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2015-12-15

水論 水論を含むブックマーク

人体のおよそ60%は水からできている。

胎児では90%に及び、以降一貫して減っていき老人では50%に至るが、生まれた瞬間から減るものとしては他に脳神経細胞が知られている。

3大死因の内ガンを除く心疾患、脳血管疾患とは水が行き渡らなくなることだから、要するにヒトは干乾びて死んでいく。あるいは腹水や胸水のようにむやみに溜まって死ぬこともある。

認知症も一貫して細胞が減るのだから寿命が延びれば致し方ない。


塩分濃度は0、9%でこれは4億年前の海水の塩分濃度に近いものと考えられている。

海水の構成を模した多様なミネラルを含む羊水で育つ、ほぼ水からなる胎児とは原始の細胞に近いただの膜だ。

やっていることと言えば水の吸収と排出。

成長とは水の排出<吸収で膜を膨らませていくことであり、同時にその過程で水をその他40%の構造物に置換していくことである。

その他の構造物は木造建築の家屋に近い。木も時間の経過とともに乾燥していき割れが入りやすくなるのは骨と同じ。水周りの寿命が家屋の寿命より短く先に来るのは、目や歯の寿命が先に来るのと同じ。現在日本の木造住宅の平均寿命は64年というデータもあり、これもだいぶ近づいている。


水という観点から見れば、運動とは体外への水の排出量の増加である。アウトプットは運動によるしかなく、運動すれば熱が生じ、それは気化熱によって冷却される。暑い夏にはほっといても温度が上昇するから多量の水が排出されるし、風邪や恋を煩っても同じで勝手に熱は出る。運動と気温差と病気は水の増減からは区別ができず、とにかくたくさん水が必要な事態というだけの話。

人間は二足歩行なので水は上から入って下から出るという実に理に適った構造だ。入った水はポンプで全身を巡り、途中汗や息で蒸発する以外は尿として排出される。ボクサーならガムを噛みながら唾を吐いて減量することもある。


「万物の根源は水である」と言ったのは最古の哲学者と言われるタレスで、哲学の起源と生物の起源は一致している。生物がいなきゃ万物もくそもないんだから、タレスはまったくもって正しい。万物という概念の根源は水である。どう考えても水が万物に含まれてしまうのが問題だが、水と生物は切っても切れない関係なのに、生物の定義に「水に依存するもの」がないのはどうしたわけか。水を必要としない生物の可能性は電気に依存するコンピュータやロボットだろうが、こちらはむしろ水に弱い。生体内でも細胞同士は電気でやり取りしてるわけだから、やはりエヴァみたいに生命というか細胞を利用してデザインされたロボットの方が強い気はする。それならなんだってエネルギーにできる。肉がなければ笹で生きればいい。パンダみたいに。


水風船は風船と水とどっちが本体かと言えばやはり水だろう。ただし風船という膜があることで水の性質が変わった、もしくは隠れていた性質が表面化したと言える。膜ができただけで生命的弾力は実現する。ただその膜には複雑精妙なテクノロジーが働いており、風船も細胞膜も決して簡単にはできない。だからついその複雑な構造に目が行きがちだが、水の持つその様々な性質は地球の環境を劇的にダイナミックに変化させてもいる。ヘラクレイトス鴨長明も水に世界の変化の根本を見る。太陽から遠ければ凍りっぱなし、近ければ蒸発して散逸するため、水を基準とした時の境界線上に地球及び生命はある。細胞膜が境界を示唆しているならそれは何と何の境界上にあるのだろうか。外環境では水は一定の温度になれば蒸発したり沸騰したり、あるいは凍ったりするが、内環境でそれが起こることは死を意味する。外環境とじかに触れて生きている単細胞生物と体内で生きている細胞との大きな違いは環境の安定度だろう。安定的な生活を保障してくれる男に女がつき従うようにミトコンドリアも境界内に入っていったに違いない。

エントロピー増大則は孤立系においてという制限がつき、開放系ではその限りではないという。開放系とは外界があるの意で、外界があるとは膜のような境界があるということだろう。

進化を外環境への適応とするのは不十分で体内環境適応というのも考えねばならない。体内で細胞が協力し合うことで環境は安定し、ぬくい水の一定の塩分濃度の恩恵に皆があずかれる。

変異は外環境に適応的かどうか以前に内環境と調和できるかどうかが問われる。キリンの首が長くなるには心臓が強力な圧力で血液を頭まで送れなければならず、首だけを長くするということはできない。場合によっては全てが適応的に変化しなければならない。

変異とそれによる他の器官の変化を見分けることは可能だろうか。

つまり首が長くなる変異が外界に適応的だったという代わりに、心臓のポンプが強く変異したのでいわばその圧力に頭が押し上げられる形で首が長くなった、という説明もできなくはない。というかこの二つは同時に成立しなければ変化は無理だろう。

しかしそうなると事態はあまりにも複雑すぎて理解を絶する。

「内的調和を保つための変化」は「内的必然性による意志」という短絡まで後一歩だと思う。

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