2012-08-19
■ネタばれ!『桐島、部活やめるってよ』の基本的解釈。

『桐島、部活やめるってよ』について、人の感想を読むのが面白い。
かなり親切な作りですが、スッキリとしたオチめいた物を提示していないので、憶測が憶測を呼び自由な解釈をしている人も多く、多種多様さが楽しいのです。しかし、中には「全くわけが解らない?」と言う人も多いのです。そこで、『桐島』を理解するための基礎的な解釈をしてみようかと思います。当然ながらオチ(的な話)にも言及しますので、まずは劇場で『桐島、部活やめるってよ』を観賞をした後にお読みください。本エントリは高校生に読んで欲しいです。読んでないと思うけど……
『ゴドーを待ちながら』
本作にはタイトルロールになっている「桐島」は登場しません。「桐島がいない」というのがドラマの軸になっています。これは舞台劇『ゴドーを待ちながら』のオマージュだと言われています。
『ゴドーを待ちながら』は1952年に発表された戯曲で不条理劇の傑作だとされています。話という話はありません。舞台には木が一本だけ立っているだけ。そこには学があるのに浮浪者に身をやつしたウラジミールとエストラゴンの2人がいます。会ったことの無い「ゴドー」を待ちながら他愛も無い話をしていきます。途中2人連れが通りがかり、意味があるんだかないんだか良く解らない話をして去っていきます。さらに待ち続けているとゴドーの使者を名乗る人物が現れ「今日は来ない」と言い、また去っていきます。2人は明日まで待って、それでも来なかったら首をくくろうと決め、1幕目が終了。
2幕目も同じ木が一本立っているだけの同じ場所で同じ2人が同じように待っています。そこにまた同じ2人連れがやってきます。若干設定が変わっていますが基本的には同じようによく解らない事をして去っていきます。結局2人は前日に言った通り首をくくりますが失敗。そこで話は終了します。
これだけの戯曲です。まぁ、いろいろと哲学的な事を言ったりしたりしますが、ボクにはよく解りませんでした。
ゴドー(Godot)は神(God)のもじりだと言われています。つまり、来るか来ないか解らない神を待つだけで、何も目的も無く生きているだけというような人物の空虚さやアイデンティティの喪失を描いているのです。
ふまえた上で『桐島〜〜』に重ねてみます。まず、「桐島」は「ゴドー=神」と同じように「キリスト」のもじりになっています。
ゴドーとは違い「木曜日」までは桐島は存在していたようです。おそらくバレー部の練習もこなし、仲間と連れだって塾へ行き、学校一の美人の彼女とイチャついていたのでしょう。ところが「金曜日(おそらくキリストが死んだとされる「13日の金曜日」の事ではないでしょうか?)」になって忽然と姿を消し、連絡も途絶えます。『ゴドー〜〜』のウラジミールとエストラゴンはあらかじめアイデンティティを失っていますが、「桐島」の周囲の人物たちは、アイデンティティを突然失ってしまうのです。
バレー部員にとって大事な大会でのキープレイヤーを。塾仲間にとっては自分の“カッコよさ”を担保する中心人物を。彼女にとっては自分のステイタスの象徴を。「あるのが当然」だと思っていた物が消えてしまったからこそ、『ゴドー〜〜』の2人と違い必死になって慌てふためくのです。
宏樹の場合
タイトルロールの「桐島」のいない本作で劇中、唯一「成長」をする実質的な「主役」が野球部ユーレイ部員の宏樹です。
部活動をいくらさぼっても先輩に怒られるでもなく、むしろ試合に出てくれと懇願されるほどに運動神経が良く、顔立ちも整ったイケメンです。物静かで聡明に思える彼ですが自発的な行動はしません。野球部の練習にも自分の居場所を見つけられず、帰宅部のイケてる仲間とつるんでいても、どこか距離を置いているように見えます。彼女との交際でも誘われたので付き合っているだけのように見えます。クラスメイトである吹奏楽部の女子部長がいる前でキスをせがまれ、その邪悪な意図を汲んでさえキスに応じます。
3年の夏を過ぎても野球部の部活動にいそしむキャプテンに「普通3年生は夏までで引退するのになんでキャプテンはまだ部活動を続けているのか?」と聞きます。宏樹にとって受験の準備もあるのにまだ野球に固執しているキャプテンが心底理解できないのです。キャプテンは照れ臭そうに「ドラフトまでは……いやぁ、スカウトとか無いんだけどドラフトが終わるまではやろうかな……って。」
多くの高校球児がそうであるように、プロに上がって好きな野球を続けられるのは、本当に限られたごく一部の“トップアスリート”だけです。宏樹はその現実を知っていて、おそらくキャプテンもその事実に薄々感ずいていながら、それでもなお野球を続けているのです。何故キャプテンはそうまでして野球を続けているのか?
武文の場合
映画部の涼也と武文は顧問の先生が書いた脚本の映画化をさせられうんざりして、宇宙からの謎の放射線により死人が生き返るというロメロの『ゾンビ』をなぞった『生徒会オブ・ザ・デッド』の脚本を提出しますが「半径1メートルの悩みを描け!」と却下されてしまいます。「あのさぁ、宇宙ゾンビもいいけどさあ。前から言ってるじゃん?半径1メートルの悩みを描かないとリアリティ無いじゃん? 宇宙ゾンビはお前にとって切実なのか?」そう問われ、勢いあまった武文は「……ハイ。」と答えて叱られます。
このシーン(というか武文の登場シーンのほとんど)は笑いどころとして演出されています。しかし、武文は真実を語っています。少なくとも顧問に強要された脚本「きみよ拭け! オレの涙を」といった青春物語よりも、武文や涼也にとっては切実な問題なのです。
ジョージ・A・ロメロの傑作『ゾンビ』(Dawn of the Dead)は社会の虚無感を描いています。世界は蘇った死者であふれ、国や社会は崩壊します。絶望の世界でSWAT隊員とテレビクルーの主人公グループはショッピングモールに籠城します。食べ物や娯楽にあふれ僅かな間ですが幸せに日々を過ごします。そんな日々でも外にはゾンビがあふれかえり世界は死滅していきます。仲間の一人もゾンビになりかけています。それでもなお、生き続けなければならない。
絶望の中にあっても生き続けなければならない。
『桐嶋〜〜』劇中の映画部の2人にとって世界とは絶望に支配されているのです。「きみよ拭け! オレの涙を」というタイトルに象徴されるような恋愛や青春の苦悩こそ、彼らの「半径1メートル」には無いのです。彼らには「部活動の試合での勝利」「カッコよくてイケてる日々」「恋愛の充実」が無い。だから彼らにとって「桐島」の不在は日常の事だったのです。
屋上での撮影中、桐島を追ってバレー部員やいつもつるんでいる帰宅部の仲間、桐島の彼女たちが飛び込んできます。映画部員にとっては「全く関係が無いしリアリティも無いしどうでもいい」理由で自分たちの切実な悩みの映画作りを邪魔されます。いつも彼らに邪魔者扱いされ、バカにされている映画部員たちもついに反撃ののろしを上げます。
涼也の場合
「桐島」を追ってきたバレー部員、帰宅部の仲間、彼女たちに叛旗をひるがえした涼也たち。ここから映画ではカメラを通した「真実」を描いていきます。
映画とは象徴性、記号の芸術です。現実に起こっている問題や苦悩を何かに象徴させて描くのが映画です。グレる娘の不可解さを悪魔に取りつかれたと描写した『エクソシスト』。妊娠した事で周囲の人々の奇妙な優しさの不思議を悪魔の子を宿してしまったが故に過保護にされると描いた『ローズマリーの赤ちゃん』。そして日々をただただ隷属するように過ごす虚無感をゾンビとして描いたジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』。
つまり、映画部員たちは自分がゾンビであるという事を自覚しています。毎日は虚無感でいっぱい。いい事なんかそうそう無い。「桐島」を追って屋上にやって来たクラスメイトたちは満ち溢れた“希望の日々”を取り戻そうと躍起になっていますが、結局取り戻す事は叶いません。みんな虚無感というゾンビ菌に感染し、毎日を隷属的に生きるしかなくなるのです。それを覚悟させられる瞬間を描いているのが、屋上で「ゾンビに襲撃されるクラスメイトたち」の描写です。
涼也が覗くカメラの向こう(=映画『桐島、部活やめるってよ』での描写)には「真実」が映っていますが、劇中で起こった「事実」は違います。その瞬間は映されていませんが、映画部員のみんなが固まって座り込んでいる様子から、おそらくバレー部の“ゴリラ”に恫喝され突き飛ばされ屈服させられたのでしょう。しかし、感染させられた虚無感はぬぐえません。そうまでしても「桐島」は戻らず、希望は打ち砕かれたのです。
宏樹は、突き飛ばされて落として壊れたカメラをパッとりあげ涼也に向けます。「将来はアカデミー監督?」ふざけて冷やかすようにそう聞く宏樹に残酷な一言を発します。「それは……無いです。」
涼也は将来を見据えて映画作りをしているわけではありません。映画は好きですが映画の世界に進む事、映画の世界で立身する事、映画の世界でナンバーワンになる事は叶わないと知っているのです。野球部のキャプテンも野球の世界でプロとしてやっていく事は無いだろうと薄々感ずいていてもなおバットを振る事をやめません。
ダメだと解っていても続けているとフッと、輝かしい“夢見る世界”と自分が立っている世界が地続きで繋がっている感触をつかめる。だから映画を見たり映画を作ったりする事をやめられない。やめたくない。バットを振る事をやめられない。やめたくない。
涼也は唖然とする宏樹から取り上げたカメラを構えます。カメラを向けられた宏樹は自分が涼也にした質問を返された格好になります。そこで徹底的に絶望をするのです。自分には自分の居場所が解らない。目指す未来像もつかめていない。自分がなんでいるのかも理解できない。好きなものも無い。
その場から逃げ出し、遠くで練習に励む野球部員を見つめ、すがるように「桐島」に電話をかける宏樹。しかし「桐島」は答えません。その絶望に泣きだしてしまうのです。
『桐島、部活やめるってよ』とは?
高校生くらいの若者にとっての“将来”はすぐにやって来る恐怖でしょう。
自分がどうなりたいのか? 何が出来るのか?
叶うならばテレビに出るような有名人になってカッコよく生活したいと思うところでしょう。ところが、現実に「テレビに出るような有名人」になれるのは、ほんのわずかな人々です。この映画はその事実を描いています。青春の挫折。肥大した自己顕示欲が叩き折られる様子を映しているのです。
アンダーグラウンドコミックの原作者ハーベイ・ピーカーの自伝的コミックを映画化した『アメリカン・スプレンダー』に、『ナードの逆襲』にのめり込み特集上映があると何時間も車を飛ばして見に行く友人が登場します。彼はイケてない自分自身を映画に登場する“ナード”に投影するのです。しかしピーカーに現実を直視させられます。
「あいつらは大学生だ!しかも理数系の秀才だ!いじめられる大学生活を終えたら就職して高給取りになるんだ!30過ぎのオマエとは違う!」
我々のほとんどは誰でも無いし、なんでも無い。映画で描かれるいじめられっ子にもほど遠いのである。『桐島、部活やめるってよ』とは多くの人にとっての現実の悲しみを描いているのです。
- 今成日誌 - 『桐島、部活やめるってよ』
- ラヴフール (www.lovefool.jp) - ネタばれ!『桐島、部活やめるっ...
- 冒険野郎マクガイヤー@はてな - 神の不在と越境について:『桐島、...
- 子持ちししゃもといっしょ - 絶望という名のエーテルで満たされた学...
- 死んだ目でダブルピース - 映画「桐島、部活やめるってよ」を、より...
- pithecanthropus collectus(蒐集原人) - 富沢、桐島見たってよ
- /ja あやつる YmrDhalmel - 「桐島、部活やめるってよ」を見た
- offffffff season - Beats Rhymes & Life
- トムジィの日常雑記 - 「桐島、部活やめるってよ」
- hogemaru さわやか日記 - 週報




しかし屋上から飛び降りした人は何処へ行ったのでしょうか……理解力に乏しい私にはそれがわかりませんでした。
屋上へ向かって階段を上がる涼也が、階段を下りてくる生徒に「あれ?」という風に気づくシーンがあったので、あれが「桐島」だと思います。意味的に「どこへ行ったか?」はよくわかりません。
「飛び降りる」「階段を下りる」には“地に降り立つ”=“復活”の意味にも取れそうですが、まぁ深読みですね。
吉田監督がタイトルをつけたのならともかく、原作から名前は「桐島」で、さらに原作はもっと高校生のきらきらした描写も溢れたまさに青春といった小説になっています。それをキリストに結びつけるのはさすがに後付けでしかありません。
ただ、桐島=キリストだとか13日の金曜日のくだり以外の部分、ゴドーのオマージュということ自体は同感です。
だからこそ本当にこれだけがこの批評の中でもったいないというか、別に桐島を無理矢理キリストにせずともゴドーとの繋がりは示せますから、不必要だったなあ、と感じました。
うるせーよ。糞喰い蛆蟲野郎。
「ゴドーのオマージュ」で「後藤」とかにしない程度にスマートで、かつ「ゴドー」との繋がりを示すために同じようなもじりを適用した名前「桐島」にし、なおかつ消える曜日をキリストになぞらえて「金曜日」にしたのでは?と憶測しています。もしも、私のエントリ本文にそれ以上「桐島」が「キリスト」である理由があると言うなら指摘してみろ。チンカスの塊以下の価値しかねえテメエの脳味噌にできるなら。
映画の中では蔑まれ虐げられる映画部ですが、現実の自分に置き換えると自分はその映画部のポジションにすら達してなかったなぁ..と実感しました。
そのせいか、コメント欄を拝見して非常に残念です...。
私も「桐島=キリスト」には流石に深読みが過ぎるような印象を受けましたので、こんな口汚い方が「高校生に批評を読んで欲しい」だなんて...。
てめえの今の頭の中身じゃ理解できないかもしれないがな。かわりに糞でもつめとけ。