『夏期限定トロピカルパフェ事件』(米澤穂信/創元推理文庫)

夏期限定トロピカルパフェ事件 (創元推理文庫)

夏期限定トロピカルパフェ事件 (創元推理文庫)

米澤 結局、いまの子供たちは――まあ自分たちの世代ですけど――、こうなりたいという情熱が仮にないとしても、では自分にはいったい何ができるのだろうかというスキルへの懐疑は持っている。そのスキルへの懐疑を無視すると、俺は大物なんだというわけのわからない全能感に走ってしまい、ふらふらと時間を浪費して、遠くない未来に自分が何者でもないことに気付くというオチになってしまう。その背景にはもちろん、何者にもならなくてもご飯は食べてられるという現実もあるでしょう。一方でそうならなかった人は、自分の全能感をトライアルしないといけない。そのトライアルを経て自分のスキルの限界を見極める過程をミステリでやりたかったんですね。このトライアルは、別に何でなければならないということはなくて、スポーツでもいいし受験でもいい。懐疑があるならどんな方向に進んでも挫折はするでしょうから。このときたまたまミステリと名探偵という手法を用いてみたということなんですね。
 ビルドゥングス・ロマンという言葉を使ってしまったのは言い過ぎで、この全能感と裏返しの無能感、これを試練にかけることで自分を客観視することのできる視点を獲得する、そこまでの物語として〈古典部〉シリーズと〈小市民〉シリーズは考えています。
(『ユリイカ 第39巻第4号―詩と批評 2007年4月号 特集 米澤穂信』所収『[対談]米澤穂信×笠井潔 ミステリという方舟の向かう先 「第四の波」を待ちながら』p85より)

 本書は、『春期限定いちごタルト事件』に続く〈小市民〉シリーズの2作目に当たります。
 〈小市民〉シリーズは、ミステリという形式を手法として用いることで、頭でっかちな若者が思春期に迎える試練というものを巧みに描いています。ミステリには名探偵の存在が付きものです。ミステリ論として時に問題となる「名探偵はなぜ正しいのか?」という論点について、「名探偵だからだ」と開き直りともいえる解答がなされる場合があります。名探偵という役割をキャラクタの個性・属性として理解するような考え方ですが、登場人物欄にて「探偵」と銘打たれている作品が少なからずあることからも、そうした理解に相当程度の説得力があることは確かでしょう。そんな曖昧模糊とした名探偵の特権性が、若者の中にある根拠のない全能感と結び付けられています。
 また、ミステリというジャンルの古典的なお約束をあえて(ときにはわざとらしいまでに)踏まえることによって、フェアプレイという暗黙の了解が生まれてきます。そうしたフェアプレイという了解には、人と人との間における信義・信頼といった常識的なルールと相通じるものがあります。ミステリというジャンル形式にこだわっているからこそ、そうした価値観を声高に唱えることなく作品の通奏低音として生じさせることができます。
 とはいうものの、本書は古典的なミステリとは一線を画しています。小鳩君と小佐内さんの互恵関係は、名探偵と名犯人という特権性を互いに相殺し合うことで〈小市民〉となることを目的としています。それは互いに共鳴しあう属性によって結び付くことで〈小市民〉という属性を作って自分たちに貼り付けることを目的とした人工的な関係です。ですが、人工的な関係を契機に人間的な関係までもが生まれてきたとしたらどうなるのでしょうか。そして、両者の間に齟齬が生じたとしたら、優先されるべきはいったいどちらなのでしょうか。二人の関係はどのような方向に向かうべきなのでしょうか。
 ミステリというジャンルにおいて、謎を提出してくれる犯人あっての名探偵であり、犯行を見抜いてくれる名探偵という存在があっての犯人です。ジャンル的な観点から見て、両者の関係は抽象的には互恵関係にあるといえます。しかしながら、具象的なレベルにおいては、特定の犯人的人物と特定の探偵的人物とが互恵関係にある必要はありません。そこに、本シリーズが最初から抱えている互恵関係の危うさがあります。
 そんな小鳩君の自覚と二人の関係性が試される、甘くて苦い夏の思い出です。
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