左巻健男&理科の探検’s blog

左巻健男(さまきたけお)&理科の探検(RikaTan)誌

最首悟・盛口襄他編著『理科を変える、学校が変わる』七つ森書館書評

昔、岩波の『科学』誌に書いた『理科を変える、学校が変わる』2001.12の書評を載せておこう。2002年に書いたのだろう。
 さっきツイッター最首悟さんが、ぼくに「反科学といわれた」と書いていたので、PC文書箱から引っ張り出してきた。


 初等中等理科教育が危機を深めている。これについて,本誌も特集をし*1,また私も有志で問題を提起してきた*2。
 学習指導要領が改訂されるたびに,初等中等理科教育は,その内容程度と時間数を落とされてきた。ついには,この4月から先進諸国では最低の内容程度と時間数にまで行き着いた。
 その内容も,根本的構築をしたものではなく,文部科学省学力テストのできが悪かったものをただつまみ食い的にピックアップして削除することを繰り返してきただけである。複雑高度化する現代社会にあってますます行動判断や政治的判断の元になる科学リテラシーが求められているのに,今や理科教育の内容は,本来的な知のつながりを断ち切られ断片の群れにされてしまった。その結果は,低レベルで暗記してすむようなつまらない学習になっている。その再構築には,理科教育を高いレベルの科学をやさしく教えることにチャレンジするようなものに変えていくしかないというのが,長年,中学生や高校生に理科を教えながら初等中等自然科学教育を研究してきた私のスタンスである。
 だからこそ,本書を一目見たとき,期待感を強くもったのである。
 理科学習は,本来総合学習だというメッセージが込められた編集意図が題名から読みとれる。「自然と自然科学をコアにして,そのコアからいろいろな方向へと伸ばした触手を絡ませる総合体としての理科学習」という意味なら,理科教育の根本的再構築のために私も提言していることである。いったい,学校が変わるような理科学習とは,具体的にどんなものか。
 最初にあげられているのは「はしりもの・かわりだね」の実践報告。これは,極地方式研究会がかつて提起した授業プランである*3。なるほど,これは単なる「季節便り」の実践ではない。たとえば「走りもの」は,人類が採集と狩猟の時代に,目が鋭い者による「走りもの」の発見は来るべき旬の予測になった。「はしりもの・かわりだね」は,実物を教室に持ち込んで日頃子どもたちが見慣れた場所から今まで気づかなかったことを発見するのがミソの学習になりうる。
 その他,地球ができてから今までを40メートルの年表にまとめる学習,目に見えないものを豊富に実物を見せたり,おもしろ実験ものづくりをしたりして具体性を土台にして認識させていく学習など期待に違わない実践が載っている。
 ただ,とくに高等学校の実践を読みながら感じたことだが,本書には既視感のあるアジテーションが散りばめられているようである。
 ハードパスかソフトパスか。西洋近代科学か西洋近代科学批判か。等々,二分法的な図式化が目に付くのである。
 本書は繰り返し後者の立場に立とうとアジテーションする。後者の立場は,「切断の近代科学ではなく“いのち”を根幹にした詩のような理科」「自然エネルギーバイオマス,循環重視,能率でなく効率を,地方自治NGO,草の根,ジェネラリスト,教養主義ジェンダーフリー,多様性,有機農法,等々をキーワードにするような理科」が提唱される。近代科学は,ハードパスの尖兵であると断罪される。
 私が1970年前後の学生時代によく聞かされた近代科学批判である。編者の山口幸夫氏や最首悟氏は,当時からの筋金入りの近代科学批判派であろう。しかし,理科教育ではほとんど素人のようで,本書のかれらの論説は完全に脇役で存在感がない。本書を一読すれば,本書の実質的な編者は,本書の論説でも実践報告でも本書の編集でも盛口襄氏であることがわかる。私はそこに注目したい。この単純な図式で後者の立場に立てば理科学習が変わるのだろうか。
 盛口氏は,かつて,いわば近代科学のもっともメインの位置を占めるであろう原子論を元にした高校化学教育を展開してきていた。私は,化学教育では,盛口氏が理科教育の雑誌や単行本で展開する化学教育論はいつも注目していた。盛口氏の化学教材を見る目,新しい教材の開発の力は抜きんでいた。
 その盛口氏が,遅れてきた青年のように,何十年か前にさんざん聞かされたアジテーションを行うのである。それが私には驚きであり,解せぬところである。
 結局,日教組という教職員組合の一つで行っている教育研究集会理科教育分科会の場で,一緒に共同研究者をしていた最首氏らの「ハードパスかソフトパスのどちらの道を選ぶか」という突きつけに天地がひっくり返る思いを持ちながらもその立場へと移してきたということのようであった。それなら「近代科学の行き詰まり,西欧近代の行き詰まり」をどう理科教育で打開しようと言うのか。
 その一つは高校の物理・化学・生物・地学の4科目分断型はハードパス対応型だから自然を丸ごと一つにとらえる総合的視点が必要ということである。たとえば,その総合的視点は何か。盛口氏の答えは,日本の子どもたちは生まれながらに「連続の国の住人」で原子・分子はわからない,わからないならそのままにしておけばよい,物質の示す多彩な現象をまず楽しむ化学があってもよい,となる。西洋文明からすれば日本はどだい文化の質が違うと言う。それを知らずに原子・分子を教えるのは生徒の心を踏みにじっているとまで言う。それへの反証は小学生でさえも原子分子の世界をいきいきと学習するという様々な実践報告群の存在である。私は,中学生でも,本書の執筆者の一人岩間氏の「原子の表を元に教えたら原子のことをたのしくわかるように教えられた」という原子の世界についての実践報告を聞いている。
 結局,この組合の理科教育分科会の基本方向は,「自然科学の光と陰を教えよう」と言いつつ,単純な反科学論に陥っているのではないか。近代科学に変わるソフトパス科学とやらは,盛口氏が別の著作で推奨していた水も油に変えられるというクラタ式油化装置のような「波動エネルギー」の科学なのかもしれない。私は,その波動エネルギーのような「まるごと自然を,世界を」つかみ取るというソフトパス科学に科学性を見ることができない。
 いや,よく見れば,過去はもちろん現在の盛口氏の化学の実践でさえも,ほとんどはハードパス科学に基づいたものではないのかと思われる。本書の他の実践報告の多くもそうである。
 読み進めて行くにつれて実践報告がアジテーション化し,訳がわからなくなるというのが私の正直な感想である。訳がわからなくなるのは私がハードパス科学の「呪い」から脱却できないからであろうか。
 「ハードパスかソフトパスか」という単純な図式で物事を判断することに余裕のない焦りがあるように見える。無意味で饒舌なだけの論説,アジテーションはやめて,いくつかはあるすぐれた実践報告だけで読者に迫るとよかったのではないか。そこが残念でならない。


*1 特集を整理し直して単行本になっている。
 左巻健男苅谷剛彦編著『理科・数学教育の危機と再生』(岩波書店
*2 左巻健男編著『「理数力」崩壊』(日本実業出版社