sam113のブログ的生活(実践編)

sam113が日々思うことを、主に直観で書き綴るブログです。
特に決まった話題はありません。

2005-03-21

[] ポリローグ的にゲームを創ることは可能か

なんかここ一週間ほど好調なsam113です。きっとストレス溜まってるんだなぁ。ストレスを溜めるのは良くないので、エネルギーの続く限り書き続けます。(そしてあとから我に返って後悔するのももはやお馴染み)


ヲタクの限界に関しては、とりあえずこれからなるべく陽のあたる生活体験を積むように努力するとして。

A級の作品しか遊ばない人たちに振り向いてもらうためにもう1つ重要なこととして、そもそも作品のことを知って貰わないと始まらない、という問題があります。広告宣伝にお金をかけることが出来ない以上、どうしても口コミ等に頼るしかなくなってしまうわけですけど、並大抵の話題性では、従来のマーケットの垣根を乗り越えることは出来ません。従来のマーケットの外部にまで作品を届けるためには、それこそ「電車男」ぐらいの圧倒的な話題の爆発力が必要になります。そしてそのためには、作品の「創り方」を根本から変えないと難しいのではないか、と僕は考えています。

ここで1つ、興味深い手法があります。以下、大塚英志氏の「物語消滅論」から一部を引用します。

(中略)

ところが情報論的な世界においては「固有の作者」は成立しにくい。確かに辿っていけば誰がインターネットを作ったのかとか、LINUXOSは誰が作ったのかとかいった「起源」があるにしても、進化の仕方そのものは一人の神によって管理されているわけではありません。ある不完全なソフトウェアがネット上に置かれたときに、次々と色々な人間がバージョンアップをしていく。すべての記録が残っていく世界だから「ここまでは誰々の修正です」と署名はできるのかもしれませんが、逆に分担が明らかな分、ネットワーク全体の作者はいないわけです。

(中略)

作者が一人で語る「モノローグ」、受け手と対話しながら語る「ディアローグ」に対して「シンローグ」「ポリローグ」では固有の作者はもういません。「シンローグ」とは昔話が人々が集まる座の中で、そこにいる一人一人の即興の語りの相互作用の中で昔話が語られる、というものです。しかし「シンローグ」は座に居あわせた互いに顔見知りの人間たちが彼らが共有している昔話を「再現」するのに対して、「ポリローグ」は、街中や広場において、それぞれが勝手に発話している喧騒状態を言うのです。しかし、その喧騒は無秩序ですが、そこに不定形でゆるやかな一つの物語がやがて生成する可能性もあるのです。

(中略)

LINUXは「シンローグ」及び「ポリローグ」の水準の「創作」なのです。


物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 大塚 英志 (著)

ISBN:4047041793

たしかにLINUXに限らず、各種オープンソースソフトウェアから電車男に至るまで、ネット上にはシンローグ、ポリローグ的な創作が溢れています。これらは従来のチームによる共同制作とは違って、外部の人間が勝手に作ったものを次々と取り込んでいくようなスタンスを取っています。いわば、二次創作を原作の一部として認めるようなものです。

この手法の利点と欠点を、ざっと整理してみます。

<利点>

  • 自分からあまり動かずとも、多くの労働力を集約することが可能
  • 優秀な人材をうまく取り込み続ければ、ねずみ算式に規模が増大していく

<欠点>

  • 初めから狙ってやって成功するようなものではない
  • 無秩序状態で創り続けるため、全体が崩壊する危険が常にある
  • 優秀な人材の協力がなければ、作品がどんどん「改悪」されていく恐れもある
  • 「作者という神」として君臨できない
  • 商売にはならない

この手法の最大の利点は、うまくいけば膨大な労働力を動員することが可能である、ということです。基本的に、「作者」が最初にやることは作品の「種」を植えることだけです。その「種」に魅力を感じてくれた人が二次創作のような形で機能を追加し、それを見た別の人がまた機能を追加し…といった形で、多くの人の手を経ながら作品はどんどん進化を続けることになります。進化の枝は時としていくつにも分かれ、それぞれが亜流として発展しながら口コミを加速度的に拡散し、気がつけば社会現象とも言えるほどの一大ムーブメントが起こっているというわけです。むろん、これらはすべてうまくいった場合の話ですが。お金をかけずに従来のマーケットの垣根を乗り越えるほどの爆発力を生み出すためには、これしかない、とさえ僕は思っています。


ただ、当然ながら初めから狙ってこれをやって成功できる可能性はほとんどありません。LINUX電車男も、どちらかというと初めはそんなつもりはなかったのに気がつくとそうなっていた、という感じでしょう。二次創作的なことを誘発しやすい要素を初めから入れておく、といった調整はある程度可能かもしれませんが、期待はしない方がいいかもしれません。

あと「作者という神」として君臨できないという問題もあります。「作者」として出来ることは「種」を植えることだけなので、「創る喜び」はあまり味わうことが出来ないかもしれませんし、また作品を好き勝手に改造されても怒らない、作品の進化を「我が子の成長」とでも受け止めることが出来るような姿勢も必要になってきます。あくまでも自分の主義主張を伝えたい人には向かないかもしれません。


まあ、実際にこの手法で何が作れるのかはまださっぱり見えないので、とりあえず検討材料として。

aa2704aa2704 2005/03/22 13:12 おもしろい見解だと思いました。
思えばゲームやアニメは「二次創作的なことを誘発しやすい要素」があるから、
それに共感するオタクが二次創作物を作って市場を形成し、
また企業が金のかからないマーケティングとして利益を得られるようになったものですものね。
しかしこうした不特定多数による活動は、差別化を明確にするという問題もあると思います。
オタクは二次創作によって組織化し、オタクと非オタクに分かれましたし、
電車男は2chの利用者による産物であるからこそ、そうでない人々にとって
大きな話題になりました。
先日のエントリーでもありましたが、ゲームを一般的にするという視点ではなく、
ゲームの利点を特化して新しいタイプの層を作ることこそが、重要なのかもしれないと、私は思っています。

ポリローグ的な創作はgoing concernとして不安定なので、現状のゲームの考え方(部屋にこもってハードにソフトをいれて、比較的一人で楽しむ)では
無理だと思いますが、既存の考え方にとらわれない新しい発想の
ゲームの形・システム上で、機能する可能性があるかも、と思います。
結局新しい試みは、こじつけをどう正当化できるか?にかかっているように思えます。

samonasamona 2005/03/22 19:05 うーむ、そういう視点もありますね…。
予想される事態としては、1つの「作品」に対して作り手として関わるか受け手として関わるか、といった形の二極化は起こりえると思います。少なくとも今以上に「創造的な遊び」を楽しむ人の数は増えるでしょう。問題は、どうやって「ゲームならではの形で」それを実現するか、なのですが…。
あと、ポリローグ的な創作の結果作られたモノが、もはや世間から「ゲーム」と呼ばれることがなかったとしても、それはそれで構わないとは思います。RPGをポリローグで作るのはかなり無理だと思いますが、うまくいけばまったく新しい遊びを開拓できるかもしれません。