ブログ界は「銭湯文化」の正統後継者と成りえるのか?(前編)

ブログにおける実名と匿名に関する議論が色々なところで話題になっている。もうとっくに済んだ話だとか、そもそももう語り尽くされていて遅いという感もある。
が、やはりオレも興味のある事なのできっちり書いておきたい。むろんオレはひきこもりブロガーなので当然?匿名派。
既に食傷気味の人もいるかも(笑)ですが以下そういう話になりますのであしからず。




まず大体の話の流れから。

【実名派】
ドクター苫米地ブログ − Dr. Hideto Tomabechi Official Weblog : ブログ、実名か虚名か? - ライブドアブログ
どうやら論争の発端になった記事のようで「匿名は臆病者、無責任」というような煽り文句が多い。その後も何度か論じている。
技術系サラリーマンの交差点:匿名のかたと実名のかたへ
http://firewood.txt-nifty.com/bbc/さん経由で知った実名派ブログ。実名と匿名が議論する事の難しさを経験を基に論じている。説得力大。
(雑感)研究人がネットで実名を名乗るとき: 江戸時代研究の休み時間
研究系の人は実名のメリットが大きい模様。


【匿名派】
匿名であること、実名であること。: 304 Not Modified
誰が書いたか、でなく意見が大事という結論。
http://firewood.txt-nifty.com/bbc/2005/05/boys_be_chicken.html
実名の危険性に関する話。続くこちらの記事にはまったく同感。
http://starfish.dyndns.org/y/index.php?/archives/19-aa.html
そもそも実名出すのは一部の人にしか意味がない、というような話。


【まとめ】
福田::漂泊言論 - FC2 BLOG パスワード認証
モラルを保つのは自己規制かシステム規制かという話。難しめ。
http://scott.seesaa.net/article/3889118.html
匿名・ハンドル・実名それぞれのメリット、デメリット。分かりやすい。
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000062.html
一先ずは納得できる結論。個人情報の公開は自分で管理決定する事。『「匿名主義」と「実名主義」が等しく尊重され共存する事』が理想。
http://blog.heartlogic.jp/archives/000606.html
と言っても実名派の「技術系サラリーマンの交差点」で提起されている問題は残る。それに答えているのがここ。まだ続きそうです。
◆6/1追加匿名・仮名・実名論についての悪魔の辞典(ポイント整理)[絵文録ことのは]2005/05/30
更に詳しい実名・仮名・匿名のメリット・デメリッドのまとめ。「済んだ話」っていうのがちょっとあれだけど、完成度はさすが。
【番外編】
http://sinseihikikomori.bblog.jp/category/fujisiro/
http://blog.livedoor.jp/nenashi_at_sage/archives/23280920.html
http://plaza.rakuten.co.jp/catfrog/diary/200505260000/
それぞれ凄く面白いです。

流れといってもあまりに多くの人が語っているので読んだものの中で特に興味深かったものをピックアップ。
おおよそ議論は出尽くしていると思うし【まとめ】も大体納得出来る。
だがあえて何が足りないかというならおそらく「意義」の部分であるように思う。メリット・デメリットつまりは利益になるかならないか、ではない部分を書きたい。そういう意味ではmakiさんの

原子力の発明以来、技術者は発明した技術に無関心ではいられないはずである。それがもたらす“輝かしい未来”そして暗黒について、存分に語って欲しいと切に願う。

に激しく同意。まぁ別に技術者ではないのだけども語ってみたい。






■実名性・匿名性・無名性
まず結論から。
オレがブログにおいて擁護以上に推奨するのはHNによる「無名性」である。ブログは無名性をもって書かれるべきである、と考えている。
無名性とは何か?という事で以下それぞれ定義する。


【実名性】
本名。・・・のみならず現実の社会的関係性を強く引きずっている名称。ペンネームだとか芸名も含む。


【匿名性】
ステハン、名無し。基本的には一回性のものなので同一性は担保されず、よって誰が言ったかではなく意見のみが大事。主体性なし。


【無名性】
固定ハンドル。基本的にはネットのみ流通する名称で実名と匿名の中間、グレーゾーンにあたる。その意味するところは現実の社会的関係性から離れた自己。主体性は強い。


という事で、ブロガーはブログに記事を書き続け、その過去ログから統一的な主体を把握できる、ので匿名とは分けて考える必要があると思う。ブログは記事のみ意見のみ大事、という意見もあったのだがオレは違うと思う。実際記事の内容を判断するのに過去ログやあるいは他のブロガーの評判からどういう人が書いたのか、というのが非常に重要な情報である場合が多い。むろんこういった情報が少なければ記事のみで判断するほかないのだが・・・そして「社会的関係性から離れた自己」と言ってもそこから完全に離れる事などはできない、という前提でブログにおけるこの「無名性」の中身と意義について論じてみる。






■人はなぜ服を着るのか
というのには色々な説があって興味深いのだが例のごとく養老先生の説が非常に面白い。この疑問はこう言い換える事が可能である。
公衆の前で裸になるとなぜ「猥褻物陳列罪」という罪になるのか?
先生はこれを〈人工−自然〉という概念で説明する。子曰く、

  • 都市とはあらゆるものが人の意識によって作られた「人工」的な世界である。そこでは人の意識が作らなかったもの、すなわち「自然」が徹底的に排除される。そしてその都市において唯一残った自然が人の「身体」である。だからそこでは自然そのままの身体を晒してはいけない。服を着るのは身体に対する意識的な見なし、つまりは社会的見なしを与える為である。(色んなところで語られている事の意訳)

これが養老説による人が服を着る理由だ。(まぁ「都市において」という制限付きなのだけど)
しかしここで一つ疑問がある。「公衆の前で」裸になると罪になるが銭湯や温泉などではまったく問題にならない。そこはけっして私的領域、プライベートの場所というわけではない。不特定多数の他者の視線が存在するむしろ普通より極めて公共性の高い場所である。いったいなぜこういった場所では自然そのままの身体をさらす事が問題とならないのか?
いやそもそもこの不特定の他者と裸で向き合いコミュニケーションする日本の「銭湯文化」は世界的にも非常に特殊な文化である。






■銭湯文化の社会的意義
そう思ってちょっとググってみた。
でてきたのが404 Page Not Found. - GMOインターネットとかお風呂の歴史
ちょっと引用させていただく。

江戸時代に入って、今のような民間の銭湯の形式が発達してきた。民間の銭湯は、古くは鎌倉時代から記録が残っているらしい。江戸時代に至っては、銭湯は庶民の重要な社交場となっていった。今の銭湯と違うところは、ほとんどは混浴で、湯そのものが貴重なため、浴槽は小さく、熱気の放出を防ぎ蒸し風呂効果もある右絵上のような石榴(ざくろ)口となっていた。

やはりというか思ったとおりそれが庶民の文化として成立したのは江戸時代であるようだ。そしてそこは『庶民の重要な社交場』として機能していた・・・。
江戸とは日本に成立した典型的な都市社会である。この事は養老先生も何度も指摘しているがここでは詳細は省く。もう一つ、儒教という極めて序列の厳しい思想を基にした士農工商という身分制度もあった。
こういった自然を排除する人工空間としての江戸という都市、そして厳しい序列のある社会において「銭湯」が重要な社交の「場」として選ばれ文化として発展したのはなぜか?
その最も大きな理由として考えられるのはそこが社会的見なしとしての衣服を脱ぎ去り、人が裸すなわち自然としての身体をさらして向き合う「場」であった事が大きいのではないだろうか。現実社会の自然の排除、そして厳しい序列があった、からこそその社会的見なしから自然としての人が開放される空間が必要とされたのではないか。
そう考えると男女の別のない混浴であった事の意味もよく分かる。当然現実には儒教的な考えから男女の序列は相当厳しかったはずなのだ。例えば割りと最近まで男尊女卑の考えの強い九州地方では女は男より先に風呂に入ってはいけないという風習があったらしい。そういう事と比べれて考えると混浴の意味する事は重要であるように思う。
(余談だがなぜいわゆるフェミニストはこの事を評価しないのだろう。恰好の題材であるように思うのだが・・・オレが知らないだけか?)
すなわち日本の「銭湯文化」とは

  • 社会的(意識的)見なしとしての衣服を脱ぐ事によって自然としての身体の表現される、非社会的いや文字通りの「脱」社会的な場において発展した、自然としての人と人との交流の文化

なのではないかという事。


その後明治の近代化によって混浴が禁止され、戦後は内風呂の普及によってこの日本に特殊な「銭湯文化」は廃れてしまったわけなのだが・・・。




後編に続く・・・