『硝子のハンマー』(貴志祐介/角川文庫)

硝子のハンマー (角川文庫)

硝子のハンマー (角川文庫)

「頭のいい人間の発想って、よく陳腐なイメージで語られるわよね。日頃、慣れ親しんでいる物の、思いもよらない使い方。ハサミを紐で吊して振り子にしたり、蓮根の穴と水滴でレンズを作ったり。だけど、そういうのは、しょせん、ただの思いつきにすぎない。本当に頭のいい人の立てる計画は、そういう断片的な思いつき、無理なく有機的に組み合わせて、最終的に望み通りの結果が得られるようになっている」
(本書p197〜198より)

 第58回(2005年)推理作家協会賞受賞作です。
 面白かったですし、とても好みです。こんなに面白いんだったら、文庫落ちするのを待たずに単行本のうちに速攻読んでおくべきでした。失敗したー。
 本書は、「? 見えない殺人者」と「? 死のコンビネーション」の二部構成になっています。第一部が密室殺人事件の仮説の検討と検証。第二部が犯人の視点による倒叙ミステリ的な語りから始まる謎解きとなっています。さらに、巻末には法月綸太郎による作者へのインタビューが収録されています。お買い得です。
 「密室」などというと本格ミステリ特有の現実にはあり得ないシチュエーションとして思われがちです。ところが、本書の場合は防犯・セキュリティといった社会的関心事と絡めることで、極めてリアリティのある密室となっているのが特徴です。
 ミステリだと弁護士という職業の人物は探偵役になることが多いと思われます。ところが、本書だと防犯コンサルタントの榎本径が探偵役を務めてまして、彼に調査を依頼する弁護士の青砥純子はワトソン役となっています。これは意外に珍しいでしょう。青砥純子は被疑者の無罪を信じて被疑者のために行動するという信念を持った弁護士です。したがいまして、被疑者が無罪になるように様々なことを考えます。ときには突飛な仮説であっても真面目に検討してしまうという天然キャラの側面もあったりします(笑)。
 法廷ミステリにしろ二時間ドラマのミステリーにしろ、弁護士が探偵役のミステリは、どういうわけか警察の代わりに真相を明らかにし、真犯人を指摘することで依頼人の無罪を証明することが仕事になっています(いわゆる「逆転裁判」)。しかし、本来弁護士は依頼人である被疑者が有罪であることについて合理的疑いを抱かせる程度の反証を挙げさえすればよくて、何も警察に代わって真実を明らかにする必要はありません。ですから、被疑者が無実であるという前提を元にした仮説を連発するのも、弁護士という仕事の意味を考えればそれほど不自然なスタンスではありません。そういう意味で、弁護士というのはホントはワトソン役の方が向いているんじゃないかと本書を読んで思いました。一方、探偵役である防犯コンサルタントの榎本もいい性格をしています。セキュリティの達人はセキュリティ破りの達人でもあります。探偵と犯人は表裏の関係にある、というような言われ方をすることがありますが、本書の場合はまさにそうです。一線を越えずに踏みとどまっている榎本と、越えてしまった犯人。その違いはほんの僅かなのですが、しかし決定的です。
 密室に使われているトリックもさることながら、その過程で読み捨てられる仮説も実に見事です。本書の被害者は、介護サービス会社の社長で、室内には介護ロボットが存在し、さらに介護の研究目的としてサルが飼育されています。そこで、介護ロボットとサルによる犯行の可能性が考えられます。「硝子のハンマー」というタイトルですからおそらく本命ではないだろうなぁ、とほとんどの読者が推測しながら読まれるでしょうが(笑)、そこで行なわれる仮説の検証作業がとても楽しいです。いくつもの仮説が贅沢に使い捨てられることによって、真のトリックの価値と驚きが否応なく高まります。
 ロボットとサルなどと聞くと、そんなの仮説を作中で披露するためにわざわざ用意したものじゃないかと思われる方もひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。が、さにあらず。介護の現場において、サルやロボットは実際に研究がさかんに行なわれています。介護を題材にした菅浩江の傑作SF『アイ・アム I am(書評)』でもサルやロボットが出てくることからもそれは明らかです。実によく練られたプロットだと思います。
 その一方で、入り口の警備員、エレベータの暗証番号、廊下の監視カメラ、強化ガラスの窓といった密室を構成している要素についての検討も徹底されています。最新科学による密室というのは、ともすればあまり一般的ではない知識を読者に要求してしまうことになってしまい敬遠されがちです。しかし、本書のように防犯という身近な事柄として問題提起がされれば自然と興味が沸いてきますし、それについての薀蓄は読者の防犯意識を高めることにも繋がります。本書は本格ミステリとして傑作なだけでなく、社会派としても楽しめる非常に守備範囲の広い作品なのです。
 第二部は、一転して犯人の視点による倒叙的な語りになります。硝子の少年時代の破片が胸へと突き刺さるような犯人の幼少時代から犯行に至るまでの経緯が語られます。こうした構成についてはそれなりに賛否があったみたいですが、私は高く評価しています。だって、本書のトリックはヴィジュアルとしてとても映えるものですから、それを探偵の口で読者に説明してしまうのは野暮だと思います。かといって再現するのも興ざめでしょう。であるからには、本書のような構成はむしろ必然といえるのではないでしょうか。また、犯人の身の上について語られることによってワトソン役である弁護士に本業としての仕事・役割が与えられることにも繋がっています。探偵役とワトソン役のキャラがミステリという枠組み以上に有意的に機能しているのも本書の大きな魅力です。
 地に足のついた設定のもとで遂行される衝撃のトリック。それを彩る何パターンもの仮説の検証作業はまさに本格ミステリの王道ともいうべき面白さにあふれています。探偵役とワトソン役の掛け合いも楽しいですし人物造形も魅力的です。セキュリティ情報についてのシッカリとした取材によって社会派としての面白さも兼ね備えています。日本推理作家協会賞も納得の出来栄えです。とにかくオススメの逸品です。
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