「アールブリュット2.0」とは何か……というかもう終わったんですけどw

「製作と活動のあいだ」へのお返事 と 「非モテとアールブリュット」 その1/2
「製作と活動のあいだ」へのお返事 と 「非モテとアールブリュット」 その2/2
ってことでオレもお返事書きまっす。改めて何が問題かが分かった気がするので。


2/2の方での

何故、プチクリよりもアールブリュットなのか?端的にプチクリとアールブリュットの違いを述べよと言われれば僕は「発表の場の有無」と答える。そして何故発表の場を設けない方がいいのか?については「究極的弱者」の立場に基づいた理論だから。


「究極的弱者」にも承認欲求はある。しかしそれは決して満たされることがない。「満たされることがないが満たされたい」のと同時に「自尊心を損ないたくない」と考えている。この相反する二つの気持ちの狭間で究極的弱者の心は揺れ動く。

まずこれを「究極的弱者」と呼んでいるんですけど言わんとしていることを考えてみるにこれは本質からずれる命名じゃないかなと思った。
ここで言おうとしてるのはあるいは想定してるのは「究極的に不幸な人間」ということではないかなと。ただ承認欲求があってそれが満たされない(認められない)というだけでなく承認欲求と実際認めらる程度との格差が激しい人、の意なんじゃないかと思った。
それは例えば非モテだといって悩んでいる人が傍から見ると対した非モテでなく弱者でもなかったとしてでも承認欲求が激しければ不幸である、というような話。


岡田斗司夫の主張の何が面白かったか新鮮だったかというと現代人のこの「身の丈以上の承認欲求の高さ」というのが時代の変化として正当なものである、と認めてしまったとこなんですよね。オレにとっては、かもですけどそこが凄いとこだった。
でこの高いものを下げるということはもはや出来ない、「引き返せない楔」が打たれてしまっているので(個別にはもちろんできるが全体としてはできない)そこでいかに高いまま維持するかっていう方法論が問題になっているのだろうなと。多分。
この問題意識というか前提はどうやらcatfrogさんも共有しているんだなと思った。そこで「アールブリュット2.0」ってことなんだろうなという解釈。


んでとりあえず以上を前提に「プチクリは終わった」についてまずいうとプチクリは「布教の為に薄めた酒」というのがオレの受け止め方なんですよね。いやもちろん本もでてないし予想みたいなもんですけども今のとこそういう感じ。だからそれはそもそも承認欲求がべらぼうに高い人(catfrogさんいうところの究極的弱者)にリーチしてるんじゃなくてどっちかというとある程度で満たされる人、少量のアルコール分でも酔える人(逆に強いのは毒にしかならない人)に向けたもんになるんじゃないかなと。もしくはそもそも欲求に気付いていない人に飲ませて需要を掘り起こす為とかそういう感じなんですよね。
なのでそれに対する反発というのはつまり、強烈に酔える度数の高い酒かと思ってたらなんだ水じゃないか、ということなんじゃないかと思うわけです。岡田斗司夫なら当然強烈な酒を造るだろうと予測してたのが裏切られたって感じじゃないかと。そういう読み。でもそれが水だというのは単に思いっきり酒に強い人だからでw普通の人にとっては十分おいしく飲めるようになってんじゃないかと思ってるわけですけども。(ちなみにオレは下戸なわけで。つーかひきこもりっていうのは下戸のことなんだと思ってるんですけども。)




んでアールブリュットについても色々読んで改めて思ったんですけど、でこれまた比喩で申し訳ないですけどオレが思うにアールブリュットは「天然うなぎ」のことだと思われるのでそれは方法論にはならないんじゃないかと思った。養殖うなぎが食べられる為に(商業ベースに乗るために)人為的に生産されるのに対して天然うなぎは自然の摂理で勝手に生まれるので数をコントロールしたりできないし絶対数も非常に少ない。し少ないからこそ価値もある。それをコントロールした時点で人為が入った時点でそれはもう養殖になってしまうので「アールブリュットを目指せ」というのは原理的に言えないのじゃないかと。(仮に現在の日本にアールブリュットがいたとして果たしてブログなんか読んでその気になるのだろうかという。そういう事とは無関係にやる人はやるしやらない人は絶対にやらないのではないかなと)


というわけでこの点には同意できないんですけどNPOだかの団体を作るっていうのが環境作りみたいな話であればそれはありかなと思った。要するに天然うなぎが住みやすい環境とそれをうまく捕捉というか見出すことの出来る方法をあわせてネット上に作るというような話なら。今後情報を保存しておくコストが限りなくゼロに近づいていくとしてそういう場所があれば(つーかネットって既にそういうとこなのかな?でも確信は持てないかなと)売れることとか考えない天然うなぎは普通にでてくるし未来において見出されうる、というかそういう可能性を信じて生きれると思うわけで。
要するにそういう風に生きれってのは無理で環境を作ることしかできないんじゃないかと思うんですけど・・・これよく考えてみるとどうなんだろうか。今の時点でも完全に確信持ってる人はいるんだろうか。例えばこうして書いてるブログの文章とかどのぐらい持つと思ってるのか。う〜んオレなんかは5年ぐらいでも無理というか仮に残ってたとしてももう参照はされないだろうという感覚なんだけど・・・これアンケートとかでちょっと聞いてみたいかも。もしすでに50年後ぐらいでも残ってるし参照される可能性も十分ありと確信できてたら(実際どうかとは関係なく)その時点でもう意識は全然違ってきてる気もする。謎。


以上改めて読んだ感想です。
んでとりあえず最初に書いた前提部分はオタクも非モテもひきこもりも共有してるんじゃないかと思うのだけどただそこでどういう答えを出すかってとこが多分違ってくるのだろうなとは思ってたりします。岡田斗司夫の主張もそれはあくまでオタクにとっての答えでしかないので凄い面白いとは思っても実は全然同意はしてないとこもあったりしてまた別な答えもありうるんじゃないか、特にひきこもりには・・・という辺りで一先ず終わり。


あっと追加。

承認欲求は満たされる。それは来世という胡散臭い未来においてではなく、自身の死後の現実社会で、である。承認欲求が満たされる地点を最大限に未来に置くというのは、その合否が判定されるタイミングを最大限に先送りするということだ。

個人的にこれがかなりキタというか凄い面白くてアヤシイ。これがどういう意識の変化に繋がるのかはかなり謎。