瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(64)

 一昨日からの続きで中島公子『My Lost Childhood』所収「坂と赤マント」について。

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 主人公の弘子は、作者が公子(こうこ)という名前ですので「こうこ」と読みたくなってしまいますが、読みは示されていません。弘子は問題の「坂の頂点」の近くに住んでいて、近所に住む「同級生の那奈ちゃん」と「坂の上で毎朝待ち合わせて」文理科大学の塀に沿って女子アパートのところで電車通りに抜けて、そこから「停留所一つという距離」の「学校」に通っているというので、最寄りの窪町小學校ではなく大塚線の文理科大學前停留所の北西、1つ大塚駅寄りの、大塚窪町停留所に近い東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)で、続いて収録されている「乳の実」を見るに弘子は附属幼稚園から通っております。作者の中島公子(1932.11.24生)は昭和7年度生、小学校入学は昭和14年(1939)4月、卒業は昭和20年(1945)3月です。従って、この話の「小学三年生ぐらいのころ」は昭和16年度ということになります。そして、そのまま東京女子高等師範学校附属高等学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)を、昭和26年(1951)に卒業しています。
 まず、6頁6〜14行めを抜いてみましょう。

 それは弘子がかぜをひいて二、三日お休みをしたあとの朝だった。弘子より背は低いが頑丈/なからだつきの那奈ちゃんは、かけっこも早く、万事にすばしっこくて、まりのようによくは/ずむ体をまめによく動かした。おしゃべりするときも円い目をいっぱいに見開いてくるくる動/かし、指をつきだしたり首を振ったり、ときにはぴょんととび跳ねたりしながら体じゅうで話/す。まじめくさって「だれにも言っちゃだめよ」と念を押しながら、弘子以外には知らぬもの/のなさそうなここ二、三日の学校のできごとを話してくれる。そのなかに二日まえの朝礼で教/頭先生がなさった訓示の話があった。先生の訓示など、およそ二人の話題にはなりにくいもの/なのに、今朝は話す方も聞く方も熱がはいった。というのが、それは「赤マント」の話だった/からである。


 弘子が病弱だったことは連作の3作め「回復期」に、具体的に描かれています。
 先生が「赤マント」の訓示をしたというのは、昭和14年2月の騒ぎに際して、11月30日付(40)で見たように上野高等女学校では校長が訓示をしていました。他の学校でも同様のことがあったことでしょう。――なんとなれば、11月12日付(22)及び11月13日付(23)に引いた「やまと新聞」「萬朝報」の記事に見るように、警視庁が2月20日に、この噂の伝播に、教師が生徒の夜遊びを戒めるために赤マント出没の噂を利用していたことが一役買っていた*1らしいと知って、「市内各小学校宛注意書を送付」したことを受けての動きであろうと思われるからです。けれども、上野高女校長の訓示を聞いた警視庁情報課長の娘はそれで納得した風もなかったのでした。(以下続稿)

*1:このことは、11月18日付(28)及び11月21日付(31)に引いた「中央公論昭和14年4月号にも指摘されています。