瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

万城目学『鹿男あをによし』(3)

 殆ど『鹿男あをによし』に関係しない雑談だが、別に題を立てる程でもないのでこのまま続ける。

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 高3の遠足は明日香村だった。流石に電車で現地集合にするには乗り換えが大変なのでクラスごとにバスに乗って出掛けた。そしてまず石舞台を背景にクラス写真を撮った。
 ちなみに私は中学は横浜で、修学旅行は奈良京都だった。1学年上まで、盛夏に3泊4日だったのが、私の学年から晩春に2泊3日になった。暑くても構わないから3泊させてくれ、と思ったものだった。1学年12クラス500人なので奈良には全員を収容出来る旅館がなく、初日は分宿して私のクラスは吉野山の宿坊に泊まり、2日めは京都市内の500人収容のホテルを借り切って全クラスが泊まった。
 名古屋で近鉄に乗り換えて、桜井からバスに乗ったと思う。そして石舞台でクラス写真を撮った。2日めはバスで、私のクラスは法隆寺や大仏を見て、別に法隆寺ではなく薬師寺を回ったクラスがあって、後で中学でそのクラスの連中や担任が、薬師寺の坊主の説明が面白かったことを説いて渋い声で「シルクロードは道路苦しー」と真似して見せるのを見て、羨ましく思ったものだった。そして3日め、清水の舞台に行き、それから最後に渡月橋を背景にクラス写真を撮ったのだった。
 してみると私は、中学の修学旅行でクラス写真を撮った場所を高校の遠足で訪れて、全く同じ場所で2年後・3年後にクラス写真を撮ったので、何だか損したような気分にさせられたものである。
 さて、前年の秋の遠足での単独行動の成功に味を占めた私は、前年は同級の連中と反りが合わないのも別行動を取りたがった理由なのだけれども、今度はそんな感情的な問題ではなくとにかく勝手に歩き回りたくてうずうずして抑えられなくなって、やはり同じように形だけ班に入って、他の連中の目に付かないところで「ほんじゃ」と別れてまず畝傍山を目指し、出来れば大和三山を全て回ろうと思ったのだが、耳成山を回るのは時間的に無理だと判断して、東の天香具山に向かった。途中、田圃の中に屋根も壁も灰色のトタンの小屋があって、壁に黒々と「ジース」「ジース」と書いてあるので何だろうと思っていると、中にはジュースの自動販売機があった。
 そこで思い出すのは、その後、と云って、それでももう20年くらい前になるが、炎天下、横浜の掃部山の裏手の路地裏を歩いていたとき、通りかかったうらぶれた八百屋か果物屋の店先に「スイテー」という札の付いた品物があって、よく見たら当時出回り始めていたスウィーティーだった。そこで私は、スウィーティーがスイテーになるのなら、推定無罪スウィーティー無罪ということになるな、と訳の分からないことを思い付いて*1、……余りの暑さに頭の回転がおかしくなっていたのだろう、それと同時に、畝傍山の近くで見た「ジース」の小屋のことも思い出したのである。
 それはともかく、畝傍山の頂上には他にも人がいたが(もちろん平日の昼日中に学ラン姿で登っていたのは私1人だったが)香具山では誰にも会わず、山を下りて麓の集落をしばらく歩いて漸く農夫と擦れ違ったくらいだった。
 明るく開けた畝傍山に対して、香具山は木々が茂り合って暗かった印象が残っている。
 ちなみにその数ヶ月後に受験した第1回大学入試センター試験に、本居宣長『菅笠日記』の天香具山に登る場面が出題された。一読、世に受験生多しと雖も実際に香具山に登って風景を思い浮かべながら解いているのは私くらいだろうと思ったものだった。この古文のadvantageの御陰で余裕を持って取り組めたこともあって、いや実力で、国語は191点、現代文か漢文で1問(9点)間違えただけであった。ちなみに2012年1月23日付「平井呈一『真夜中の檻』(06)」にも書いたけれども世界史も1問間違えただけの98点だったが、英語がお話にならんかったので、浪人したのである。で、私は3科目しか受験しなかった。当時は3科目受験の生徒なぞ殆どいなかったから控え室があったんだかなかったんだか、そんな案内もなく、私のようなごく少数の空き時間のある生徒はどこで過ごして良いか分からぬまま、寒風吹きすさぶベンチで時間を潰さざるを得なくなったのである。
 それはともかく、香具山から南に進路を変えて、山裾の農村を幾つか抜けて、ちょうど時間前に石舞台近くの駐車場に戻って、しれっとバスに乗り込んだのである。ただ乗り込むときに担任(体育教師)に「××、お前どこ行って来たんや」と言われてちと困った(ような気がする)。帰りのバスの中ではカラオケになって、私は歌わなかったが最後に担任が女子生徒を指名して「もしかして Part II」をデュエットしたのだが、最後「2人の行く先は〜」と来て女子生徒が絶句したところで、担任は(お約束だが)わざと声を張り上げて「ほ〜てる〜」と言ったのである。今だったらセクハラで停職喰らうかも知れないね。
 しかし、今からすると大胆なことをやったものである。事故に遭わなかったから良いようなものの、何かあって時間までに戻れなかったら、……とは全く思わなかったのである。昨日も書いたけれども読図能力*2と自分の身体能力(脚力)への自信、しかし私は、腕が骨張ってバンドが痛いのと汗っ掻きなのとで腕時計を付けていられないので、時計を持たずに歩いていたのである。だから太陽の高さと方角とで時間の見当を付けて歩いていた。それから当時は、商店の外からも見えるところに壁掛け時計があったものである。それに、もし事故に遭うとして、単独行が特に危ないという訳でもなく、集団行動をしたところで可能性が低くなる訳でもない。――などと訳の分からぬ理屈を捏ねて、勝手なことをしていたのだ。携帯電話もなかったし、本当に糸の切れた凧のように飛び回って、そんな若気の至りを思い起こさせる場所としても、大和(奈良)盆地には特に懐かしい思いがあるのである。(以下続稿)

*1:推定無罪」という映画を(見ていないので宣伝を)記憶していて咄嗟に閃いたらしい。

*2:距離と地形と、自分の体力とを勘案して、どのくらいの時間でどこまで歩けるかを判断するのである。もちろん、余裕をもって考えない。時間を余らせず殆ど休まず歩き続けて到達可能な距離の見当を付けるのである。――今は、1:25000地形図を見ながら歩かなくなったから、もう駄目だろう。