フローな話(2)

フローな話 - ぶろしき
前にここで同じ話の繰り返しの意義について書いたのだけど一応この話の続き。
ちょうど最近そこでネタ元にさしてもらった『SOUL for SALE』のcharlieさんの記事でまた
http://www.asvattha.net/soul/?itemid=440

うひゃあ、これどこのGoogle先生からコピペしてきた文章ですか?とか苦笑してしまう。いや別にR30さんをバカにしているのではなく、記者さんっていうのは、こういう形で、権威とか既得権の上に座している連中のカンチガイを攻撃することを「ジャーナリズム」だとするテンプレートを学習させられるものである以上、どこかで聞いた議論の焼き直しにしか見えないこの文章も、ジャーナリズムのヒエラルキーでは大変に及第点なんでしょう、と思う。

と同じ話の繰り返し否定派としてバリバリがんばっているのを見つけて、同じ話の繰り返し肯定派としてオレも負けてられないなと。いうことで一人でも多くの人をケーモーしていきたいと思いますw


http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20050826/1125049871
今回ネタ元としたいのがこちらの記事。

なんか、ブックマーク投げ銭実装で「投げ銭」話が盛り上がっているんだけど、それらはまるで初めて「投げ銭」することや投げ銭システムが生まれたかのような話がほとんどで(実は『Web投げ銭』って結構もう話し尽くされているところがあるから今更特に言うこともないよねっていう人がネット歴が長い人たちの中には多いのかなと思う)、あんまり刺激的ではない。個人的には、正直言ってつまんないなーと思っていた。

でも、考えを変えることにした。

まったくその通りでオレも投げ銭について書いた時『結構もう話し尽くされているところがある』のを全然知らないで書いていた。まぁそもそもオレは繰り返し肯定派なので何か書くときは常にもうどこかでされている話かもしれないという前提で書くのだけど、今回この投げ銭が『結構もう話し尽くされているところがある』のを知ったのは香雪ジャーナルのこちらの記事によってだった。
http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20050812/sendpoint
ここで大体どこでどういう話がされていたのか過去ログにリンクして紹介されているのを見て気付いたのだ。やはり繰り返し否定派はこうしてちゃんとリンクして紹介するのが筋だと思うのでyukattiさんは否定派としては”正しい”のだと思う。
で元ネタでも『考えを変えることにした』と転向?するようなことをおっしゃっているのだけどでもまだまだ繰り返しの意義が理解されていない、というかオレも理解が浅かったようで最近また一つ面白い論拠が見つかったのでそれについて書いてみます。






http://column.chbox.jp/home/jienology/archives/blog/main/2005/09/02_160918.html
最近オレの中でヒットするものが多いウェブログ図書館業務日誌のこちらの記事。この中で非常にあっさりと書かれている

日本十進分類法(NDC)という縦割りの分類法がリアル図書館において曲がりなりにも数十年の仕様実績があるのは、図書館に並ぶような書籍(多くは商業出版物)というのは対象読者(*2)がはっきりしているためそれに依拠して分類を行なえるからです。(*3)
 たとえば植物学書(NDC:47)が自然科学の棚にあり園芸書(62)が産業の棚にあるのは、本質的には近い内容にもかかわらず全く別の棚に置かれるわけで十進分類法の欠陥のひとつとされています。しかし実際には、植物学書と園芸書では想定する読者(出版社にとっては顧客)がかなり異なるため、そのように別置されていてもさほど困らないわけです。

これが物凄く興味深かった。要するにこれが何を言ってるのかというと「同じ内容でも対象読者が違えば分類が可能」という事じゃないだろうか。これは繰り返し肯定派にとっては非常に示唆に富むものだ。


まず第一にブログにおいて一部の有力ブロガーを除けば読者は基本的に殆ど重ならない。分母が非常に大きいからだ。ネット上のコンテンツはその数があまりに多いので同じものを見ている人はおそらく一人もいない。(更にコメントやトラバで内容自体が常に変化する可能性があるので同じ状態のものを見ていないかもしれない)
だから仮にもし今書いているこの記事と同じような内容のものがいくつかのブログで書かれていたとしてもそれぞれ読者は違っているだろうということ。そして読者が違えばそれぞれの記事は分類可能、つまりそれぞれに別な価値があるという事になる。


よく考えてみるとこれは当たり前、であるようにも思う。
情報の価値とは何か?
それは内容自体に独立に存在するものではない。それはその情報の受け手と一体のものでなければおかしい。
ある情報に価値があるのはその受け手がそれを「知らない」事が前提である。だから内容が同じだったとしてもどこで誰に向かってそれを提供するかによって情報の価値は違ってくる。


でこの話が何に繋がるかというと内容至上主義への疑問に繋がってくるようだ。
繰り返し否定派は内容それ自体によってその価値を決めているので内容至上主義者でもあると考えられる。そこではそれが指し示している「読者」が視野に入っていない。ここにはおそらくネットが世界に開かれている、という事からくるある種の誤解があるのではないかと思う。
ネット上の言説の全てを読んで知っている人など存在しない。いくら世界に開かれていても基本的にそれを読むのは極一部の興味を持った人たちであり、書き手も何らかのかたちで文脈を踏まえて読者をある程度想定して書く。そこで想定している読者はもちろんそこで書く内容を「知らない」という前提である。
で世界に開かれていることが重要なのは書き手が想定していない(あるいは文脈を踏まえていない)人にもそれが読まれる可能性が常にある、という事。そしてその事によって書き手が意図するのとは別な解釈、思いもよらない「価値」が発見されるかもしれない、という事が重要なのだと思う。
ブログに必要なのはコンテンツのコミュニケーション化?(5) - ぶろしき

たまにというかよく見かける言説に、ある事柄についての自分より優れた文章を読んで自分で書く気が失せた、みたいなのがあるのだけどオレはこの考えは違うだろって思ってる。つまりその優れた文章の受け手、読み手としてその文章なり考察がいかに優れているかを語るのがブロガーだろ、と思うわけだ。

我々は優れた書き手である前に優れた読み手になる事を目指すべき、じゃないかと。

更には「はてなの茶碗」の例のようにその評価が必ずしも作り手の意図するもの、である必要も実はない。より面白い見方、視点が提供されるならそれでいいんである。

もしより優れた読み手を目指すならある情報に「価値がない」と言うことは読み手として二流である、と言っているに等しい。価値とは読み手によって決まるのでありそれは必ずしも書き手の意図するものである必要もないと考えられるからだ。
いかに面白い視点や見方を見出すか、が問われているのだと思う。
そう考えれば例えば投げ銭についてもまずそれが前に語られた時と今とでは書いている人もそこで想定されている読者も違うのでその時点で十分に意義はある。更に投げ銭はより多くの人が参加しなければあまり面白くならないと思うのだけど、そこで同じ内容が何度も繰り返されそれに出会う機会が増えれば増えるほど情報の格付けは上がる。(内容というか話題なんだけど多くの人が語ればおのずと同じ話の繰り返しにもなりがちなわけで)
ネット上を巡回していて同じようなテーマの話に何度も出会う事でその人の中でその話題自体の重要度は上がる。最初は興味がなくてもだんだん興味が芽生えてきてそのうち自ら調べるようになる・・・という経験が誰でもあるんじゃないかと思う。
そうして情報としての格付けが上がり注目される事にはやはり相当の価値があるのだと思う。




という事でとっくに議論されていてそれを知っている人は同じ話の繰り返しを快く思わない、というのは凄く分かるのだけどその気持ちにはもっと別な持っていき方がありうるし、そこからどれだけの「情報」を読み取れるかは読み手の力量次第じゃないかと思うのでより面白い見方や視点、切り口を積極的に見つけていく方が面白いんじゃないかと。
そして同じ話の繰り返しを否定する人、内容のみで価値を決定する内容至上主義者はやはり視野が狭いのではないかと思う。
既にそれを「知って」いることで直接的に価値は見出せなくても、逆に知っていることでその情報の別な側面、切り口を見つけられる可能性があるはずでそのことによって書き手も想定していない別な「価値」を発見しうる、あるいはオレはしたいな〜と。
そう思っている次第です。




追加:フローな話(3)〜情報リテラシーから実体リテラシーへ、メディアリテラシーから人間リテラシーへ〜 - ぶろしき