三軒茶屋 別館 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-01-31

[][][]『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 10』(入間人間電撃文庫

G:反対に、小説家になって「これは厳しいな」と感じることは何ですか?

入間:売れるとひたすらシリーズ化(引き延ばしともいう)を勧められること。どの話も一巻は続編をふまえて出していないので、飽き性にとっては苦行となります。

ラノベ作家の入間人間さんにインタビュー、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」映画化に思うこととは? - GIGAZINEより

 みーくんまーちゃんシリーズも本書で堂々の完結です。

 ライトノベルの1作目というのは1巻で取りあえず完結して、人気が出たらシリーズ化というパターンが多いです。みーくんまーちゃんもまさにそうした例に当たるわけですが、それを自分で「引き延ばし」といってしまう辺りがいかにもこのシリーズの作者らしいです(苦笑)。

 ぶっちゃけてしまいますと、本シリーズは1巻で切りよくオチが着いていましたから、新キャラを登場させたりしてストーリーを続けたのは確かに「引き延ばし」ということになるのでしょう。ですが、本シリーズに関しては読んでてあまり「引き延ばし」という気はしませんでした。というのも、本シリーズのみーくんのスタンスそのものが嘘に嘘を重ねて現状を維持することにありました。つまり、嘘による現状の引き延ばしが本シリーズの本筋だといえます。売り上げ的な要請とストーリー上の要請とが噛み合った幸せな例だといえるでしょう。

 異能や超常現象といったエピソードこそありませんが、まさに騙りと呼ぶに相応しい本書の語りは、ついには9巻にて「小説化現象」まで引き起こすに至って現実感を希薄なものにしていきます。そうした世界観が知らぬ間に構築されているために、陰惨な殺人事件の現実的解決が緩いままでも何となくすまされてしまう空気ができてしまっています。そんな世界だからこそ始まってしまい続けられてきた「終わり」の物語もいよいよ終わり。その結末は副題のとおり「終わりの終わりは始まり」と呼ぶに相応しいものでした。嘘をつき続けることで続いていた本シリーズですが、最後の最後でみーくんの紛うことなき本心を導き出せたということで、まずは納得のいく結末を迎えることができたと思います。

 「嘘だけど」連発の捻くれたネタまみれの語りも、あるいは騙りのための仕掛けも、私は決して嫌いではありませんでした。

 ハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ(中略)ハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ。

 そういえば、本書の仕掛けもなかなか大胆で面白かったです。

 描写的にも構成的にもケレン味が強くて、本来であれば好き嫌いが分かれるタイプの作品だと思うのですが、にもかかわらず漫画化や実写映画化といったメディアミックスを見せるのですから世の中なにがウケるのか私にはサッパリ分かりません。……などと、ここまで読み続けた私がいえる筋合いではないですね(苦笑)。シリーズ完結まで嘘つきにつき合ってよかったと思ったり思わなかったりです(嘘だったり本当だったり)。

【プチ書評】 1巻 2巻 3巻 4巻 5巻 6巻 7巻 8巻 9巻 短編集『i』

2010-01-12

[][][]『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 9』(入間人間電撃文庫

 今も、記憶は溶けて、混ざって、掻き混ぜられて、そして生まれていた。夢の中で水面が育むものは、僕をあまり多幸感で包もうとしない。突き放した、現実の夢ばかりだった。

 最初の内は、とても素敵に嘘塗れの夢ばかりだったのに。

 起床が近づいてきているってことなんだろう。でも、現実の夢。愉快な言葉だった。夢のような現実もきっと素敵だろうけど、現実を夢のように捉えるというのも、幸せそうだ。

 どっちでも、今の僕は救われるだろうから。

(本書p13より)

 作中の人物の死によって巡る思い出。動く感情。空回りする思考。停滞する物語。短編集『i』収録のifの物語や、あるいは8巻の主人公カップルを無視した展開もこうなると俄かに意味を持ってきます。

 今までとは違って自分にとって身近な人間の死。本筋とはほとんど関係のなかった8巻はあんなにぶ厚くて、本書はわずか216ページしかありませんが、内容的には本書のほうが詰まっています。これは感傷などではなくてそういうものでしょう。

 小説化現象*1による現実からの逃避。長瀬が生きている平行世界を夢想することでの思考停止。 平行世界に耽溺することの無意味さを散々描いておきながら、(ネタバレ伏字)長瀬に続く死者の名前(あるいは戯言か?)を伏せる(ここまで)ことで読者にも平行世界を意識させようとする試みは皮肉が利いてます。どこまでいっても素直じゃないシリーズです(苦笑)。

 また、自分と自分とで対話して自分の中に引き篭もる。「語り手(騙り手)であるぼく」と「読む僕」との分裂と対話は世阿弥がいうところの「離見の見」にも通じますが、その根元にあるのは孤独です。

 「愛とは、互いに見つめ合う事ではなく、 共に同じ方向を見つめる事である」とはサン=テクジュペリ(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ - Wikipedia)の言葉だそうですが、その言に倣えば、相手の自分のことを見てもらうことだけを望んで相手の見つめている方向を見ようとしないことがヤンデレなのではないかと思ったりします。だとすれば、ヤンデレなのは「ぼく」ではないかとも思うのです。「みーくん」と嘘をついてまーちゃんの目を自分に向けさせて、それでいて将来的な展望のない生活を惰性で過ごす。これまで、あれやこれやのトラブルに巻き込まれてはなにだかんだで乗り越えてきた「ぼく」ですが、その本分はまーちゃんとの二人だけの世界の維持にありました。

 それが今回、登場人物の死によって自分自身の死と生について考え、さらには自分が何をしたいかを自覚・確認するということは、「ぼく」にとっても物語にとっても進展であることは間違いないと思います。もっとも、こんな展開では夢も希望もありやしませんが……。

 次巻でいよいよ完結するみたいですが、そう言われてもいまいち信じられないのがこのシリーズらしいです。いったいどんな結末が待っているのか……。

【プチ書評】 1巻 2巻 3巻 4巻 5巻 6巻 7巻 8巻 10巻 短編集『i』

*1筒井康隆化現象と言い換えてもいいかもです(笑)。

2009-09-21

[][][]『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 8』(入間人間電撃文庫

 どうでもいいのだ、僕の世界にいる人以外が傷つくことは。どうなんだろう、世間の言う普通の人って、そういう無関係な蹂躙に対して心を痛めたり砕いたりしないといけないのかな。

(本書p59より)

 これは、僕とまーちゃんの平穏無事で素敵なバカンスだ。嘘じゃない……よな?というのは本書カバーに書いてある文句ですが、確かに嘘ではありません。が、しかし(苦笑)。

 本書ではこれまでのシリーズにない趣向が凝らされています。まず、本書では群像劇形式(参考:グランドホテル方式 - Wikipedia)が採用されています。みーくんとまーちゃんが9月の5連休を利用してバカンスに訪れたホテル。そのホテルに様々な理由で集まった様々な人々。それらの人物の視点が交互に切り替わって物語が進行していきます。7巻で視点人物の入れ替わりというシリーズものにしては大胆な試みがなされていましたが、本書はそれがさらに進められた格好になっているわけです。

 物語が進行するリズム・テンポも少々変わっています。本書では視点人物が切り替わるごとにその時刻が午後1時10分、午後2時などといったように明確に記されています。さらに、視点が切り替わったにもかかわらず時間が進んでいない場合もあります。視点を切り替えることによってサスペンス性を維持しながらも、小説のお約束である時間の省略といったものをなるべく排除しようとしています。本シリーズらしいひねくれた趣向です。しかも本書はまさかの500ページ超えです(あとがき込みで543ページ)。人によっては小説内の経過時間よりも読むのに時間がかかるかもしれませんが、そうした可能性がある本というのも意外に珍しいのではないかと思います。

 さらに、これが本書においてもっとも意外性のある趣向だと思われますが、ホテル内で生じる出来事について、みーくんとまーちゃんが関わってこないのです。それでいて別シリーズである『電波女と青春男』に出てくる人物の名前が出てきたりします。シリーズの名前を冠してこのような作品を出すことについて、実のところ私としては少々疑問を感じずにはいられません。ただ、みーくんとまーちゃんあるところに事件あり、というミステリ的お約束体質あるいは非日常的日常をシリーズを通して散々描いてきたからこそ、たまにはこうした日常的非日常を描くことにも一定の異議はある、と理解できなくはないです。もっとも、次巻以降で何らかの関連性が生じる可能性は否定できませんが、しかし、それをやってしまうと本書の特異性が失われてしまうので、おそらくそれはないような気がします。いや、分かりませんけどね(笑)。

 ちなみに、本書を読んで思い起こしたのが筒井康隆『虚人たち』です。『虚人たち』は、「人物」「時間」「事件」について従来の小説のお約束を逆手に取ったメタ小説です。本書はそこまで先鋭的な試みがなされているわけではありませんが、問題意識としては共通するものがあるように思うので、ご参考まで。

【プチ書評】 1巻 2巻 3巻 4巻 5巻 6巻 7巻 9巻 10巻 短編集『i』

虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

2009-06-15

[][][]『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん『i』』(入間人間電撃文庫

 短編集です。みーくんがみーくんになる前、小学校4年生の頃の短編4本と、if話1本が収録されています。小学生時代の”ぼく”ですが、語り自体は従来とそれほど違いはありません。ただ、一部の表記がわざとひらがなに開かれたりして小学生っぽさを演出しようとしつつも、そのついでに言葉遊びがあったりして、ふざけた感じは相変わらずです。それでいてえげつないのも相変わらずです。

春『うそが階段を上るとき』

 事件の後遺症で精神病院に入院した”ぼく”と恋日先生と仲の良い入院患者たちによる、互いの苦しみを理解しあいながら、病院の外でも前向きに生きていくことを誓い合っていく姿にこちらまで勇気をもらえます。(嘘だけど。)

夏『ともだち計画』

 精神病院から退院した”ぼく”。再び学校に通うようになって、周りとうまくやっていけるのかな?いじめられたりしないのかな?って心配だったけど、浜名さんや赤池くんといった友達ができました。これからも学校ではみんなと仲良くやっていけそうです。(嘘だけど。)

秋『蟻と妹の自転車籠』

 楽しい楽しい遠足。みんなと楽しくおしゃべりして山の中を歩きながら思い出すのは、動物好きの妹と過ごした山中でのとある出来事。動物愛護の精神が養われる文部省推薦のハートウォーミングなお話です。(嘘だけど。)

冬『Happy Child』

 クリスマス間近の12月のある日。病院でばったり出会った”ぼく”とマユちゃん。ぼくがたまたま発した一言が、後に二人が過ごす幸せな日々のきっかけとなります。二人の子供の初々しい会話には、読んでるこっちまで微笑ましい気分にさせられます。(嘘だけど。)

 ……少しだけマジレスしますと、さすがにこうした状況にマユが放置されているのは、いかに物語内のこととはいえ少々腑に落ちません。本シリーズはどこまでも表面的な語りが特徴ですし、それはそれでよいのですが、一方でこうした”浅さ”があるのも確かです。この辺りが、本シリーズを万人向けのものとしてオススメできない弱点だと思っています。

とってももしもにもしかして『壊れていない正しさのある世界』

 誰かにとっての幸せが、他の誰かにとっても幸せだとは限りません。それでも、もしかしたらあったかもしれない世界には、平凡な日常とたくさんの笑顔とラブコメがあります。そんな虚数解なお話です。

 ちなみに、7巻p185に出てくるトーエは「夏」に出てくる浜名遠江のことで、ヤマナさんは「春」に出てくるヤマナさんのことですね。また、同作者の『電波女と青春男 2』に出てくる外見年齢20台前半の美容師・大井遠江と浜名遠江はおそらく同一人物で、「夏」でのぼくとトーエの髪の毛についての会話が美容師という職業の伏線になっている、ということだと思います。名字が違いますけれど、それについてはいろいろあったのでしょう、ということで。

 私は雑誌の連載とかはまったく追いかけていないので、本になっていない部分についてのリンクは不明です。また、それとは別に何か私が気が付いていないリンクもあるかもしれませんが、何せ登場人物に感情移入するのが難しいシリーズなので、それを把握するのにも独特の難しさがあります。リンク自体の評価も人それぞれでしょうし、気が付いたら適宜指摘していきたいと思いつつも、あまりこだわる必要もないかな?とも思っています。まあ、好きに読むのが一番ですね(笑)。

【プチ書評】 1巻 2巻 3巻 4巻 5巻 6巻 7巻 8巻 9巻 10巻

2009-04-22

[][][]『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 7』(入間人間電撃文庫

 さて、6巻の終わり方が終わり方で、さらにはあとがきがあとがきだったので、果たして続きが出るのか出ないのかで本シリーズの読者(←私も含めて物好きとしかいいようがない)をやきもきさせたわけですが、やはりというべきか意外というべきか、こうして続きが刊行されました。

 6巻は一人称多視点の手法が用いられていましたが、本書では語り手の交代という荒業が用いられています。みーくんの代わりに『物語』役ならぬ『物騙り』役を自称して物語を進めるのはU・N・オーエンこと大江湯女。物語に登場した当初からみーくんとの類似性が殊更に強調されていた人物であるだけに、その頃から本書のような展開が想定されていたのかもしれませんが、考えすぎのような気もします。まあ正直どうでもいいんですけどね(笑)。

 従来の”みーくん”の語り自体も「嘘だけど。」連発の胡散臭い語りではありましたが、語り手の交代による本書の語りはさらに胡散臭いです。物語がフィクションという名の『騙り』であることは今更いうまでもないことですが、にもかかわらず『騙り』を強調する本書の騙りにはどんな意味があるのか?語り手は誰に向かって騙っているのか?そして、何を語ろうとしているのか? それはつまり、誰のために生きているのか?そして、何のために生きているのか?ということでもあります。

 シリーズ当初から一貫している本作の胡散臭い雰囲気は、つまるところ、クレタ人のパラドクスに代表される自己言及のパラドクス(参考:自己言及のパラドックス - Wikipedia)にあります。自己について言及することの難しさを承知しながらも一人称語りを続ける欺瞞の背景には、みーくんにしろ大江湯女にしろ、その生き方を依存というレベルを超えて完全に他者に委ね切ってしまっているという滅私のスタンスがあります。真摯といえば真摯である一方で、欺瞞といえば欺瞞ですし空虚といえば空虚なのですが、面白いといえば面白いです。……大きな声でいえるような類の面白さではありませんが(苦笑)。

 とはいえ、大江湯女の『騙り』には実はそれなりの役割、つまりは聞き手がいます。決して単なる気まぐれで語り手が交代になったわけではありませんので、そこはご安心ください(笑)。そして、前作のラストがどうなったのかという点についてもキチンと明かされています。おそらくは大方の読者の予想通りではないかと思うのですが、落ちが付いたことで心の落ち着きが得られたのは読者としては大事なことだと思います。嘘だけど。

 一応、冒頭から殺人事件とか発生してミステリっぽい展開を辿ります。それも相変わらず悪趣味なものなのですが、まあそんなのはどうでもいいでしょう(笑)。謎から派生する嘘と真実。嘘にとって真実は天敵です。だからこそ嘘は、自らの身に火の粉がかからないよう必要な範囲で謎を解き明かして事件を解決します。ただそれだけのことです。どちらにしても、守るべき嘘は決まっているのですから。

 現状維持がハッピーエンドじゃね?というようなお話だけにシリーズとしての結末が全然見えてこないのですが、もうちっとだけ続く、というのが本当であるならば、そう遠くないうちに何らかの結末を迎えることになるのでしょう。気になるといえば気になりますので、もうちっとだけ付き合ってみたいと思います。

【プチ書評】 1巻 2巻 3巻 4巻 5巻 6巻 8巻 9巻 10巻 短編集『i』