タイトルとか名前とか

なまえとタイトル - モジログ
圏外からのひとこと :フォルダー的な帰属とタグ的な帰属


すごく興味深い。タイトルとか名前とか属性と固有名詞、タグとフォルダ、この辺の話題がどうも最近アンテナに引っ掛かってくる。

なまえも、タイトルも、それをつけるのは対象の「所有権」を持っている人だ。
ただし、その「動機」が違う。
なまえをつける動機は、対象を指し、「識別」することにあるのに対し、
タイトルをつける動機は、対象を「説明」することにある。

このブログについて考えてみた。
「santaro_y」というハンドルネームの「なまえ」。これにほぼ意味はなく基本的にそれは何も説明していない。思い出して見るに結構これは意識してた。なるべく意味のないものがいいな〜と思ってて、で普通の名前っぽいものにした。要するに識別ができればそれで良かったという。
でも・・・じゃあこれに意味がないかというとそれがどうもそうでもないようだ。少なくともそこから何らかの意味を読み取ることは可能である。およそ無限にある組み合わせの中から他でもないそれを選択したという事自体に意味なり傾向なり何らかのバイアスが発見されうる。これを避けるためにはサイコロでも振って運否天賦で決めるしかないが、しかし他の人が同じように決めてるのでなければ結局同じことでそういう方法を選んだという選択に対して意味は付与される。
と考えてみるとほんとうに無意味な名前を付けるというのは意外に難しい。



で「大ブロ式」というタイトル。ブログのタイトルというのはどこかしらやはり説明的なものがある。けど内容を説明するのはあんまりいくない。ブログはとにかく色んなことについて書く人が多く内容に制限を掛けたくないわけで。だからそこで説明するのは形式とか立ち位置とかおおよそのベクトルみたいなものとかそういうのを説明してるんだと思うし、そういう意味合いでタイトルは付けた。ここには多分言い訳の意味合いも含まれてるんだけど(けっこうタイトルで言い訳をする人は多い。多分”恥”の感覚があるから)最近これが重い。まあこれは想定してて一年持てばいいと思ってたんだけど、このタイトルのせいで日の目を見ることなく死んでいったネタは多い。供養したい。




次に左の一行紹介「ひきこもりの10年選手。」という「属性」。これはブログサービスによってなかったりもするんだろうけど大体ここでその人の属性が書かれることが多いんじゃないかと思う。要するにプロフィール。
これについて色々考えてどうも普通の人とちょっと違うのかなと思うところがあった。
もしオレがひきこもりでなくなってその後もブログを続けるとして果たして同一のタイトル、ハンドルで続けるだろうか?多分やらない。もしやるならタイトルもハンドルも変えて、まったく別なものとしてやるだろう。とするとオレにとって、というかこのブログにとってこの「属性」が一番重いというか基底になっているということ。その上にハンドル、更にその上にタイトルが乗っている、というかたち。


タイトル<なまえ<属性


なまえはそのままでタイトルが変わるというのは普通にありうるけども逆はまずない。なまえが変わって属性が同じなら別なブログをやってるのだろうけども多分ここと紐付けをして繋げる。けど属性が変わって別なブログをやる時にはここと繋げない。要するにこのブログが終わる時だ。
この属性の重さ、がどうもちょっと一般的な感覚と違ってるような気がする・・・。




というようなことをつらつら考えた。これを取っ掛かりに何かもうちょっと突っ込めそうな気がしてるんだけど一先ずの感覚的な話。とにかく何かこの辺の話が面白くて気になってる今日この頃。