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2013-05-06

「あの戦争は何だったのか」 保坂正康著 を読む

| 00:25 | 「あの戦争は何だったのか」 保坂正康著 を読むのブックマークコメント

 GWもあっと言う間に最終日。

 明日からはまたバタバタの生活になりますので、久しぶりに重めのテーマについて書いてみます。


f:id:santosh:20130506230941j:image:right この本、宣伝用の帯に書かれていた塩野七生氏の推薦文、

天国への道を知る最良の方法地獄への道を探究することである、とマキャヴェリは言ったが、戦後日本人はそのことをしてこなかった。この本はそれを教えてくれる」 

を見て、「まさに然り」と思い読んでみました。


 「大人のための歴史教科書」という副題がついているように、内容は、2.26事件以降の太平洋戦争の流れを、いくつかのトピックを拾いながら教科書ざっと追っている感じです。

 内容の殆んどは、今まで多くの書籍で語られてきていることと重なっていると思いますが、「戦争をあおったのは、陸軍よりもむしろ海軍だった」、などの独自の視点もみられます。


 著者がこの本を通じて書こうとしているのは、本の「あとがき」に明確に書かれている通り、以下の2点での太平洋戦争批判です。

 1.戦争の目的は何か、なぜ戦争と言う手段を選んだのか、どのように推移してあのような結果になったのか、についての説明責任が果たされていないこと。

 2.戦争指導にあたって政治軍事指導者には、同時代からは権力を賦与されたろうが、祖先、児孫を含めてこの国の歴史上において権限は与えられていなかったこと。 

 上記の2点目のポイントについては、「歴史上の権限」という概念がいまいちピンと来ないのですが、1点目については、まったく同感です。



 上記の1点目のポイントについては、戦後、今までずっと曖昧にされたままだったわけですが、私は以下の2つの点で、このポイントを突き詰めていくことが重要だと考えています。


 1)太平洋戦争の失敗のプロセスには、日本社会が抱える本質的課題が象徴的に現れているが、その課題は、現代においても何ら変っておらず、最近になってもまた同じ過ちが繰り返されているということ

 2)日本国内における戦争の総括がされていないがために、対外的にみると日本の姿勢が常にぶれており、それが日本の国際的な立場をより弱くしてしまっていること。



 まず一つ目のポイントから。

 著者も書かれている通り、

 戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく」

 「対症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入り込んでいく」

 「現実を冷静に見ないで、願望や期待をすぐに事実に置き換えてしまう」

といった、太平洋戦争における日本軍の失敗ポイントは、まさに現在の日本の多くの企業において起きている課題そのものだと思います。

 戦後高度成長期は、世の中の動きのベクトルシンプルで、土台となる戦略よりも戦術面での差が競争力となる時代でしたので、こうした一つの決まった方向に集中して突っ走るという日本社会の特性はプラス面に働いてきました。しかし、高度成長期が終わり、現場での戦術より、戦略が重要な時代に入るや否や、かつて成長期に一世を風靡した多くの日本企業は、太平洋戦争における日本軍のように劣勢に追いやられてしまっています。

 製造業世界ではいまだに、「高い技術力があれば競争に勝てる」、「製造現場でのカイゼン競争力の根源だ」といったかつての勝ちパターンを盲目的に信仰し、知らず知らずのうちに、それと心中しかけている人たちが多くいます。

 これは、航空機を活用しながらも、結局「大艦巨砲主義」から抜け出せなかった日本海軍や、歩兵による「銃剣突撃」の成功パターンから抜け出せず、いたずらに死者を増やしていった日本陸軍と同じではないかと思います。

 一方で、戦争に勝ったアメリカ軍は、日本軍とは対象的に、軍隊以外からも広く人材を集め、信賞必罰の人事システムをつくり、変化する状況に臨機応変で対応するダイナミックな組織をつくることに成功していました。

 こうした日本型組織の持つ課題は、早くから、野中郁次郎氏等による「失敗の本質」などの本でも指摘されてきていますし、学者ジャーナリストによる研究は多くされてきているのでしょう。しかし、国として、この貴重な失敗体験を総括して、次代のためにそこから学ぶ、という取り組みはされてきていないようです。

 この課題を突き詰めていけば、単なる責任論だけではなく、アメリカとは異なる、日本人日本社会特有の「空気」や「曖昧さ」などの文化論にぶつかっていくでしょう。しかし、日本特有の「文化」だから、では終わりにせず、それを踏まえたうえでの日本社会の持つ強み・弱みを客観的に認識し、失敗を繰り返さないための教訓と方法論を整理していく、これが求められていることなのだと思います。

 これは、昔から、もっと考えてみたいと思っているテーマです。


 靖国神社参拝の記事などを見ていると、戦争で亡くなった人たちを敬うにあたって、「彼らの死があるから今の日本がある」などという発言をよく耳にします。私は、このロジックがまったく理解できません。

 戦争に勝ったのならそうでしょうが、実際には戦争に負けたのです。命をかけて守ろうとした日本は負けてしまった以上、どう考えても200万人以上の人々は、無駄に死んでいったのです。

 この事実を、歪めて美化してもいけないですし、かといってフタをして無視してもいけない。

 この莫大な悲劇と損失を、今のまま単なる「犬死」で終わらすのか、あるいはその経験反面教師としてフル活用して、失敗の原因を学び、将来につなげるのか。

 果たして靖国神社で眠る英霊たちはどちらを望んでいるのでしょうか?



 続いて二つ目のポイントです。

 2)日本国内における戦争の総括がされていないがために、対外的にみると日本の姿勢が常にぶれており、それが日本の国際的な立場をより弱くしてしまっていること。

今までも断片的にこのブログで書いてきたのですが、戦争についての日本立場は、対外的な公式のものと、一般大衆がとらえているものとの間にソゴがあります。

 公式には、日本政府極東裁判判決内容を認め国際社会に復帰したわけであり、日本以外の国は、極東裁判の内容が日本の公式な立場だととらえているでしょう。

 一方で、日本国内では、殆んどの人が、極東裁判など、勝者が敗者を裁いた復讐劇だとしかとらえておらず、A級戦犯に課せられた「平和に対する罪」など冤罪だと考えている人が大部分でしょう。

 このことが、戦後70年近くたった今でも、問題がややこしくなっている原因だと思います。

 最近、安部首相は、太平洋戦争は侵略ではなかった、という発言をし始めて、欧米メディアでも物議を醸しています。その背景にあるのは、安部さんとしては、「侵略」だったのかどうかは、歴史をどう見るのかという相対的な「歴史観」の問題だと考えているのに対して、対外的には日本と言う国が、敗戦後国際社会に復帰する条件として認めた歴史に対する認識を、今になってひっくり返そうとしている、という捉え方をされてしまう、ということでしょう。

(この件については、その後、日本国会で、戦犯の免責決議をしているため、すでに戦犯はいなくなっているという主張もありますが、この件が国外ではどこまで認識されているかはわかりません)

 これから憲法の改訂の議論が盛んになっていきますが、こうした国内外での歴史認識ギャップの問題が整理されていない以上、国内問題国内問題では片付かず、いつまでも中国韓国との間では問題がくすぶり続けることは必至です。

 憲法改訂に取り組むためには、その前に、この非常にややこしい戦争総括の課題を片づけなければいけないのです。



 尻切れトンボですが、そろそろ時間切れですので、今日はここまでにします。

 明日からまた寝不足になってしまいますので。


このテーマは過去のブログでも何度か書いてきました:

 「たかじんのそこまで言って委員会」 靖国問題は、日本が先の大戦の総括をしない限り片付かない - Santoshの日記

 日本の戦争責任について考える Santoshの日記


2013-04-30

映画 「セデック・バレ(賽徳克・巴莱)」を観る

| 03:17 | 映画 「セデック・バレ(賽徳克・巴莱)」を観るのブックマークコメント

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 「セデック・バレ」は、台湾原住民である高砂族(最近はこういう呼び方しなくなりましたが)が日本統治に反乱をおこした、歴史上の「霧社事件」をテーマにつくられた台湾のアクション映画です。

 先日、日経新聞でこの映画が紹介されていたのをみて、面白そうだなと思って調べてみると、関西では大阪九条の「シネ・ヌーヴォ」というところ1か所でしか上映していない、ということ。このGW休みの機会に、九条まで出向いて観てきました。

 

 第一部(144分)・第二部(132分)の二部構成で、合わせて276分、という恐ろしく長い映画で、今日は1日、この映画を観るだけでつぶれてしまった感じです。まあ、こんなこともGW休みにしかできない贅沢でしょう。


 さて、映画はと言いますと、前半の第一部は、反乱の勃発へ向けて話が盛り上がっていき、テンポも良く見ごたえのある感じなのですが、第二部になると、ひたすら同じような戦闘シーンばかりになり、かなり冗長な感じがします。もっと短くても良かったのでは?という気がします。

 舞台台湾の山奥で、登場するのは台湾原住民日本人ばかり、セリフもセデック語と日本語、というかなりマニアックな設定に加えて、この長さ。内容はアクションシーンも多く、エンターテインメント性を狙った映画のはずなのに、これでは海外市場で受けを狙うのは難しいのかな?とも思います。


 この映画で特に印象に残るのは、原住民役の俳優たちの迫力です。これに比較して、日本人俳優はみなふにゃふにゃとした感じに見えます(そういう役作りではあるのですが)。

 特に主人公 モーナ・ルダオ役の林慶台。彼は、もともと牧師さんで、映画は素人だったそうですが、そのインパクトは半端ではありません。三船敏郎という感じです。実にいい顔をしています。 もう少しだらっとさせると、松崎しげるにも似ているかも知れません。

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 映画を観て感じたこととして2点書いておきます。

 一つ目は、この映画における「日本的なもの」の捉えられ方。

 映画の中では、日本巡査軍隊が悪者として、バッタバッタと殺されていくのですが、映画を観ているうちに、セデック族の主人公たちに感情移入していきますので、あまり違和感はありません。

 むしろ、日本人にとっては、主人公であるセデック族こそが、日本人精神体現している、と感じるはずです。

 この映画テーマ自体が、台湾原住民たちは、かつて日本サムライに負けない大和魂を持った勇敢な人たちだった、ということにあるので、セデック族のサムライが、敵方である本家サムライ日本人と戦う、という複雑な関係になってしまっています。

 負けるとわかれば投降せずに腹切りしたり、女子供は戦争の邪魔になるからと集団自決したり、ということは、その後、日本人太平洋戦争で行ったことそのままです。

 太平洋戦争における日本軍の行動は、他の国からは、キチガイじみた行動であるとか、狂信的であるとかのとらえ方をされがちですが、この映画では外国映画にしては珍しく、そうした行動が肯定的に表現されています。 

 外国人サムライ魂を美化した映画としては、最近では「ラストサムライ」がありますが、このセデックバレの方が、日本人精神をよく理解して表現しているように思えます。これはやはり台湾人監督によるものだからでしょうか。

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 二つ目は、台湾原住民の反乱事件の話を、アジア各国合作の娯楽映画として描けるようにまで社会成熟してきた、ということ。

 最近アジアの各国では、今までは生生すぎて、映画テーマには成りえなかった歴史上の事件が娯楽映画にされてきています。

 肉親相戦ったあまりに悲惨記憶である朝鮮戦争をとうとう娯楽映画化してしまった韓国の「ブラザーフッド」、中国における国共内戦プライベートライアンのように戦争娯楽映画化してしまった「戦場レクイエム」など。

 この件は、以前書いたことがあります ↓ 

中国映画 「戦場のレクイエム」を観た - Santoshの日記


 台湾においても80年代末に「2.28事件」を描いた「非情城市」がつくられ、政治的な見解がつきまとう過去の事件が映画化されるようになってきたわけですが、原住民の反乱というけっこうタッチーそうなテーマでも娯楽映画がつくられていることをみると、台湾社会における原住民部族の扱い、というのは、かなり安定した状況にあるのでしょうか。

 

 さて、翻って日本を考えると、アイヌによる「シャクシャインの戦い」をテーマにした戦争映画が作られるような時代果たしてくるのでしょうか? 日本社会はそこまで多様性に寛容になっているのでしょうか?

 

2013-02-10

ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 「影の獄にて」を読む

| 01:52 | ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 「影の獄にて」を読むのブックマークコメント

 先日、映画戦場のメリークリスマス」をひさびさに観た話を書きましたが、ネットで検索してみると、この映画にも原作があったとのこと。

 それが、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著「影の獄にて」です。

 なんと映画主人公であるローレンス氏が、このお話の原作を書いていたのでした。


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 この本、すでに日本では絶版になっているようですが、アマゾンでは中古が購入できました(定価より高かったですが)。

 昭和53年ですから、35年前に発行された本。活字の並びが郷愁を感じさせます。

 この本は、「影さす牢格子」「種子と蒔く者」「剣と人形」の3部作で構成されているのですが、映画の内容は「影さす牢格子」「種子と蒔く者」の2作の内容がもとになっています。

 

 この本を読むと、映画の出来事や登場人物のキャラクターは、原作を忠実になぞっていることがわかります。ただし、映画ではあまりにも時間が短かすぎたのか、原作の難解なテーマは、かなりの部分がカットされています。特に、デヴィッドボウイ演じる「ジャック・セリエ」にまつわる部分は、断片的なトピックをつなげただけになってしまっていて、原作で語られている宗教的なテーマはすっぽりと抜け落ちています。

 映画の中では、セリエの回想シーンで、子供の頃の弟とのエピソードが出てきます。弟が近所のガキ連中からいじめられるのを守る話や、弟が寄宿学校で新人イジメにあう(イニシエーションと呼ぶらしい)のを見殺しにしたりする話です。しかし、映画の中ではどうしてここで弟の存在が現れるのかはよくわかりません。

 原作を読めば、この弟の存在が、はじめに「種子」を蒔いた者として、物語の鍵になっていることがよくわかります。

 また、ヨノイとセリエの関係は、映画の中では同性愛のように思えるのですが、原作を読めば、勇気に対する尊敬のようなものである、ということがわかります。


 この本の内容については、下記のブログに実によくまとめられていますので、これ以上の紹介はやめておきましょう。

404 Not Found



 ローレンス氏は、二十歳ごろの若い時に、日本に赴き、1年ほど滞在した経験があり、そのために、日本人を単なる「敵」としてしてだけでなく、人間として見ることになりました。捕虜収容所での過酷生活の中でも、ハラ軍曹のような、一般には野蛮に見えるキャラクター客観的な視点分析していきます。

 この本が発行された1950年代当時、イギリスでは、日本人のことをよく書きすぎているとしてずいぶんと非難があったそうです。

 現在ならどうなのでしょうか?


 むしろ現在の我々日本人は、この本を読んだイギリス人と同様に、この小説映画に出てくる、当時の日本軍人・兵隊の姿に違和感を感じるのではないでしょうか?

 個人の人権の意識などなく、何かがあればすぐに激昂し、みなでよってたかって殴るけるの暴力をふるい、上官にはロボットのように絶対服従し、罪を行えば自ら切腹して償う。こうしたつい数十年前の日本軍の姿と、現代日本人の姿にはあまりに大きな差があります。

 今の我々が当時の日本軍人を見る視点は、当時のローレンスの視点に近いのではないでしょうか?



 しかしそうは言っても、長い歴史の中で形作られてきた国民文化的な特性や行動パターンがたかが60年あまりで変わってしまうことなどないでしょう。

 私含め、我々日本人は、いつでも当時の日本軍人を再演できる可能性を持っているのだと思います。

 それが良いことなのか、悪い事なのかはわかりません。

 20〜30年前の日本では、それを避けるべき悪いことだ、と考える風潮があったと思うのですが、最近はむしろそれが良いことだ、昔の日本軍人の精神に戻るべき、と考える人が多くなってきているように思えます。

 私が自分が左寄りだと考えているわけではないのですが、この傾向には生理的違和感を感じている今日この頃です。

 

 

2013-01-20

久々に「戦場のメリークリスマス」を観る

| 01:31 | 久々に「戦場のメリークリスマス」を観るのブックマークコメント

 今日テレビでBSの映画チャネルをつけたら、大島渚氏の追悼で、「戦場のメリークリスマス」をやっていました。

 もともと観るつもりでもなかったのに、思わずそのまま最後まで観てしまいました。

f:id:santosh:20130121004151p:image:right 

 前回観たのは恐らく20年数年前だったと思いますので、もうずいぶんと昔のことですが、今回観ても当時の印象とは同じで、特別新たな発見があるわけではありませんでした。

 独特の不思議世界観があるのですが、映画自体は、特別たいした作品だとは思えません。血沸き肉踊るスぺクタルシーンがあるわはないですし、感動のストーリーがあるわけでもない。戦争狂気や理不尽さをテーマに語ろうとしてしているのであらば、それもまた突っ込みが中途半端な気がします。


 デビッドボウイや、坂本龍一ビートたけしといった思い切ったキャスティングの妙が、話題作となった理由でしょう。

 デビッドボウイは実に格好いい。当時は ちょうど"LET'S DANCE"が流行ったころで、MTVでずいぶんと彼のビデオを見たものでした。

 たけしは、俳優としてはまったく素人でありながら、屈託のない笑顔が実に印象的で、「ハラ軍曹」のキャラクターにびったりはまっています。

 坂本龍一の演技が、せりふも聞き取りにくく一番イマイチかと思いますが、日本軍大尉なのに、なぜか80年代テクノ風の化粧をしているのは、何とも不思議です。



 しかし何といっても、この映画を特別なものにしているのは、そのテーマ曲 "Merry Christmas Mr.Lawrence"でしょう。

当時はよくわかりませんでしたが、今この曲を聞くと、すごく日本を感じさせる音楽だったことに気が付きます。

和風のペンタトニックを中心にした、わらべ歌のようなシンプルメロディー、それを包み込み西洋音楽ハーモニー、この世界観坂本龍一独自のものです。

 最近でもときどきYOUTUBEで、この曲を聴くことがあります。

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 日本人の私にとっては、日本の伝統的な「ヨナ抜き」の音階を使ったこの曲は自然になじめるのですが、全く違う音階ベースに育っている欧米人がこの曲を聞くとどう思うのか、には非常に興味があります。

 おそらく、同じ音を聴いていても、まるで違うとらえ方をされているのではないか、という気がします。

 私は、日本から、韓国中国ベトナムタイくらいまでの東アジアエリアでは、音楽に関して非常に近い感覚があるなあと感じています。こぶしの効いた節回しや、多彩に展開するコード進行醤油ニョクマムナンプラー匂いを共通においしいと感じられるように、独特な匂い自然に受け入れることができます。

 一方で、これが西欧になるとまるで違う音楽となり、私には実に味気なく聞こえてしまいます。UKの最近のロックなんか、コード進行が少なすぎて、まるで情緒を感じません。ドイツで食べるラーメンのような(ドイツにはMOSCH MOSCHというラーメンチェーンがある)、醤油やダシの効いていないスープを飲んでいるような感じです。酒の肴にスルメ柿の種を食べるのか、オリーブを食べるのか、という違いかもしれません。

 世界音楽食文化をくらべれば、地域的に、共通する線引きができるような気がしています。



以前、ドイツタクシーに乗った時、私が日本から来たと言うと、運転手が、なぜか中島みゆきのCDをかけてくれたことがあります。その運転手はトルコ系だったのですが、彼曰く、彼はトルコ系なので日本音楽メロディーがなじむのだ、ということで、どこかで入手したCDを気に入ってそのまま聞いているそうです。

 そのあと、トルコに出張した際、TVでおじさんおばさん向けの大衆音楽番組をやっていたので、ずっと聞いていたのですが、日本音楽とはかなり感覚が違うなあ、と感じました。ただし、西欧音楽とは違う節回しと音階がありましたので、彼らは、東アジア圏と西欧圏の間にいるのかもしれません。 

 いつか世界大衆音楽について、マップを描いてみたいものです。

 

2013-01-05

「個を動かす 新浪剛史 ローソン作り直しの10年」 池田信太朗著 を読む

| 01:50 | 「個を動かす 新浪剛史 ローソン作り直しの10年」 池田信太朗著 を読むのブックマークコメント

 正月休みで時間ができたので、夏休み以来、久々にこのブログアップデートします。 

 2010年〜11年ごろには、本を読むたびに、記録がてら感想文などを書きこんでいたのですが、昨年は職場組織変更等で仕事負担が増え、すっかりブログを書く時間がとれなくなってしまいました。

 

 さて、「コンビニ」という、日本で独自に進化を遂げた業界については、以前から興味があり、ずいぶん前にも、セブンイレブンに関するこんな本を読んで文章を書いたことがあります。↓

「セブン・イレブンの仕事術 一兵卒のビジネス戦記」 岩本浩治著



f:id:santosh:20130106013123j:image:right 今日の本は、コンビニ業界不動のNo.1で、常に研究対象とされている「セブンイレブン」についてではなく、業界2位の「ローソン」と、その社長である新浪剛史氏の、この10年間の取り組みを分析した本です。

 新浪氏の行ってきた取り組みは、単に先行するセブンイレブンの後追いではなく、実は「コンビニ」の定義自体を変えてしまうような、まったく独自の戦略ストーリーによるものでした。この本では、そのストーリーを構成する各要素について、象徴的で具体的な事例の紹介から、その背景となる考え、さらにそれら各要素が結びついた大きなストーリーの全貌、までをキーパーソンへの取材を通じて解き明かしていきます。

 さすが「日経ビジネス記者の方が書かれているだけあって、構成やストーリーはたいへんわかりやすく、読みやすい本です。


 よく世間で紹介されているセブンイレブンの勝ちパターンとは、以下のようなものだと思います。

POSシステムを活用した単品レベルでの販売管理

○本部主導の商品政策と、フィールドカウンセラーによる販売施策現場への徹底

現場の各店舗レベルで仮説・検証プロセスを繰り返す発注業務

ドミナント出店と効率的物流・配送システムの追求

○加えて、上記を徹底してやり抜くこと


 これに対して、この本で書かれているローソンの目指す方向性はまるで異なっています。

○それぞれ異なる顧客=「個客」に対応するのが第一目的。

○そのために店舗は画一である必要はなく、個客に合わせて多様性をもたせる。

  (生鮮食品の取り扱いやタイアップ店など、店舗フォーマットもバラバラ、ブランドの色まで違っていたりする)

現場での顧客との密なコミュニケーションを実現するため、本部から支店や加盟店へ権限を委譲。

 (商品開発や、店のフォーマットまで支店単位に権限があり)

○本部は、個客の消費を把握するため、「会員カード」によって入手したビッグデータ分析を行い、より高精度の商品開発や生産計画を実施

 (「会員カード」では、POSデータではカバーできないリピート購買の状況や、詳細な顧客属性分析が可能。素人の各店舗に仮説・検証をやらせるよりも、こうしたデータプロ分析することによって本部主導による自動発注を目指す)


 これらの内容は、セブンイレブンの思想とは正反対ともいえるようなものですが、この本を読んでいくと、「個客」に対応するという目的のもとに、全体が一つのストーリーにまとまっていることがわかってきます。


 セブンイレブンのやり方は、本部では、データ分析に基づいた全国一律の商品政策と、効率を追求した仕組みづくりを追求、現場店舗では販売の最大化とロスの最小化のため、仮説・検証による日々の販売予測に命をかけさせます。

 一方、ローソンは、現場へ権限移譲することにより多様化する個客へのフレキシブルな対応に強みを持つことを狙い、小さな本部は、大きな仕組みづくりを通じてCRMSCMの推進に集中しようとしています。

 その中で、今までコンビニ経営の「キモ」とされていた「発注業務」について、ローソンは、本部主体での発注提案、個店は一部の調整以外は自動発注化、という形を目指していることは、セブンイレブンとの比較において非常に面白い事例です。

 後追いのプレーヤーだったローソンには、セブンイレブンと同じ戦略では常に勝てない、という現実がありました。それを踏まえたうえで、自分たちのリソース(それが好むと好まざるとを限らず)を使って、どこで勝負すべきなのか、を試行錯誤し、新浪体制のもと10年近い時間をかけて、今の戦略ストーリーを形作ってきたようです。

 ローソンは、セブンイレブンとは異なる形態の「コンビニ」を、RE-INVENTしようとしているのでしょう。


 しかし私には、この本を読んだ限りにおいては、まだローソン戦略は、セブンイレブンのものほどには、切れ味が良くないように感じられます。

 もしかするとそれは、新浪氏自身が述べているとおり、戦略の全貌や「キモ」をディスクローズせず、競合を煙に巻こうとしているためなのかも知れません。

 今後、コンビニ業界での勝負がどうなっていくのか、興味深いところです。

 

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 私個人の印象としては、機械のように冷たい感じのするセブンイレブンよりも、人間のファジーさを感じさせるローソンの方が、買い物先としては行きたくなる感じがします。

 コンビニでの買い物が、単なる利便性の追求ならば、言い換えれば、コンビニが単なる品物の「配給所」のような機能を期待されているのならば、セブンイレブン方向性は最強ではないかと思います。

 しかし、買い物には、たとえ日常の買回り品であろうとも「感性」の要素があります。

 「楽しさ」のない買い物は実に味気がありません。

 その点で、ローソン方向性には共感できるものがあるのです。

 

2012-09-13

いま、尖閣問題が熱い  中国は戦前の日本の道をすすむ?

| 00:43 | いま、尖閣問題が熱い  中国は戦前の日本の道をすすむ?のブックマークコメント

 ここのところ、お騒がせ李明博さんのおかげで韓国との「竹島」をめぐる領土問題が過熱していましたが、ここにきて今度は、中国との間の「尖閣」問題がずいぶんと熱くなってきたようです。

 中国では、日本人が殴られたり、なんと、ラーメンを顔にかけられたりしているとか。


 ますます戦前の状況と似てきました。

 戦前日本も、中国での日本人に対する無法な迫害への対応として、中国出兵した経緯があったと聞いています。

当時の日本は、そうした無法行為にいらだつ国民の声と、さらにそれを煽る朝日新聞マスコミの論調の相乗効果に逆らえず、中国に対して強硬な態度を示さざるを得なくなり、それがさらに中国からの反作用を招く、というドツボのスパイラルに嵌いり、ずるずると戦争に流れ込んでいったわけです。



 今回は、当時とは反対に、中国が当時の日本役割を演じています。

 既にドツボのスパイラルに入ってしまった中国は、今後日本が譲歩しない限り、自らの愛国教育洗脳してしまった民衆の声を抑えることはできず、日本との小競り合いなどの戦争に入らざるをえないでしょう。


今の中国は、戦前からあまり変わらない民衆の野蛮さに加え、国レベルでも戦前日本と同様に、新興国としての野蛮さ・横暴さがプラスされ、まさに手のつけられない無敵な存在になっています。

 中国のひとたちは、日本のことを「日本鬼子」と呼ぶのですが、今の中国存在こそ、世界では「鬼っ子」だよな、と感じます。



 世界先進国が共有している現代感覚価値観とは異なる、ずいぶんと昔の帝国時代感覚をひきずった異質な国が、突然、物理的な力を持ち発言力を持つようになる。 戦前日本はまさにそうした存在だったわけですが、こうした感覚は、かつてのヨーロッパのひとたちも、ロシアソ連存在に対して持っていたのかもしれません。


 ちょうど2年前に書いた拙文です。 

 ↓

 「昭和史」 〜 中国は、戦前の日本と同じ道を進んでいる


 この時より状況は悪くなっている感じです。

 

 いったいどこまで行くのでしょうか?

 

 我々は、歴史から何も学んでいないのかもしれません。


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2012-08-16

「グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる 」 倉本由香利著 を読む

| 18:53 | 「グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる 」 倉本由香利著 を読むのブックマークコメント

 待ちに待った夏休み、実に久々にブログ更新します。

 前回書いたのは、GWでしたので、このペースだと次回はお正月休みでしょうか?

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 ここのところあまりに忙しくて、家では本を読む気力すら無くしていたほどでした。ましてやプライベートで文章を書く気力・体力などまるでありませんでした。

 この本も、買ったままずっとそのままになっていたのですが、この夏休みプールサイド日光浴しながら、やっと読み終えることができました。

 

 まず、この本を読んで感じたのは、話の骨子・枠組みがよく整理されていること。いろいろな本を読んでいると、いまいち全体の構成がわかりにくかったり、ロジックの流れがつながっていなかったり、といった本にあたることも多いのですが、この本は、そういうあいまいさがありません。はじめから明確な構成にもとづいて書いたのだな、ということがわかります。

 内容についても、隙がありません。読んでいる途中で疑問に思う点がいくつか出てきてはいたのですが、読み進めば、それらの大部分に対して、ぬかりなく説明や答えが提示されていました。

 まさに「漏れなく、ダブりなく」書かれた本だなあ、という印象です。

 また、基本ストーリー以外に、著者の考える具体的な施策の例もちりばめられており、この失われた20年間で多くの日本企業の業績が低迷する中、日本の強みを活かし日本企業を強くしたいという、著者のひとりの日本人としての強い思いも感じられる本です。



■この本を読んで、「ああ、そういうこと!」とあらためて気付かされた点がいくつかありますので、書いておきます。


1)日本の「グローバル化」には、3つの波があるということ。

 一つ目のグローバル化の波は、「販売のグローバル化

  〜明治時代から高度成長期にかけて、日本製品を直接海外で販売するためにおこった販売機能物流機能グローバル化

 二つ目のグローバル化の波は、「生産グローバル化

  〜80年代から本格化した、貿易摩擦や円高への対応として生産工程ソフトウエアなど労働集約的な過程を海外移転する動き。

 三つ目のグローバル化の波が、「組織グローバル化

  〜新興国市場の拡大に対応し、外国人をとりこみ、研究開発・経営など付加価値の高いプロセスグローバル化する動き。これからはこの新たなグローバル化に対応していかねばならない。


 このように整理されると、今まで漠然と使っていたグローバル化という言葉意味する範囲が、明確に輪郭を持ってきます。


2)グローバル化した組織においては、組織を「グローバル部門」と「ローカル部門」の二本立てにし、それぞれ別な業績評価基準で運営していくべきだということ。

 またそこで働く人たちは、「グローバルエリート」「ローカルスペシャリスト」「ローカルサポーター」に、役割と評価基準を明確化されるということ。 


 これが『イノベーションのジレンマ』で述べられていた、既存事業にとっての最適な経営判断が新規事業にとって足かせとなる、という普遍的なジレンマの解決策にもなるという考えです。

 かつての日本の多くの製造業では、国内既存事業をメインに推進するメーカー本体に対して、「商社」が、実は「グローバル部門」の役割を担ってきた、という指摘はまさに目から鱗で、腑に落ちる話です。

 また、組織グローバル化を果たした将来の日本企業イメージを、2025年架空企業「A社」の具体事例として説明する手法は、具体的に著者の言わんとすることがイメージできて、実に良い手法だな、と感じました。

 


■次にひとつ疑問に思ったことを書いておきます。

 以下の点は、著者の語るストーリーの本題からは少し外れてはいるのですが、実際に、グローバルエリートになれず、日々苦戦しながら仕事をしている私自身が、日ごろ直面し答えを模索していることでもあります。



 この本は、グローバル化において求められる組織や人といった枠組みの話が中心ですが、結局、企業が勝っていくためには、どこで何で突き抜けるのか、という経営戦略の話になってきます。

 その方向性の例として、著者は、こだわりの製造技術や、おもてなしサービス業といった例を挙げているのですがが(これはあくまでなぜ日本人がなぜそうしたグローバル企業においてメインプレーヤーになりうるのか、という文脈で出てきている話なのですが)、こうした方向性差別化して勝つということと、著者のイメージする「グローバル組織」のあり方が矛盾しないのかについては、疑問を感じています。

 著者は、日本人が強みをもつ製造技術を活かし、これをグローバルエリートが、明文化して、論理的にさまざまな地域の人達に説明・訓練していくことによって、「日本の文化的背景に基づく製造業の強みを、グローバル組織競争優位性に変えていく」ことができる、と述べています。

 私がいつも疑問に感じているのは、こうした強みは、著者も指摘するように日本の「文化的」背景に根差しているがゆえに、たとえ「見える化」し、マニュアル化したとしても果たして著者のイメージするレベルまでグローバル展開することが、本当にできるのだろうか、ということです。

 日本製造業そしてサービス業における強み(また弱みにもなりえますが)は、仕上げの細かさ・完璧さへの追及などもありますが、ただマニュアル化されたものに従うのではなく、現場が、自ら判断し、状況に合わせ、周囲と自律的に調整しながら、日々改善を行っていくところにあります。

 製造業では、これが「カイゼン」という言葉概念化されていますし、サービス業では、セブンイレブンの「仮説・検証」などがそうでしょう。

 

 私自身、海外のひとたちと仕事をする上で感じるのは、こうした発想は、きわめて日本文化、また日本社会に根差した考え方のため、海外のひとたちには理解させることが非常に困難である、ということです。東アジアのひとたちならば、まだ可能性があるのかなとは思いますが、欧米の人達に理解させることはそう一筋縄にはいかないでしょう。

 ものづくりという点では、日本の対極としてドイツものづくりがありますが、彼らのものづくりへの思想、プロセスといったものは、日本ものづくりとはまるで異なります。正反対といっていいかもしれません。しかし、彼らのやり方の方が、日本のやり方よりグローバル展開には適しているようにも見えます。

 

 これは「経営理念」の共有というレベルではなく、もっと土着的な、文化的な問題だと思います。

 

 トヨタコマツのような企業はそれをすすめているということですが、実際にはどこまでできているのでしょうか? 単に仕組みづくりや方針だけではなく、各国のローカルオペレーション現場まで風土として落とし込まれているのでしょうか?

 セブンイレブンは、日本ではあれほど「仮説検証」の考え方の徹底と、それを実現するシステムづくりをすすめ、それを競争力の根源にしてきましたが、それは海外店舗においては、適用できているのでしょうか? アメリカセブンイレブンの店長は、いろいろなパラメーターを設定しながら自分で販売予測をたて、日々発注し、日々その検証をしているのでしょうか?


 これは単に私の疑問ですので、きちんとやればできるものなのかも知れません。ただし、「2025年のA社」の姿にまで持っていくためには、単に、「明文化して、論理的に説明する」、というレベルの一般論ではなく、もっと本質的でぐさっと刺さるアクションが必要であるように考えています。

 それが何なのかはわからないのですが、この本のストーリーを実際に実現して競争力のある企業をつくるためには、そこが一番のポイントであるように、私は感じました。


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 バラバラと書いてきましたが、この本は、「組織・人」の面に関して、実によくまとまられた本です。

 これに、実際の個別の事業において、どこで何で勝つのかという軸を組み合わせたときに、どのような具体的な最適解がありうるのか、これを考えていかねばならないなあ、とビーチサイドでつらつら考えた次第でした。



 タイ カオラックの、SAROJIN HOTELにて。