBunkamuraの『巨匠たちの英国水彩画展』に行ってきた。150点も水彩画を眺めるというのは初めての経験で、全体的な印象としては「綺麗だなあ」という程度のものであったが(イメージを言語化するという作業がどうも億劫でしかも下手で、おまけにその稚拙さを覆い隠そうという意欲もあまりない)、ラファエル前派のコーナーでは19世紀後半から世紀末にかけての「いかにも」な耽美的な絵がいくつかあって、割と気にいった。装丁が美しかったのと、図版が大きくて見やすかったから、カタログを帰り際に買った。



2010年代の新たな情報社会は、今まで以上に生身の人間の関係性の地位が逆接的に浮上する時代となるだろう。それを実感する日々が幸せであるのか不幸であるのかの判断は、とても難しい。ケース・バイ・ケース。




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