34歳になりました
34歳の誕生日は熱を出している子の看病の中で迎えた。月曜の朝に発熱で保育園にすぐ迎えに行き、結局、断続的に1週間熱が下がらなかった。妻と2人で様子を見ていたがあまり仕事には集中できない。生産性半減の中でも最低限の仕事はできたのでひとまずよしとする。確定申告には苦戦し、3Dプリンターは調子が悪い。うまくいかないときにはいろいろ起こるものであるが、いい大人なので適当に受け流す術も身につけた。
人生、数ヶ月で大きく変わってしまうこともあれば、数年間停滞するということがある、というのをこの5年で学んだ。停滞している。しかしフィールドを変えればそういうこともある。アウトプットが指標であれば、単にわかりやすいアウトプットがないので停滞しているかもしれないが、インプットが指標であれば進歩しているとも言える。回り道かもしれないが、自分がやりたいことに近づけているかどうかが大事。可視化できる目標と、その道のりが見えているかどうかである。
これまで、とにかく目の前のチャンスに全力を尽くそうと必死だった。フリーランス、そしてほぼ個人の会社として活動して7年、相談してもらえる仕事はいろいろあり、断る理由がないものは引き受けて、できる限りの役割を果たしてきた。それはそれで充実していたが、それだけでは、自分に積み重なっていくものがないことに、7年やってやっと気がついた。セレンディピティがどこかに連れていってくれるほど人生は甘くはなく、自分の責任は自分でしか取れない。フリーランスで突入する社会は会社ではないので、チャンスをくれる人がキャリアの責任をとってくれるわけではない。
最近、若いときの自分のことを振り返ることが増えた。5,6年前まで自分はnoteで煽り気味の文章を書いたり、Twitterで奈良美智にガチギレしたりしていた。完全にヒリついているし、生き急いでいるし、めちゃくちゃ生意気だが、なにか根拠のない自信が垣間見えるのはいいことのようにも感じる。文章としてはおもしろいし、それなりにアテンションを集めもする。それはいいように使えることもある。
ここ数年の自分はすっかり自信がなくなっていた。文章を書いたり企画をしたりするのは得意だし、これまで一定の評価をもらっていたし、ささやかな自信を持ってもいた。しかし会社をうまくやれず自信がなくなった。イチから勉強し直そうと思って、苦手なこと、苦手な環境にも飛び込んでいったが、当然すぐにはうまくいかなかった。自信がない中で仕事をしているから、自分がなにが得意なのか、周りの誰にも伝わっていなかった。そうしてさらに自分の自信がなくなっていくのだった。
さすがに、もうそんなことやってる場合じゃないなと思った。子どもが生まれ、妻も仕事に復帰し、これまでのような時間の使い方では完全にうまくいかなくなっている。子どももすこしずつ大きくなり、もうそろそろ生活を安定させないと本当にどうしようもなくなる。そんな中で、自分が得意でもない経験もない仕事を、自分があんまり馴染めないような環境で無理してやり続けることは、自分も家族も仕事仲間も、全然幸せにしないことがわかった。
思えばこの数年、「どうやって自分の城をつくるのか」ということを考え、悩み続けてきた。城というのは物理的なスペースだけでなく、コミュニティであるかもしれないし、会社組織であるかもしれない。自分は誰かの城で仕えることができないタイプ、なおかつリーダーシップを全面に出して引っ張れるタイプでないからこそ、自分の城をつくる方法を見つけ出す必要があり、その壁を乗り越える必要があった。
5年前、直感的に札幌に来たことで、身の丈にあった、現実的に想像が及ぶ範囲の城のつくりかたをいくつか見ることができた。物理的なスペース、コミュニティ、会社組織、さまざまなタイプの城に入り、そのつくり方を学んだ。実際は学ぼうとしたわけじゃなく、自分で城をつくるのに疲れたので居候させてもらっていたような感じだったのだが。「まだギリギリ若いんだから、城に雇われるスキルをしっかりつけたほうがいい」とも説得されたこともあったが、結局城に雇われる仕事は全然うまくできず、迷惑をかけまくった。
城にはいろいろなスタイルがある。強権的だがスピード感のある城、意思決定が謎だが多くの意見が反映される城、代替わりして既存のものを守りながら新しいスタイルをつくる城、ハイプレッシャーだがやりがいの強い城。私は城マニアではないので城のスタイル研究をするつもりはないが、どの城も正解であり、どの城も課題はあり、合う人と合わない人がいる。達成すべきミッションのある城は、合わない人を削ぎ落とし、合う人たちのモメンタムによってドライブしていく。それは「多様性」みたいな話とはまったく別の話である。
自分はこれまで、「合わない人がいる」ということを恐れて生きてきた。それは幼少期から、自分が「合わない人」として切り捨てられてきたことに対する怯え、トラウマに近いなにかがあったのだろうと思う。でもさすがに、自分に守らなければいけないものが増え、自分のリソースの制限も受けてくると、そんなこと気にしている場合じゃないなと思うようになった。unconfortableな仕事も、リソースを割くことで解決し、ある程度の成果を出してきたが、リソースが割けなくなったら単に全員unconfortableなだけである。
自分には城をつくることがこれまでできなかったので、城を築いているすべての人は無条件に尊敬している。でも普通に合う合わないはある。合わない場合はお互いに不幸である。令和ロマンがしくじり先生で「合わないテレビマンリストをつくって鉢合わせないようにしている」と言っていたが、そういうスタンスを取ったほうがいいのかもしれんと思った。ホームをつくる。ホームから極力出ない。外に出るなら自分の土俵を持ち出す。それが雇われなくても生きていくための道だと、これまでやってきたリソースでの解決ができなくなってはじめて思い知った。
昨年はこのようなことを書いていた。
道自体はいろいろな可能性があるが、なにか生きた証を残せるレベルのことをやろうと思ったら、もう新しい道を探ってる場合ではないなと思った。そしてそこに「普通に会社で働く」という道はないということもわかった。1年前には「もう2度と人前には立たん」というような気持ちだったし、今でも人前に立ちたいとは思わないが、大袈裟にいうと共同体の中で一定の責任を果たしていくためには、たまには縁の下から出ることも必要だとも思った。今まで曲がりなりにも積み重ねてきたおかげか、共同体の中で一定の責任を担わせてもらえるような立場になりつつあるし、それは真っ当に担い続けていけば、どんどん担わせてもらえるもののはずである。
縁の下から出ていくことは必要だが、自分のホームグラウンドから出るときに、自分のホームを持ち出して出ることができれば、ひとりで出るよりもずっと楽になる。そんなことも、1人でしか出たことがないのでわからなかった。去年は、真っ当に責任を担い続けていけば、より大きな責任を担わせてもらえるものだと思っていた。しかし真っ当の基準はひとそれぞれで、それが合わないこともあるし、合わせようと思ったってどうしようもないこともある。ましてや自分は合わせるのが苦手な人間である。どの場所でもハマるとは限らないものだから、ハマる場所で全力でやらなきゃいけないし、ハマる場所がないならつくらなきゃいけない。
だから自分の場所をつくることに決めた。それを自分ひとりじゃなく、周りの人と一緒にやることに決めた。たくさんの失った信用もあれば、自分が人に対して持たないことにした信用もあるし、新しくこの数年で積み重ねられてきた信用もある。「信用」自体がそんな簡単に失ったり積み重ねたりできるものではないので、これ自体があまりよくないとは思うが、新しく積み重ねられた信用と、まだ残っている信用の中でやっていかなければならない。
最近車で頻繁に軽く事故ったり、常にやらなきゃいけないあれやこれやが強く浮かんできたり、自分のADHD性質がひどくなってきた感じがあるので、鬱以来数年ぶりに精神科に通い始めた。鬱のとき、薬を飲んで得られた感覚が自分にとって重要だったので、ADHDもそういうものなのか確かめてみたいと思った。単純に仕事量をコントロールするとかそういう話なのかもと思ってはいるが、これまでずーっと自然にはできてこなかったので、それも含めて一度話を聞いてみようと思っている。
自分が考えることのスケールがでかいのに、しっかりやりきれないことにすごくコンプレックスがある。ずっとそれを見ないようにしてきたし、そうじゃなくてもできる方法を考えてきた。その結果できるようになったことも、挙げてきた実績もある。でも人の信用に関わる部分として、これだけは自分はしっかり役割を果たせる、ということを持たなければならない。とはいえ、これまでもなんとかやりきってきたことはたくさんある。それはそれで卑下する必要はないので、しっかり外に出していかなくてはならない。
1年半ぶり?に文学フリマ東京に出ることになった。これまでニュースレターで書き溜めてきた文章をまとめようと思う。自分の文章を読み返すのは、自分しか困らないことをやりきるのと同じくらい、本当に苦手なことのひとつである。それを正面から乗り越えるのはエネルギーの無駄なので、別の方法で乗り越えられるか試してみたい。AIに助けてもらうとか。実際どこまでできるだろうか。
なんとなく「みんなとピザでも食べたいね」と妻に話したら「みんなって誰よ」と笑われた。自分の人生そういうことが多い。具体性に欠ける。細部の詰めが甘い。でもそう生きてきてしまったのでしょうがない。若いころは責任の所在がなかったから言えたことも多い。「みんな」と言っているうちは永遠に「みんな」なのかもしれない。
誰かがきっと見てるから
誰でもない誰かが言った
もうあんたでいいから見ててよ
そうだよなだから「誰か」か
5年前は「二十九、三十」のような気持ちだったが、妻に薦められて読んだオードリー若林の「社会人大学人見知り学部 卒業見込」を読んでいたら、若林の34歳の誕生日の話が出てきた。どんな人生を生きてきても、同じような歳で悩むことは似ている。そのことに救われた。自分の人生を捉え直すのに遅すぎるということはない。
気持ちが外に向いてきたので、5億年ぶりにnoteでも書こうかな、企画仕事もブランド仕事もnoteもVJも、人間3年くらいやらないでいると、それをやっていた人だと思われなくなることが最近わかってきた
— Kazuya Sano (@sanokazuya0306) 2025年3月8日
そわそわしている。でもこの歳になると人生で何万回繰り返してきたそわそわである。そういうときにすべきことは、そわそわに任せすぎず、でも勢いをうまく借りることである。うまくいかないと落ち込むが、振り返ってみるとそわそわから生まれたことに助けられてきた人生でもある。過去の自分のそわそわから生まれてとっちらかしたものを、大人になった自分が回収しているものもある。すべてのネガティブを放り投げて言う。これから楽しみなことばかりだ。30代前半最後の一年、悔いのないように。10年のスパンを見ながら、引き続き日々をやり切る。おれはあなたとピザを食いたいよ。ホームができたらその時にやりましょう。