2007-04-24
■[ジャッキー・チェン]レ・ジャッキーフィル・シルブプレ〜!ふぇしぇー!#1

ジャッキー・チェン問題である。
と、書き出したところでそんな“問題”は無いのだが、まぁジャッキー・チェン映画に“映画論”的な言葉(シネフィル的な視点)が無いという“問題”について。
本当はジャッキー・チェン映画にも映画論的な言葉/シネフィル的な視点はある(というか、そう見れば良い)のだが、その言葉群はチャウ・シンチーの為に、ドニー・イェンの為に使われはしても決してジャッキー・チェンに使われない。
いくつかの理由があると思われる。まず、映画論的な言語を使う人たちが、世代的にジャッキー・チェンを『テレビで見れる映画』として差別して観ているという点。それと、現代の映画論のブームに「長廻し」があり、ジャッキーは細かなカットの積み重ねと、同じシーンを廻したカメラ台数分見せて行く点。などなど。どれも、一流の娯楽作品としては何の枷にもならないのだが、ただただ「オモレーな!」では納得はさせられない様だ。
そこで、不肖ボク:侍功夫が、改めてその役割を果たそうと思う。しかし、本当にボクが“不肖”であるが故に全く意味は無い。だいたいボク自身がシネフィル的視点の持ち主ではなかろうという事と、ボクにはシネフィルが好む、いかなる権威も無いからだ。
なので、以下のジャッキー・チェン論は、先ずはジャッキー・チェン映画を愛する自分自身のアリバイである事を宣言しておこう。
記憶しておけ、ボクは言ったからな。
全てのジャッキー映画は真摯なドキュメンタリーである。
「全ての映画はドキュメンタリーである」とはゴダールの言葉だと聞いた事があるのだが、ジャッキー映画が登場して以降は「おおむね映画とは不誠実さを写したドキュメンタリー映画である」と変更を余儀無くされた。
大多数の劇映画は事前に決めたストーリーに添って演者が割り振られたキャラクターを演じ、それをフィルムに焼きつけ、編集して出来上がる物だ。ジャッキー映画もほぼ同じ行程で作られる。しかし、他の劇映画と決定的に違うのがジャッキー映画で起る事件/事柄は実際に起っていて、誠実にそれをフィルムに焼きつけている。という点があるだろう。
初期作品「酔拳」。『酔えば酔うほど強くなる』のコピー通り、劇中でひょうたんに入った酒を呑むシーンが度々登場するのだが、大量の酒を呑んでツブれるウォン・フェイフォン(ジャッキー)の醜態は、およそ演技だけだとすればアクターズ・スタジオの存在価値など無くならんばかりに真に迫っている。いや、むしろ実際に呑んでツブれているとしか考えられない。目の焦点は定まらず口元は酒ともヨダレとも胃液ともとれぬヌラヌラとした液体で濡れている。
通常、この様なシーンの場合には『大量の酒を呑んだ呈』を演技やメイクで表現するなり、多くの酒瓶を転がすなどの記号から「とても酔っぱらっている」と表わすが、ジャッキー映画の場合、実際に呑んで酔っぱらっている。
また、フェイフォンが修行の末に(無論、本当に修行し)酔拳を体得(これもまた実際に体得)した後、“棒の先生”と再対決するシーン。格闘中、“棒の先生”は家畜のフンに顔をつっこむ。顔中に茶色いフンがベットリとこびりつく。それでも格闘は続く。戦いが経過する内に顔に着いたフンが乾き始める。通常そうである様に、ヘリのあたりが湿気のあるブラウンから乾いたカーキに変色していく。もはや、本物の家畜のフンに顔をつっこんだとしか思えない。また、次第にヘリから乾いていく様と格闘がされている時間がシンクロしている。以上の2点から、その一連のシークエンスは実際に行われた一連の動作であるとしか考えられない。
「酔拳」だけでは無く、ジャッキー映画の全てで、再検証不可能な驚くべき肉体実験がくり返されている。再検証不可能である以上、スクリーンに写る現象は実際に行われていると受け止める他無い。それらは優れた映画の原理として、当然そこにダイナミズムが切り離せなく寄り添い、見た者はそのスペクタキュラーから逃れる事が出来ない。

