(3)空気と羞恥心

の二つが世間を考える上での重要な概念ではないかと思う。
が特に重要なのは「空気」か。羞恥心が空気から外れること、そして空気に合わせようとするからこそ生まれるものだと考えれば。ということで(1)(2)の続き。


空気といえば山本七平『「空気」の研究』。というかオレはそれしか知らない。山本七平といえばイザヤ・ベンダサン名義での『日本人とユダヤ人』。山本七平イザヤ・ベンダサンであるというのは『日本人とユダヤ人』を読んでだいぶたってから知った。要するに殆ど何の知識も無く読んだ。(で極東ブログ山本七平イザヤ・ベンダサンというのにも疑義があることを知った。参考:[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 2: 極東ブログ
日本生まれのユダヤ人の書いたものと正直に受け取って、で目からウロコだった。『「空気」の研究』のあとがきに

日本に潜在する伝統的発想と心的秩序、それに基づく潜在的体制の探究を試みた

とあるけども『日本人とユダヤ人』も要はこういう話。日本人にとって無意識だったものの意識化。という意味で「世間」のような実体のあやふやなものを考える上での多分思考のベースになってる。
んでこの日本人の無意識の世界を考える上でのアプローチには二つあると思う。
一つがその無意識の世界がどういう力学、からくりで動いているのか、というようなもの。
もう一つがその無意識的世界の決定をより重く見るという日本人の志向性のようなもの。逆に言えば明示的ルールを軽く見る傾向。
ネットはテキスト全盛で高度に意識的世界である、と一見すると見える。そこには表現されえないものの入る余地はない、ように見える。けどもやっぱりそこで重要視されるのは空気であり文脈(コンテキスト)であり無意識に働きかける環境、であったりする。そして2ちゃんねるは論理より感情、意識より無意識的でそこに共鳴というか何かしら捨てきれないものを感じてしまうという。いや書き込みとかしたことないしロムもあんましないんだけども、なぜなんだか・・・




って話がずれた。空気と羞恥心について書きたいんだった。
ってことで強引に戻して羞恥心についての非常に興味深い話。
Passion For The Future: 羞恥心はどこへ消えた?

この本に紹介された研究結果によると、羞恥心は以下の式で計算できる。

羞恥心=相手との関係の重要度×自己への評価の不安度

この式では、自分の会社の社長と初対面で失言をしてしまったときはかなり恥ずかしい、と例がある。関係は家族のように極めて親密であったり、二度と会うことがない他人のように極めて疎遠であったりすると、羞恥心は鈍くなる。ほどほどに親しい関係の相手が最も恥ずかしさを感じる対象であるようだ。

ミウチ」「タニン」「セケン」という日本文化の区分けでいうと、ミウチとタニンはあまり羞恥心を感じない。「セケン」は恥ずかしいということになる。最近の若者の羞恥心の弱体化は「地域社会のセケン機能の低下」「地域社会のタニン領域への移行」「セケンの機能細分化とミニセケンの増加」というセケン弱体化と関係があるのではないかと書かれている。

なるほど感高し。世間とは字義通りに解釈するなら「世のあいだ」に成立するものだけど「ミウチ」と「タニン」のあいだ、がセケンの領域なわけだ。そういう意味でいうと例えばネット上での知り合いという距離感はまさしくセケン的距離感に近いと考えられると思う。
そして「地域社会のセケン機能の低下」「地域社会のタニン領域への移行」についていうとつまりオレの問題意識は「セケン機能のネット社会への移行」「セケン機能の復活、強化」にあるんだなということが分かった。もちろんそこでネットであるがゆえのセケンが持つ問題点の克服というか新しいかたちになると見ているわけだけども。


ってことで全然まとまってないというか繋がってないけど空気と羞恥心は大事だよな〜ということで時間が来たので投稿。