『邪悪』(ステファニー・ピントフ/ハヤカワ文庫)

邪悪 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

邪悪 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 2010年度アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞受賞作。
 1905年、ニューヨーク郊外で猟奇殺人が発生する。被害者女性は刃物で何回も切り裂かれた上、鈍器でめった打ちにされていた。捜査を開始した刑事ジールは犯罪者の行動と心理を研究するシンクレア教授なる人物から連絡を受ける。それは、事件前に今回の事件の手口と酷似した妄想を語っていた男について心当たりがあるというものであった……。というお話です。
 裏表紙に「サイコ・サスペンスと歴史ミステリを見事に融合」とあるのですが、私の理解では本書は時代ミステリではあっても歴史ミステリではありません*1。一方で、サイコ・サスペンスというのはその通りです。
 1905年のアメリカを舞台とした犯罪小説である本書は、科学的捜査手法の黎明期を描いた作品であるといえます。主人公の刑事ジールは指紋採取法を習得していますが、これは当時としては新しい捜査手法です。指紋や写真といった科学的証拠から帰納的に犯人を特定するのがジールのやり方です。被害者のことを思う一方で犯人に対しては予断を抱くことなく捜査を行うため、犯罪者についての理解というテーマには事件解決以上の興味はありません。
 そんなジールの捜査に協力することになるシンクレア教授の研究テーマは犯罪者です。犯罪者についての傾向を調べ、その行動を予測します。ジールの捜査手法とは反対に演繹的に犯罪者を特定しようとする考え方であり、今でいうプロファイリングの先駆けといえます。二人は共に犯人を捕まえようとしますが、必ずしも信頼しあっているわけではなく、両者の間には微妙な緊張関係が常に漂い続けます。
 シンクレアは犯罪者とその行為について次のように考えています。

「わたしは社会学、心理学、解剖学、そしてもちろん法学を含むさまざまな分野の学識を活用して、犯罪行動への理解を深めるため、ドイツ、フランス、イタリアの犯罪学者が提唱している広域の研究活動に参加している。同じ考えを持つ仲間とともにコロンビア大学に研究所を設立したのは、いくつかの重要な疑問に答えを出すためだ。犯罪者が犯罪者らしい行動をとるのはなぜか? 何が彼らを犯罪に駆りたてるのか? 何が彼らを思いとどまらせるのか? 彼らの行動を変える、あるいは彼らを更生させるためにはどうすればいいか?」
(本書p70より)

 これに対してジールは、

 彼の仮定のいくつかに賛成できなかったが、口には出さなかった。そもそも、彼の仮定の礎となっている人間性に対する考え方が、わたしとは異なっていた。わたしの考えでは、世のなかには悪いことを平気でやれる人間がいる。まともな人でさえ、追いつめられたら犯罪的な行動をとる。
(本書p70より)

と異なる考え方を抱きながらも、理論に走ることなく実践的な情報を得ることで犯人を特定して捕まえようとします。犯罪者について異なる両者の考え方は、単なる観念的な対立ではありません。それぞれが愛する人を事件によって失い、その傷を抱えながら殺人事件に向き合っています。だからこそ、ジールとしてはシンクレアに対して一定の距離を置きながらも協力して捜査を続けます。
 巻末の訳者あとがきでも述べられていますが、刑事と犯罪学者のコンビという設定だけなら目新しいものではありません。それが、1905年という革新と保守・活気と沈滞がせめぎ合う時代を背景とすることで独特な雰囲気が漂う作品となっています。ミステリというよりも犯罪小説として評価したい作品です。