日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

歴史読本6月号 書き換えられた戦国時代の謎/新人物往来社

歴史読本 2006年 06月号 [雑誌]

歴史読本 2006年 06月号 [雑誌]

特集は近年の戦国時代史研究によって判明した新事実・新説のまとめ。
といってもそんなに目新しいものはありませんでしたが、こうしてまとめて紹介してくれると分かりやすくて良いですね。他の時代でもやって欲しい。

関ヶ原合戦の研究 最前線…笠谷和比古

笠谷氏の著作はいくつか読んでいるので、既知の部分も多いですが初見の見解もあり、興味を惹かれたいくつかを書き留めておこうと思います。
まずひとつめは、小山評定段階における家康と豊臣系諸将の状況認識について。彼らがその時点で把握していたのは、石田三成ら一部による反乱で、大坂城の奉行衆らも同調しての家康追討が全国の諸大名に発せられたことを知るのは、豊臣系諸将が反転してのちのことだという。すなわち、小山評定で豊臣系諸将は認識不足のまま家康に与同したということになり、また家康が暫く江戸城に留まっていたのは西上した豊臣系諸将の心変わりを案じたためであろう、という。従来の通説を大きく覆す見解だ。
つぎは徳川秀忠の別働隊遅参に関する問題。江戸からの出陣を報じる使者が川留めにより遅れたことを遅参要因とする説について検討し、使者が到着したとされる日以後の行動は悠長であり事実と見なし難い、使者遅参説は秀忠遅参の責任を回避するために捏造されたものであろう、とする。そして秀忠軍の動きは小山評定での取り決めに従ったもので、家康が予定外の急発進*1をしたため、結果的に遅参となった、という。
また遅参は徳川勢力の温存を図ったとする説についても言及。木曽路に入った秀忠が切迫した事態をようやく認識したところで、最小限の供回りだけで関ヶ原に向かったことから、勢力温存が計画されていたのであれば、このような危険な突出はする必要がないし、また避けるべきであろうと反論している。非常に納得できる。
これらは、『関ケ原合戦と近世の国制』で詳述しているとのことで、余裕があれば読んでおきたい。

*1:豊臣系諸将による岐阜城攻略、美濃赤坂進出に危機を感じての行動とみている。