『勇者と探偵のゲーム』(大樹連司/一迅社文庫)

勇者と探偵のゲーム (一迅社文庫)

勇者と探偵のゲーム (一迅社文庫)

 オビには「”非”正統派ライトノベル」と謳われていて、作中にはライトノベルを揶揄するような描写がふんだんに盛り込まれています。なのでライトノベルについてのライトノベル、すなわちメタ・ライトノベルであるということがいえますが、ただ、メタ・ライトノベルとしてはそんなに面白いとは思いません。なぜなら、「ライトノベルって何?」という根本的な疑問について特に答えが示されているわけではないからです。なので、いくら”非”正統派を謳ったところで”非”正統派たりえませんし、メタな位置から語っているつもりでもメタになってはいません。ただ、そんな中途半端な立ち位置こそが本書の魅力でもあります。
 日本問題というわけの分からない問題―それは雇用問題だったり外交問題だったりする様々な問題―を解決するために作られた装置。それは物語を生み出す装置です。通常、物語は現実を象徴しています。現実に問題があるから物語が生まれます。装置は、その関係を逆転させます。つまり、物語が作られ、それが解決されることによって、現実の問題が解決されてしまうのです。そのために生み出されたのが”勇者”と”探偵”です。勇者は侵略者を撃退し、探偵は密室殺人事件を解決する。そうして解決された物語は一冊のライトノベルとなって流通し、その印税は市の収入源となります。
 装置によって作られる物語はとても陳腐なものです。ですが、そんな陳腐な物語を眺めている主人公たちは、それが陳腐なものだと知りつつも、どこかで自分たちもそんな物語の中の一員になってみたいと思う……ものなのでしょうか?(笑)
 『文学界』2009年7月号は裁判員制度の開始を踏まえて「文学と法」についての特集が組まれています。その中の対談「文学的模擬裁判」(伊藤氏貴*1、川上拓一*2中村文則*3)において次のようなことが語られています。

 ケネス・バークは、「動機」を、シーン(光景)、アクト(行為)、エージェント(誰が)、エージェンシー(どうやって)、パーパス(目的)の五つに分けましたが、アメリカの陪審員制度では、この五つをきちんと満たした物語を作ることが、裁判に勝つ方法だと言われています。おそらく日本の裁判員制度でも、その五つをきちんと満たしていないと、ストーリーが弱いということで、不利になる可能性はあるでしょう。
(『文学界』2009年7月号所収「文学的模擬裁判」p168より。なお引用部は伊藤氏貴の発言です。)

 裁判によって作られる物語もライトノベルの設定に負けないくらいに陳腐でありきたりなものです。ですが、そうして作られた物語が現実に影響を与えます。作中の装置と裁判とは非常に似通った存在であるといえます。裁判は物語を作ってくれます。”ヘロストラトスの名誉(参考:アルテミス神殿 - Wikipedia)”の故事、あるいは自白マニアと呼ばれるような人々の存在は、そんな物語の中の登場人物になりたいという欲求の現れとして理解することができるでしょう。特別な人間が物語の中の人物になるのではなく、物語の中の人物になることで特別な人間となる。両者の間にはどれほどの違いがあるのでしょうか。
 淡々としていて盛り上がりに欠けるので、分かりやすい面白さはありませんが、独特の雰囲気はあります。問題意識としてはそれなりに面白いものを備えた一冊だと思います。
【関連】角川スニーカー文庫2作品に見る「謎解きをする探偵」と「事件を解決する探偵」の違い。 - 三軒茶屋 別館

文学界 2009年 07月号 [雑誌]

文学界 2009年 07月号 [雑誌]

*1:評論家として参加。

*2:元裁判官として参加。

*3:作家として参加。