瑣事加減

2011-03-04

山田野理夫編『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(5)

 5頁(頁付なし)は中扉で昭和49年版・昭和52年版には「第一部 ザシキワラシ」とあったが昭和63年版では「ザシキワラシ」のみである(以下同じ)。確かに「目次」には昭和49年版以来「ザシキワラシ」(2頁)とのみで、部立に番号は振られていなかった。本文は裏の6頁から始まって154頁まで、155頁(頁付なし)は中扉「第二部 ワラワミコとダイダラボッチ」で本文は156〜196頁、197頁(頁付なし)は中扉「第三部 オシラサマ」で本文は198〜267頁である。

 昭和49年版ではカバー・扉・奥付に「監修 山下久男/編集*1 山田野理夫」と出ていたのだが、昭和52年版・昭和63年版ともに奥付に「編者 山田野理夫」とだけになってしまっているのと連動して、昭和49年版では「監修者の解説」と題されていた山下氏の解説(268〜283頁)は、後の2版では単に「解説」となっている。山下氏及び解説の内容については後述する*2。ここでは疑問箇所のみを指摘して置こう。

・270頁11 「互いに日本民俗研究について互いに意気投じたのである。」どちらか削除すべき。

・277頁15 「妖」 → 昭和52年版で「妖」と修正。

・278頁3〜4 平家物語からの引用の鍵括弧の始めがない。中公文庫版に至って「……出ている羽黒より、……」と補われる。

・280頁11 「小田内敏」13「小田内敏」は同一人物であろう。

・282頁14 「昭四十年」 → 昭和63年版「昭四十年」と修正。


 続いて山田野理夫「遠野の市(ルビまち)の謡(ルビうた)」(284〜296頁)であるが、まず疑問箇所を挙げておく。

・285頁6 「流矢にあたり死傷、死骸を東禅寺に埋葬した」は「死亡」だろう。

・285頁13・287頁4・292頁1・296頁9 出典を(「遠野物語」)とするが「遠野物語拾遺」の方である。文体で分かるが、やはり区別して欲しい。

・290頁14 「平洋」 → 中公文庫版で「平洋」と修正。

・292頁9 「枕返し」 → 昭和63年版で「枕返し」と修正。

・295頁1 前の行からの文が続いているのに何故か行頭が1字下げ → 中公文庫版(字詰めは違うが)は修正。

・295頁3 「技」 → 昭和52年版で「技」と修正。

 さて、次に内容について確認してみたいのだが、まず冒頭部分を引用しておこう(284頁)。

 私たち―羽生和男、宮崎英二、山田の三人は花巻から自動車(振仮名クルマ)を借り受けて遠野の町に入った。北上山地を貫く街道を経て、

 <花巻より十余里の路上には町場(ルビまちば)三か所あり。その他は青き山と原野なり。>(「遠野物語」)

 私たちは遠野市の菊池幹さんの紹介で旅籠「福山荘」に泊った。私たちの通されたのは二階の部屋だが、一か月前、善光寺の尼僧(ルビあまみや)が供十数人とともにこの部屋に泊ったという。そのとき前日から大掃除し、一切の他の客を断ったそうだ。まるで大名行列である。


 こんな書き出しなので、前回紹介した挿入写真に関連する紀行文なのかと考えてしまうが、そうではない。ちなみに羽生和男(1925.6.8〜2009.6.9*3)は奥付に「発行者」として見える人物、宮崎英二も宝文館出版の人で、この人が4頁の「宝文館出版写真部」であろうか。そして、もう1つ『遠野物語』序文からの引用を挟んでその次の段落から、話題が変わる(285頁2行目以下)。

 私は遠野に関する民謡盛岡できいたことがあった。品のあって悠長な囃子であったと印象に残っている。「遠野囃子」とか「南部囃子」といわれるものだ。九月十四、五日の両日に八幡神社の祭に山車に従う囃子の調子の曲調である。あの時は民謡研究家は武田忠一郎さんと一緒だ。


 武田忠一郎(1892.5.8〜1970.12.10)の回想である。そして、以下は遠野の歴史・風土遠野民謡とともに、「武田さん」との会話をも織り交ぜながら紹介するという体裁になっていて、冒頭の3人の行動らしいのは、次の箇所のみである*4

 遠野は凶作に見舞われたものだ。私たちは天明二年大慈寺十九世義山和尚が、凶作で餓死したものを追悼するために、五百体の羅漢を彫ったときき、私たちも*5たずねていった。餓死者たちの霊魂のとどまるにふさわしい山中だ。豊年祝いのにぎやかさは白々しい。(286頁6〜8)

 私たちも中世の面影を残すこの鍋倉城跡をたずねた。城跡へのぼる石段の石柱には遠野商家地方政治家の名が彫まれている。それもちいさな歴史である。(290頁1〜2)


 以下296頁9行目まで「遠野の市の謡」の題の通り、民謡を絡めた話題が続くが、最後に話題が変わる。いや、変わろうとする。

 その、最後の段落(296頁10行目)を引いておこう。

 さて、次に私たちは佐々木喜善の息吹(ルビいぶ)きを追うことにする。


 風土民謡を扱った本題(285頁2〜296頁9)の前振りに当たる、285頁1行目までの1頁分の内容、「私たち」3人の遠野旅行の顛末はどうなったのか、と読者としては当然気に掛かっている訳だが、そこでこの「さて、」で、漸くそっちの話が始まるのかと思いの外、後は、ない。別に書いたのかも知れないが、この本の中にはない。

 しかしこれは、挿入されている写真及び散文詩が、その続きのように読める。確かに、これらの写真と散文詩に「佐々木喜善の息吹き」が感じられるからだ(感性の違いはあろうが)。

 ところが、昭和63年版では、この1行、下に「(了)」とのみあって、あっさり削除されている。(以下続稿)

*1:奥付は「編者」。

*2:日付記入予定。

*3:日本出版クラブHP「出版平和堂」合祀者名簿による。

*4:挿入写真を介して「私たち」の行動と結び付けられそうな部分はもう少しある。

*5:既に「私たちは」とあるのでこの「私たちも」は要らないのではないか。

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