瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張「装飾評伝」(08)

 2012年11月13日付(6)に、松本清張短篇全集09『誤差』(光文社文庫、カッパ・ノベルス)の、「昭和三十九年十月」付の「あとがき」から関係箇所を引いて置いた。松本氏本人が「発表当時、モデルは岸田劉生ではないかと言われたが、劉生がモデルでないにしても、それらしい性格は取り入れてある」という言い回しをして、一部認めつつ全面的にモデル扱いされることには抵抗しているようである。「発表当時」の批評類はまだ探していないが、花田氏や川勝氏がこうした扱いの例として挙げているのが、美術評論家田中穣(1925.3.25〜2005.4.25)の「贋作の思想」である。
 これは先年廃刊になった學燈社の雑誌「國文學 解釈と教材の研究」第28巻第12号(通巻四一一号)、9月号(昭和58年9月20日発行・定価七九〇円・188頁)12頁〜17頁上段に掲載された。この号は特集「松本清張・脱領域の眼」で、その中の「松本清張・体験と創造」のうちの1本。

 松本清張文学における「贋作の思想」について書いてほ/しい、という編集部からの注文である。美術のことについ/てならとまどうことはなかったが、これは違った。引き受/けても、果たして期待にかなう文章が書けるかどうか、心/配だったのである。


 このような書出し(12頁上段)で、次の段落では「美術を主題にした著作が多い」松本氏が「文壇に登場する前、新聞社でグラフィック・デザインの仕事を」していたことから、編集部は「新聞社の美術記者……をしながら、……十冊を越す美術関係の著書を出してきた」田中氏が、松本氏の“体験と創造”を語るに相応しい人物であろうと目星を付けて依頼してきたのではないか、と推測し(12頁上段)、松本氏が「そうであるように、私もどんな原稿でも、気がすむまで調べないと書けない性分」であるが、松本氏の「エネルギッシュにつぎつぎ物される膨大な著作に、一通りでも目を通す」のは無理で、「つとめて調べの万全を期して物を書いてきている私」としても、「こんどばかりは……手さぐりで書くより仕方ない」(12頁下段)と、まるまる1頁分を言い訳に費やしている。
 そしてまず、13頁上段〜14頁下段5行めに贋作作りを扱った「真贋の森」について述べ、ついで14頁下段6行め〜15頁下段20行め「装飾評伝」、15頁下段21行め〜16頁上段16行め「小説日本芸譚」、それから手短に「劉生晩期(岸田劉生晩景)*1」「青木繁坂本繁二郎」「天才画の女」に触れる。ここまでは最初の言い訳の通り、簡単な「解説」といった内容だ*2が、最後のまとめとして、美術記者として、読売新聞社主催のゴーギャン*3に関連して「読売新聞」に「ゴーギャンの世界」という続き物を連載していたとき、「ゴーギャンについてこれまで書かれた評論・伝記の翻訳書や国内の著作も読みあさった」ときのことを持ち出す。「そのとき」ゴーギャンについての「どんな論や、詳細な記録よりも、事実の骨組みを借りて創作されたサマセット・モームの「月(以上16頁下段)と六ペンス」の主人公の方が、はるかに的確にゴーギャンを感じさせた」という体験を紹介し、松本氏も同様に「死んだ事実よりはるかに真実の永遠に生き続ける嘘」を「どんな著作にもぶちこんでいるように、私には見える。そこに私は、清張文学における「贋作の思想」を見るのだ。」と締めくくっている(17頁上段)。
 この締め括りから振り返ると、田中氏は「装飾評伝」を「はるかに真実の……嘘」として、捉えようとしているように、思われるのである。(以下続稿)

*1:16頁上段には「劉生晩期」とあるが、12頁上段には「岸田劉生晩景」とある。ここの寸評は後日引用するつもり。

*2:普段の田中氏の「調べの万全」がどこまで徹底しているのかは、他に田中氏の本を読んでいない今の私には発言出来ない。

*3:「十数年前、西武百貨店の渋谷店で」とあるが、これは横浜美術館 美術情報センターにて図録『ゴーギャン展』を検索するに、昭和44年(1969)8月23日〜9月30日に開催されたものであることが分かる。なお、yokkw329yのブログ「見てきた展覧会」「見てきた展覧会 2  昭和41年〜50年」に昭和44年(1969)8月23日〜9月3日に池袋西武百貨店ゴーギャン展が開催されたことが見えているが、「9月3日」は「9月30日」の誤りで、「池袋」は「渋谷」の誤りのようである。昭和44年(1969)10月5日〜11月7日に読売新聞社との共催で国立京都近代美術館で開催されたゴーギャン展はこれが巡回したもので、さらに11月13日〜12月7日まで福岡県文化会館に巡回している。