灼眼のシャナ―限られた未来と永遠の現在との選択としての”萌え”と”燃え”―

マンガがあればいーのだ。 ジャンプが遂に乳首規制緩和に踏み切った!?
クレイモアはエロスか否か | 日々だらくだるく
 。。。時代は変わったなぁ(遠い目)。

男の中の男を伝えるために女の裸を描かねばならんときもある!!
本は――マンガというものはだな、いいか、読者の目的にかなわなければまず読まれんのだぞ! まず読まれんのだっ
それに私は女性の肉体に劣情をもよおさせる目的では描いてほらん! 美しくカッコイイと思うからこそ熱をこめて描写しておるのだっ わからんかっ!?
キミはそのたかが推測のみで他人の作品をつぶすのかっ!? 推測のみでひとりの人間が命をぶつけ描きあげてきた世界を闇に葬らんとするのかっ!!
島本和彦ジャスティスタント参上!!」(『ワンダービット 2巻』収録)より

 Hなシーンはとりあえず需要がありますから、これからも規制と戦いながら描かれ続けていくことでしょう。こうした傾向はマンガのみならず小説の分野にも見られます。特にライトノベルといわれる分野ではこうした傾向は顕著でして、いわゆる”萌え”と言われる要素が含まれていないとまず相手にされないというのが現状です。カバーイラストはいわゆるアニメ絵・萌え絵が席巻しておりまして一般人が手に取りにくい一因になってます。また、感想サイトなどを巡っていると「萌えが足りない」などという個人的には意味不明な理由でバッサリやられてる作品もあったりして正直目を覆いたくなる惨状があったりなかったりです。いや、別に”萌え”が悪いと言ってるわけじゃないです。ないのですが、だからと言ってそればかりだとワンパターンで安直だしあざといし、とてもじゃないですが好感など持てやしません。どうせなら意味のある”萌え”が読みたいです。そんな作品の卑近な例として挙げることができるのが萌えと燃えの物語として知られる『灼眼のシャナ』です。
(以下、余談だったはずのものがいつの間にやら長々と。)
 ”萌え”とは何か? とか言い出すとまた難しい話になるのですが、ここで言う”萌え”は性的な意味です(笑)。性的な意味とはつまり生物学的な意味・未来に子孫を残すという意味での性です。ミステスとなってしまい日常を奪われてしまった悠二にとっては、吉田一美の存在がそれを象徴するものになっています。
 一方、その対である”燃え”としての象徴がシャナです。過去も未来もなくただひたすら紅世の徒と戦い続けるフレイムヘイズとしての誇りを持つ彼女。
(用語についての詳しい説明はWikipediaに丸投げ。)
 悠二に対して「人間です」と言ってくれた吉田一美。自らに未来はなくても、周囲の人間を守ることによって未来を紡ぐことになることを教えてくれたシャナ。『灼眼のシャナ』は悠二がそんな二人のうちのどちらを選ぶのかがもっとも注目される物語です。とは言え、ミステスという身の上を考えますと、実はシャナとくっつくより仕方がないと思うのです。共に未来のない者同士ですから。ミステスであるという現実を突きつけられることでそれまでの日常を奪われた悠二は、自らの非力も相俟って過去も未来もなければ現在すらも風前の灯火といった存在でして、そんな状態だったからこそ吉田一美によって人間としての存在を肯定されたことは非常に大きな出来事でした。しかし、シャナとの鍛錬によって悠二自身も力を付け、悠二の”現在”もそれなりに確固たるものになってきました。そんなときに降って沸いた悠二の母親の妊娠という出来事。一見とてもめでたいことなのですが、このエピソード、実は悠二とシャナの間には子どもが成せないという事実を浮き上がらせるために用意されたものです。この物語において普通の人間は無力な存在で、紅世の徒の手にかかってはすぐに死んでしまいます。しかしながら、そうした人間の営みには未来があります。その一方で、フレイムヘイズたちには未来はありません。だからこそ、悠二はシャナを選ぶよりほかなくて、だけどそんな「他に選択肢がなかったから」的な三角関係の決着は一般の読者が納得しないでしょうから(私は割りと納得できるのですが)、その辺りをどうするのかが読みどころのひとつでありつつも、そんな決心がつくのを待ってくれるほど世の中甘くないのもまた確かで、敵さんの介入によってメインのストーリーが急展開を見せたところで現在中断しております。おそらく、三角関係と仮装舞踏会との決着をなるたけ近いタイミングに持ってくるのが物語的に美しいんじゃないかと勝手に思ってるのですが、実際どうなるのかは分かりません。ってか、予想外に大河化しちゃってるのでそろそろ終わらせてくれないとついていくのが(既に)しんどいです(苦笑)。
 てなわけで、『灼眼のシャナ』の場合、”萌え”とは限りある未来の象徴で、その対比となる”燃え”とは永遠の現在の象徴なのです。もっとも、『灼眼のシャナ』の場合、それぞれの立場ごとにその人物の視点からきちんと物語が描かれてますので物語的には価値観が一択というわけではないのですが、そんな中で主人公(シャナと悠二)がどういう道を歩むのか? がメインなわけです。そのとき、自分の選んだ道だけでなくて、選ばなかった道を失ったことの悲哀も描くために”萌え”は機能しています。”萌え”と”燃え”の物語と呼ばれてるのは伊達じゃないのです。
 やたらと”萌え”が氾濫している現在ですから、何かと”萌え”で一括りにされがちですが、中には意味のある”萌え”もあるかもよー。あった方がいいよなー。あったらいいなー。ということでオチになってるでしょうか? ま、あくまで一面的な読み方に過ぎませんし、こんな読み方して楽しいのかと聞かれるとあまり自信もないのですが、読み方は人それぞれということで(笑)。
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灼眼のシャナ (電撃文庫)

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