瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

北杜夫『楡家の人びと』(09)

 この叔母の役割であるが、さらに後の平成18年(2006)1月に「日本経済新聞」に連載された「私の履歴書」を中心に纏めた『どくとるマンボウ回想記』日本経済新聞出版社)には、より明確に記述されている。
・単行本(二〇〇七年一月二十四日第一刷・定価1500円・235+14頁・四六判上製本

どくとるマンボウ回想記

どくとるマンボウ回想記

・日経文芸文庫(私の履歴書2013年10月23日第1刷発行・定価600円・246頁 単行本77〜121頁・文庫版頁「II 執筆開始」の4番めの節、単行本90〜93頁・文庫版87〜90頁2行め「「楡家の人びと」」がそれだが、まず冒頭の段落から見て置こう。単行本90頁2〜7行め・文庫版87頁2〜7行め、

「楡家の人びと」は、いつかは書こうと思っていた長篇であった。大学時代から、私|はト/ーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」を模して自分の家のことを書き|たいと考/えていた。マンの生家はリューベックで由緒ある商家だが、初めはたくまし|い生活力のあ/った血が、代々次第に紳士然としてくるとその力強さを失ない、更に芸|術性をおびてくる/と弱々しくなって滅んでしまうという没落史である。話に聞く祖父|などのことはいかにも/それに似たように見えたからである。*1 


 『ブッデンブローク家の人びと』を下敷きにしていることは全集月報の「創作余話」や初出が文藝誌でエッセイ集に再録された「「楡家」の裏側」にも述べてあったが、ここではわざわざそういうものを読もうという読者が対象ではない新聞掲載ということもあって、構図が分かるように説明している。
 叔母が出て来るのはその次の段落で、単行本90頁8行め〜91頁2行め・文庫版87頁8〜13行め、

 仙台に行ってからしばらくして、私の下宿に一人の叔母が訪ねてきた。小説に桃子|とい/う名で描いた、子を置いて家出をした叔母である。私はときどき彼女の家に行っ|て昔の話/を聞き、更に祖父が青山に建てた青山脳病院の写真を見せられた。まさしく|話に聞く宮殿/のような姿であった。私の知っている病院はずっと貧弱であり、まさし|くマン一家と似て/いるではないか。そのとき、私はこれでもうこの小説は書けると思っ|た。

とある。仙台に行って、というのは単行本11〜76頁・文庫版13〜74頁「Ⅰ 文学への目覚め」の17番め、最後の節、単行本73〜76頁・文庫版70頁10行め〜74頁5行め「大学進学」にあるように、旧姓松本高等学校を卒業して、昭和23年(1948)4月に仙台の東北大学医学部に入学したことを指す。昭和27年(1952)3月に卒業して、続く1年間のインターン実習までが仙台時代である。なお、別に次の雑誌に載る(222〜223頁)斎藤国夫 作成「北杜夫略年譜」を参照した。
KAWADE 夢ムック 文藝別冊「追悼総特集 北 杜夫 どくとるマンボウ文学館」2012年7月30日初版発行・定価1200円・河出書房新社・223頁・A5判並製本

 表紙が、『どくとるマンボウ回想記』文庫版と同じ写真である。
 『どくとるマンボウ回想記』に戻って、本格的に取材を始めたのはやはり「創作余話」や「「楡家」の裏側」と同じ時期のこととなっている。単行本91頁3〜5行め・文庫版87頁14行め〜88頁2行め、

 結婚してから本格的に、昔の病院の関係者をめぐって取材を始めた。また仙台へ行|きも/う一度叔母に話を聞き、山形へ行って父の弟の叔父から話を聞いた。新婚旅行の|帰りに熱/海に寄ったのも、その近くに住んでいた元病院の医者と会うためだった。


 「創作余話」では大学時代から叔母に会っていたことに触れていない。(以下続稿)

*1:この段落の1字めの鍵括弧開きは単行本半角・文庫版全角。