ブランドとしてのペンネーム

ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学

ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学

 『ユリイカ』2008年3月号には若島正×菅啓次郎×桜庭一樹の鼎談『「世界文学」から「文学世界」へ』が掲載されています。その中で、桜庭一樹は自分のペンネームについて次のように語っています。

桜庭 私も男性名で書いているので、その理由をよく聞かれるんですけど、海外だと男性名で書いてる作家が多いので、あまり特に考えなかったというか抵抗がなかったんです(笑)。あと、海外の人の名前って、英語圏だとさすがにわかるけど、基本的に男か女かわからなかったりするので、そういう作者の背景をほとんど知らないままに作品を読むのが正しい読み方かなあと思うんです。日本の作家だと男女もわかるし、何歳でどんな顔をして、というのもわかったりするから、その予断を持って作品を読むのがとても不自由な感じがするんです。
(『ユリイカ』2008年3月号p48より)

 海外だと男性名で書いてる作家が多いので抵抗がなかった*1、とのことですが、海外の女性作家が男性名を用いる理由はおそらく次のようなものでしょう。

「わたくしは、社会のなかで女にはみつからない一種の自由を求めているの。匿名というこの変装を脱ぎ捨てて、思い切ってあなたがたの世界へ踏みこんでも、やはり思ったとおりだということになるだけだわ。こちら側のわたくしの世界では、きょうあなたがその目で見たように、わたくしはなんでも好きなことができるのですよ。その気になれば、いつでもなんでも心ゆくまでできるわ。ごく単純なことから、この上なく複雑なことまでね」
『シャルビューク夫人の肖像』p289〜290より)

 この引用は『シャルビューク〜』を読んでない方にはあまりピンとこないかもしれませんが、まあいいや(笑)。要は男性社会のなかで女性が何かものをいおうと思ったら男性名で書くのが有効だという判断があったわけで、特に昔は、女性は社会に対して積極的に発言すべきではない、という風潮があったわけです(多くの国々において参政権が最初は男性にしか認められていなかったのも同じような考え方に基づくものでしょう)。気持ちはとてもよくわかります。今だってそういうのがまったくないとは思いません。
 それはさておき、予断を持たずに作品を読むのが理想なのは確かですが、だったらホントはペンネームなど無用なはずです。すべて名無しで出版すべきでしょう*2。しかし、実際にはほとんどの書籍でペンネームが使われています。作者からすれば、名無しのゴンベエで出版しても作者としての主体が曖昧なものになってしまうので自己表現欲が充足されません。また、何か問題が発生した場合の文責も定まりません。さらには著作権法上の権利者であることを主張するためにも名無しというのはやりづらいです。
(もっと真面目に考えると、神の話から人の話へと物語が移行していった結果としてペンネームという個人名が必要になったものと思われますが、これはあまり自信はありません。)
 読者としても「作者買い」という言葉があるようにペンネームは本を選ぶ上での重要な指標になります。その作者の本を読んで面白いと思ったら、きっと他の本も面白いだろうという期待と信頼がそこにはあるわけで、つまりはブランドとしてペンネームが機能しているのだといえるでしょう。
 そのブランドにどのような印象を持たせるかは作家それぞれでしょう。作者自身が積極的にメディアとかに登場して人間味を持たせていくこともあれば、徹底した秘密主義(=覆面作家)によって作品との距離をとり続けるのもありでしょう。ただ、文学賞には、ブランドの向こうにいる人間性を引っ張り出すという一面は確実にありますね。作品論と作家論とのごちゃ混ぜにするなとはよく言われますが、文学賞はまさにそれらをごちゃ混ぜにする場としてときに機能します。その辺りの矛盾に着目して描かれた作品がフィシュテルの『私家版』ということになるのでしょう。作者に栄誉を与える一方で、作者という実像を白日の下にさらすことで創作の足を引っ張るという二つの側面が文学賞にはある、なんていったら怒られるでしょうか(笑)。
 ……何だかまとまってるようでまとまってない雑文になってしまいましたが(汗)、作家と作品との関係についてあれこれ考えてみるのもたまには面白いなと思いました。
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*1:とかいいながら、私は海外の作家名にとんと疎いので、男性名で書いてる女性作家といってもあまり思いつきません。そういうのをまとめているサイトとかご存知の方がおられましたら教えていただければ幸いです。

*2:あるいは一作ごとにペンネームを変えちゃうとか。