『ヨブ記』考

来日公演に来ていたネグリの本を検索してみると、獄中に旧約聖書ヨブ記』に向き合い、『ヨブ 奴隷の力』という本を書いていることを知った。革命的な社会運動を行い、名を馳せた思想家というイメージからは意外ではあったが、「ほう、ネグリ君は、そういうところまで追いつめられて、その場所から立ち上がってきたのか」と、非常に興味深く思った。救いをもたらすための聖書の中の書のひとつにもかかわらず、善人に襲い掛かる無慈悲な運命を描いた『ヨブ記』は、私も、いつかはしっかり読んでみたいと思っていたので、また、約60ページ程度の短いものでもあるので、週末の2日を使って読んでみた。
 ユダヤ教キリスト教の神概念とかの理屈は抜きにして、この書の中で、「神」という観念によって指し示されているものは、大自然を動かしているものであり、かつ、人間の歴史、栄枯盛衰を動かし、司っているものでもある。その主体が、「主」と人格化され語られる。これを、日本語でいえば、「海の神、山の神、八百万の神」から、「勝利の女神、幸運の女神、病気や不運の厄病神」まで、こういうものすべてが、「主」を主語として語られる。この主は、創造主につきるものではなく、創造した後に養うもの、あるいは滅ぼすものでもあり、日本神道の「神」にも通じるのではないかと思われた。この中でも、「祟る神」が、ヨブ記では主題となる。
 最初に、なぜ、善人ヨブに神が祟るのか、その事の起こりが書かれていて、興味深い。サタンが、「主」をそそのかして、神が祟るわけであるが、この部分は面白いので、ちょっとだけ引用する。ヨブのその後の不幸、苦しみと比較すると、あまりにも軽く、サタンのささやきに「主」が動いてしまう。「ただし、彼には手を出すな」という一線は超えないようにして。



1:6ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来てその中にいた。
1:7主は言われた、「お前はどこから来た。」サタンは主に答えて言った、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩き回っていました」とサタンは答えた。
1:8主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕、ヨブに気づいたか。地上に、彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」
1:9サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
1:10あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お蔭で、彼の家畜は、その地に溢れるほどです。
1:11ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
1:12主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前の所いいようにしてみるがよい。ただし彼には手をだすな。」サタンは主のもとから出て行った。



ここで、サタンは、地上を巡回し、神に報告する部下のような役割をしているが、さらに、主の許可を得て、不幸をもたらす実行部隊にもなっている。メフィストフェレスを彷彿とさせる語り方をしていると思ったのだが、松岡正剛の千夜千冊 『ヨブ記』の項をみると、次のような文があった。
http://1000ya.isis.ne.jp/0487.html
「文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも共通する深さをもつ問題を鋭く提示しているところというと、なんといっても『ヨブ記』なのである。ゲーテはこれをもとに『ファウスト』を発想したし、ドストエフスキーはここから『カラマゾフの兄弟』全巻を構想した。」
 つまり主の問いに応じて、「ほうぼうを歩き回っていました」というサタンが「ファウストメフィストフェレスのモデルの当人なのである。

 この『ヨブ記』は、それぞれの人が、不条理な思いを抱かざるをえない苦難に遭遇したときに、どこに「神」を置くのか。「お上」なのか、「上さん」なのか、あるいは「上司」「社長」なのか、「裁判長」なのか、「民意」なのか、「お客様」なのか、はたまた「マスコミ」なのか、そういうように、各自の状況に合わせて、読んでみることもできる。ただし、ヨブ記での「神」は、最終場面で、ご本人が「主」として登場して語る所によると、空間的、時間的に無限な領域をつかさどっている主体としてあらわれるので、お上やかみさん、上司、社長、裁判長、あるいは国民、顧客、マスコミ体制など、それぞれが、生まれる前からあり、生きているうちにもあり、死んだ後もあるような、宇宙の果ての沈黙の中にもあるような、そういう主体である。
 ヨブ記では、「神」と人との関係は、結局、一方的なままであったが、最終的な解決に至る前に、ヨブは神を前にして、渾身の訴えを放つ。サタンにそそのかされた「神」の試すような「祟り」に対して、ヨブは、自分に落ち度はないのに、なぜこのような目にあわせるのか、友も皆、自分の犯した罪の報いだと言ってくるが、そんなことはないのだと、「神」への異議申し立てを行うのである。沈黙しつづける神に対する、このヨブの神への直訴、悲訴というべき部分が、ヨブ記の、ひとつのクライマックスをなしている。


31:35 どうか、わたしのいうことを聞いてください。
    見よ、わたしはここに署名する。
    全能者よ、答えてください。
    わたしと争うものが書いた告訴状を
    わたしはしかと肩に担い
    冠のようにして頭に結び付けよう。
    わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し
    君主のように彼と対決しよう。


 
 この、ヨブの悲訴に対して、これまで年長のヨブと友人との対話を長らく聞いていた若者エリフが、「腹の内で霊がわたしを駆り立てている」とさらに畳み掛けるように、「ヨブよ、神を畏れぬのか」と、長い説教を垂れだす。ただし、これまでの友人が、ヨブが隠れて罪を犯していた報いだ、主は正しいのだと言い募るのとは、また別の、ちょっと転調した調子になってくることに気づく。神の業への人の知の及ばなさを認めよ、といった無知の知を知れといったテーマである。また、イメージの流として自然に、そのテーマとともに、光の象徴が出現する。



37:19 神になんと申し上げるべきかをわたしたちに言ってみよ。
   暗黒を前にして 私たちに何の申立てができようか。
   わたしが話したとしても神に対して説明になるだろうか。
   人間が何か言ったところで、神が言い負かされるだろうか。
   今、光は見えないが それは雲の中に輝いている
   やがて風が吹き雲を払うと 北から黄金の光が射し
   恐るべき輝きが神を包むだろう
   全能者をみいだすことはわたしたちにはできない
   神はすぐれた力をもって治めておられる
   憐み深い人を苦しめることはなさらない
   それゆえ、人は神を畏れ敬う 
   人の知恵はすべて顧みるに値しない



 この後に、「主」が嵐の中からあらわれ、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ。」という台詞を皮切りに、ヨブに対して、自分のわざ、力を述べたててゆく。最後のダメ押しに、「ベヘモット」と「レビヤタン」という獰猛な怪獣を描写して語りだす。脅しあげるように、その生き物の脅威を語っている。ちなみに、この「レビヤタン」が、ホッブスの『リヴァイアサン』につながっている。
 現代においては、核の生み出す莫大なエネルギーであり、兵器として利用されたときの破壊力が、この世のレビヤタンをイメージさせる。それを唯一実行したアメリカが、この世の限られた人間社会での「お上」として君臨しているが、「主」から言わせれば、核エネルギーは、太陽において、朝飯前、24時間、365日、無料で放出しており、地球の生きとし生ける者、大気海洋循環、気候変動をつかさどっていると、主張されるだろう。これは、地球にとっては「コモンズ」でもある。脱線したが、本来は、ヨブ記でのベヘモットレビヤタンは、人知を絶する宇宙的な創造力や破壊力の世界を、いかに人に知らしめるかというために出てきたものであり、この世の為政者の持つ軍隊の脅威を象徴したものではない。
 結局、ヨブは、この「主」の堂々とした登場を前に、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」と、自分の直訴を完全に引っ込める。そして、最後に「あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます」とのべ、主とヨブとの間の関係性が、新たにされてゆく。それは、不条理な災難にこれでもかこれでもかと襲われながらも、主の再臨を前に、別次元での不動の畏敬を抱き続けるという形になってゆく。そして、それが、ヨブの神の祟りからの解放への鍵となっている。「主は、その後のヨブを以前にも増して祝福された」というハッピーエンドである。これは、結局は、旧約的な解決音であるが、この課題は、イエスには十字架として与えられ、それへの答えが新約福音書であり、ユングは『ヨブへの答え』、さらにネグリは『ヨブ 奴隷の力』ということになるのだろうと思う。
 追加的に、最後の結びで、「主」は、不遇を嘆くヨブに対し「それは、お前が、どこかで罪を犯した報いなのだ、主の裁きに間違いがあるはずはない」と、責め立てた3人の友に対して、「お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかった」と怒りを示している。この3人とは異なり、前に述べたように、若者「エリフ」は、ヨブの災いを因果応報だと攻め立てず、神の業については人知など及ばないのだ、妙な憶測で主に異議申し立てをせず、その意志の根本的な「善さ」を信じろと述べていた。この「主」の視点は意外と参考になる。不条理な不幸に立て続けに見舞われている人に対して、その人の自己責任だ、因果応報だ、過去世の報いだと分かったように小ざかしく説明するのではなく、その人に与えられた、未だその意味がはっきりとはしないが、その人において「主」が、なにかを実現するための、なんらかの試練なのだと、より前向きに捉えるヒントになる。多分、そのような捉え方の中に、むしろ「光」が差し込む隙をつくり、状況を好転させる種があるのだろう。ただし、ここで実現される何かは、イエスが示そうとしたように、「個」を超えた価値になる時もあるのかもしれない。


 今回、ヨブ記を、本気で読みながら、自分の中での問題と思い合わせ、抗い、嘆き、怖れを経たところで、ある種、別の、静かでしっかりとした、場所がうまれてくることを感じた。『ヨブ記』は、それぞれの人に与えられた、病死、無常、不条理とどう向き合うか、真摯な仏教の経典、こういってもよければ、臨床仏教経典でもある。そうみると、ここには、ある種の諦めと救いがのべられているといえる。しかし、諦めのポイントが、非常に重要であり、それは、その個人が「神」をいつ、どこにみるのかが、決定的な鍵になる。仏教でもよく感じるのだが、「諦め」は、「明らめ」と表裏一体を為しているということである。釈迦は「見性」を得た末に諦めを語り始めたのだろうと思う。これを見誤ると、マルクスが、宗教を奴隷に与えられる阿片になぞらえ、ニーチェキリスト教を敗北者のルサンチマンとして嘲笑したような、そういう慣習的な宗教的態度に堕してしまう。しかし、慣習を離れた所で、個々人の中に、どこかでヌミノースなものがともない、ヨブのように、神をみた後での、ある種の真正の転回が生じる場合があると思う。本来的な宗教体験だが、これは、実存的な、存在と「現」(これは「Da」でもあるし「喝」でもある)でつながるという意味での現存在的な、問題系列になるのだと思う。だから、マルクスを越えようとしているネグリが、あえて旧約聖書ヨブ記』をとりあげ、「奴隷の力」と題したのには、力強い意味があると感じる。ヨブは、神を見たのちに、逆接的な超越のダイナミズムをつかんだという点で、マルクスニーチェを越えているのだ。これは、実は、投獄されたネグリ自身の「現存在」の問題でもあっただろう。自分の分を知り受け、かつ、神とともにサタンをも見据えてたじろがなくなる所。偉大な所だ。


P.S. ヨブが、自分の不遇を「主」に抗議する奴隷のままなのか、それとも、「主」との新たな関係性の中で、逆説的な超越のダイナミズムの中に生き始めるのか。これが、天下の分かれ目になる。
 イスラエルの民は、エジプトに捕囚されていたが、そこから逃れてゆく過程で、モーゼが十戒を授かり、それに沿って社会を築き繁栄していった。イエスは、律法学者に微罪で責め立てられ、百人隊長に十字架にて捕囚されたが、その彼の最後の「舞台」で、彼の生き様を貫き通し、その後の復活を信仰対象とするキリスト教をなすにいたった。ネグリもイタリアにてクーデターを起こそうとしたという罪で投獄されたが、彼は刑期満了後、『帝国』を著し、マルティチュードとコモンという帝国への対立軸を示し、自ら実践して説いて回った。ユングは、宗教や神話からヌミノース体験を取り出し、それに沿った生き様を、「個性化過程」として、フロイトによって記述された「自我の便所」的な無意識イメージを、創造的に評価しなおした。
 ここで、エジプトやファリサイ派などの律法学者、イタリアや、形骸化した既成宗教・フロイト精神分析などが、その「世の中の限定的主」であり、彼らが、そことの隷属的関係を超越していって、内在する論理を徹底して展開する中で、新たな世の在り方をつくりだす契機となる真摯な体験が、それぞれの舞台においてあるのだと思う。こういうことを司っているのが、ヨブ記的な、本来的な「世を超えてある主」なのであろう。これは、進化と創造の最先端であり、それだけ、危険な領域でもある。獄中で死んだ革命家も多くいただろうし、病に巻き込まれた思想家もいただろう。大学教員900人余りが帝国の産物TPPに反対して立ち上がったように、こういう問いが、平和ボケしていた日本人にとっても他人事ではなくなってきていると思う。