瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(06)

 小沢信男(1927.6.5生)の「わたしの赤マント」については、すずしろのブログ「スナーク森」の2013年1月26日付「怪人赤マント追記」に詳しい紹介があり、vzf12576(1951生)のブログ「本はねころんで」の2011-07-06「小沢信男著作 113」に、河野多恵子の「文芸時評」からこの作品について述べた部分が引用してあります。但しこの「文芸時評<上>」が掲載されたのは「1982年7月20日」ではなくて昭和57年(1982)7月26日(月曜日)付「朝日新聞」34688号(夕刊)の(5)「文化」面です*1
小沢信男『東京百景』一九八九年六月一五日初版発行・定価1942円・河出書房新社・263頁・四六判上製本*2
 4部構成で9〜89頁「 短篇集 わたしの赤マント」は6篇から成りその最初、11〜27頁が「わたしの赤マント」です。地の文の一切ない小説で、架空の雑誌編集部からの書簡に挟まれて、牧野次郎という写真家の「赤マント」追究が展開します。まず、牧野氏宛「昭和五十七年×月×日」付の「週刊アダルト自身」編集部から「お尋ねします」欄への寄稿依頼(12頁1〜13行め)、牧野氏の「週刊アダルト自身」のへの投稿(13頁1〜10行め)、それに対する読者3名からの返答(13頁11〜14頁20行め)、これを受けての「お尋ねします」欄への再度の投稿(15頁1〜19行め)、そして小学校時代の級友川端氏からの長電話(16頁〜24頁6行め)、「お尋ねします」欄への3度めの、長文の投稿(24頁7行め〜27頁4行め)、それに対する「週刊アダルト自身」編集部からの掲載を断る「昭和五十七年×月××日」付の返信(27頁5〜14行め)、という構成になっています。
 内容については、すずしろ氏や河野氏文芸時評」の要約の通りですので、改めて要約することはしないで、頭から、まずは牧野氏の最初の投稿から、「赤マント」についての記述を抜いて、検討して行くことにします。

牧野次郎 日中戦争の最中のころ、東京の町々に夜な夜な赤マントを着た怪人が現れて、女こどもを襲/うという事件、いや、噂がありました。たぶん、昭和十三、四年。私が小学五、六年生の時分です。‥‥


 牧野氏が赤マントを思い出したのは「先年」の口裂け女の噂によってで、「赤マントは、まさに口裂け女の先輩にあた」るが、口裂け女は「私きれい」などと言う「容貌ばかり気にしているナルシストのお化け」であるのに対して、6〜10行め、

‥‥。その点、赤マントは問答無用で襲いかかるのだから、/恐ろしさも強烈だし、凄みのあるデマだったと思います。だが、それにしては、赤マントにかんする記/録は殆どないようなのです。そこで、当時の小学生諸君にお願い。赤マントにまつわるご記憶を、なん/なりとお聞かせください。いつ、どこで、なにをしたか。体験的にナマナマしいほうが有難くはありま/す。また、お気づきの資料をご教示ください。恩に着ます。(東京 写真家)


 私の注目したいのは「昭和十三、四年」そして「小学五、六年生」と時期を指定していることですが、これは同級生からの長電話の内容を検討する際に触れることにして、「週刊アダルト自身」に掲載されたと思しき返答の、1つめ(13頁11〜18行め)から見て行きましょう。

牧野次郎様へ 赤マントは東京にだけ現れたのではございません。私が大阪市南区の高津小学校の三年/生ぐらいの頃、たしかにそういう噂がありました。よほど大層な騒ぎでした。道頓堀の橋の袂の公衆便/所に赤マントがでたというので、近所の男の子たちが隊を組んで、怖いもの見たさの見物に駆けていっ/たものでした。トイレで用を足していると、赤マントがふいに現れてお尻をなでるのだそうで、そのた/め私ども女子組は、学校のトイレにも団体で参りました。夜などは自宅でも小用に立つのが怖くてこま/りました。あの妙な噂の元は、紙芝居ではなかったでしょうか。なにかそんなふうに伺った気がします。/いまとなれば懐かしく、大阪の町々にも夜な夜な現れた、ということを申しあげたくて一筆いたしまし/た。(大阪 紀田福子)


 大阪市立高津小学校は当時、道頓堀に程近い大阪市南区(現・中央区)の、現在、国立文楽劇場に建っている場所にありました。
 先に触れた「本はねころんで」の2011-07-07「小沢信男著作 114」に、情報提供者・紀田福子は「福田紀一」だと指摘されています。福田紀一(1930.2.11生)は昭和4年度の生れですから特段の事情のない限り「三年生」だったのは北川幸比古(1930.10.10生)の1学年上の昭和13年度です。福田氏だとすれば「男の子たち」の方に属していたことになりますが、とにかく全くの創作ではなさそうです。ただ、研究資料として活用するには、このままでは「小説」に「加工」されているが「骨子」は恐らく「そのまま」なのだろう、という断り書を付けた上で「参考資料」として言及することになりますから、やはり加工前の原型を知りたいと思うのです。小説は小説として、これで良いとしても。(以下続稿)

*1:2024年2月12日追記】この「文芸時評」は『河野多惠子全集』第九巻に再録されている。近く機会を作って念の為、確認して置きたい。

*2:2017年2月22日追記】投稿当時貼付出来なかった書影を、2017年2月22日付(155)に補って置いた。