明日へのメモランダム

2015-04-19 8時間労働制の立役者としてのマルクス

[] 20:16

 昨年の今頃、NHKラジオ第2で『思想史の中のマルクス』という講座をやっていた。本来、マルクスヘーゲル系の哲学者であり、経済学者ではないはずだ、彼を経済学的ではなく思想史的なところから、理解しておくべきではないかと、以前より思っていたので、自分にとっては非常に興味深い内容にみえ、本屋でテキストを買って、後半部分から聴講した。講師は、鈴木直氏。マルクス入門としては、わかりやすく、最適なものだったと今でも思う。彼は、東京経済大学教授で、筑摩書房の「マルクスコレクション」で資本論を訳している。が、専門は、経済学ではなく、ドイツ思想史となっており、期待どおり、ヘーゲルの流れから、いかに、マルクスが目前に広がる悲惨な現実のからくりを説明する概念を獲得するにいたったかという点から、話してくれた。


 マルクス時代に起きていた問題と、同じような対立構造から生まれるような問題が、現在でもおきている。労働組合形骸化派遣労働者常態化、さらに、昨年から再び話題になっている原則8時間労働制の条件付き撤廃、最たる例は、いわゆるブラック企業の跋扈だが、全体の流れは、多くの論者も指摘するように、原始的な資本主義社会に、回帰しつつある方向にある。その極点ともいえるTPPに至っては、多国籍企業家が、農協、皆医療保険などの共助的な国内組織や、あるいは商品の安全基準、食糧自給目標、最終的には「国家」の法を含むが、これらを「規制に守られている既得権益」と糾弾して、ドリルで穴をボコボコ開け始めるまでにいたりうる。これは、どの程度の人が気付いているかわからないが、共産主義とは、まったく正反対の形の、資本家群による国民主権制に対する「革命」といってもいいものである。


東洋経済 関連記事】

今の年収1千万以上限定で同意の上での残業代ゼロ法案が、そもそも、どういう要請、理念から発しているのか、その方向性はなんなのか、詳細に報告している。


「ヒラ社員も残業代ゼロ」構想の全内幕

http://toyokeizai.net/articles/-/38399

   官製ベア・残業代ゼロ・解雇解禁の「点と線」

   風間 直樹 :東洋経済 編集局記者

「この場で関係者に示された長谷川ペーパーの「原案」には、あいまいさのかけらもなかった。現在の労働時間制度は工場労働者を想定した仕組みであり、ホワイトカラーには適さない、それに代わる新たな労働時間制度として「スマートワーク」なるものを創設するというものだ。このスマートワークでは、対象者の範囲に業務や地位の限定を設けず、本人の同意と労使の合意に委ねることで、幅広い労働者の利用を可能にするとしている。実際そこで図示された対象者のゾーンには、「ヒラ社員」の最末端、つまり新入社員まで含まれている。本人の同意と労使合意さえあれば、どんな業務内容の新入社員でも労働時間規制が及ばず、残業代なし、深夜・休日割り増しなしで働かせることができる。」


 マルクスが、フランス人権宣言の中の光の裏にある影をみていたというのは、この講座をきいての発見であった。個人の王権からの解放と、自由人権の謳歌は、一方では、「自分の利益を最大化してゆく経済学主体」という、潜在的共同体生態系バランスを無視するに至るエゴイストが、堂々と、倫理的瑕疵なく、社会の主役として登場できる場所が確保されるようになったということだ。それが、資本家、企業家の自由人権と、プロレタリアート自由人権の相剋という社会経済的な問題となって結実していく。フランスに遅れて民主主義革命を臨んでいたドイツの中で、マルクスは、目前にひろがるこの問題の、根本的な構造を追及するために、哲学的頭脳をもちながらも、哲学から一歩踏み出して、「商品」「市場交換」「労働力商品化」「物象化」「物神性」「価値」「資本」などの経済学的な概念を徹底的に深めていった。「ライン新聞」の一編集者であった彼の目の中には、農村や家業を追われ、自らの歴史的資産を奪われた労働者側の自由人権を確立するためには、どうすればいいのかという主題が、もともとの研究動機としてあったということだ。フランス人権宣言に匹敵する内容のものを、ドイツの思想の蓄積の中から、より根本的原理的に、つくろうとしていたというところは、この講座を聴講して、はじめて知った視点であった。少し引用しておきたい。


テキストp63

「市民であれば、自らの家族、伝統、文化、共同体を通じて自分の存在を確認し、主張することができます。しかし、農村を追われ、共同体の一員となれないままに都市の下層労働者と化した人々は、そうした歴史的資産をいっさい奪われています。『歴史的な資格に訴えることができないゆえに、人間としての資格に訴える以外にない階層・・・プロレタリアート』彼らは、みずから抽象的存在であるがゆけに、「人間」という抽象的普遍性に訴えるほかないのだ、とマルクスは言うのです」


物事を徹底しなければ気の済まないドイツに革命(引用者注 フランスで起きたような市民革命に匹敵するもの)を起こすには、革命もまた根底から行うほかはない。ドイツ人の解放は人間の解放なのである。この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである」


テキストp67

マルクスドイツ哲学ドイツの現実との連関を、あるいは自らの批判と自らの物質的環境との連関を問おうとする哲学者は誰もいなかった」

ヘーゲル左派はもともと、ヘーゲル哲学観念論的な残滓批判することから出発したはずでした。ところが彼らの内部議論は、ある意味ではヘーゲルよりもさらに観念論的に退行していました。それは、ヘーゲルにはまだ存在していた経済社会についての批判的分析が欠落していたからです。マルクスエンゲルスからみれば、今や空中楼閣に対置されるべきは、生産と交易を通じて対立を産出し続ける市民社会経済的運動でした」



 このテキストの中から、ひとつ、現代日本に通じる問題と、同じ問題にマルクスが向き合っていた例として、74頁に引用されている、資本論第一巻第8章の労働日についての章の一句を引用してみる。JR西日本福知山線脱線事故と、まったく同じ構造の問題が書かれている。


「一つの鉄道大事故が何百人もの乗客をあの世に送り届けた。鉄道労働者たちの不注意がこの事故の原因だった。彼らは異口同音に陪審員たちの前でこう説明する。10年から12年前までは、自分たちの仕事は一日8時間にすぎませんでした。ここ5,6年の間にそれが14時間、18時間、20時間に延長され、行楽列車の時期には労働時間は中断なく40時間から50時間になることがよくあります。私たちとて普通の人間にかわりなく、超人ではありません。ある時点が来ると自分たちの労働力は支障をきたすようになるのです。麻痺が自分たちを襲います。頭は考えることをやめ、目は見ることをやめてしまいます、と。申し分ないほどに『立派なイギリス陪審員たち』は彼らを『殺人』のかどで陪審裁判に送るという判決をもってこれに答えた」


 マルクスが考えたのは、この現実の構造なのである。共産主義はまた別の問題を引き起こしたが、彼の資本主義批判は、現代の労働者階級の人々、つまり賃金労働者である正規、非正規を問わずのサラリーマンが、いやな歴史を繰り返さないためにも、是非、理解されるべき概念に満ちていると思う。今、歴史的にはマルクスの主張にも沿って導入した8時間労働という、労働者を守るための「岩盤規制」に、安倍のドリルが容赦なくハリの穴をあけ始めてた。現政権は、基本的に、労働者の安全よりも、会社の利益を、さらに投資家受けを、できうる限り上限化したがるような支持勢力を持つ政権だから、こういう流れは続いてゆくだろうと思う。この8時間労働制の立役者の一人としてマルクスがいることが、どの新聞にも論評されていないのが不思議だが、資本論刊行前年の1866年8月、国際労働者協会の文書で、彼はこういっている。(大月書店『賃労働と資本』p32より引用)


「労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるを得ない先決条件である。それは、労働者階級、すなわち各国民の多数者の健康と体力を回復するためにも、また、この労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動もたずさわる可能性を保障するためにも、是非とも必要である。われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する」


 これで、どれだけの労働者が守られ救われてきたか。この論理自体には、共産主義は関係はない。私は、人権自由を価値として訴える者が、それを経済学的な方向から深めて考察したマルクスを、むやみに否定するのが、今一つよくわからない。彼の業績を批判的に継承することが、資本主義と呼ばれている、競争的な原理の働かざるを得ない貨幣を介した市場経済を、人間社会が受け入れてゆく上では必須であるだろうと思っている。マルクスを忘却することは、ノイマンが『意識の起源史』の巻頭言としてあげた、ゲーテの「三千年の歴史から学ぶことのできぬ者は、無知のまま闇にとどまり、その日暮らしをするがよい」という警句そのものの現実に、人間社会が襲われることにつながるだろうと思う。

2013-06-19 Capitalist loved Nazism

[]Capitalist loved Nazism 23:11

ワタミ会長・わたなべ美樹の名言bot‏@watamismで、「365日24時間、死ぬまで働け。」という、これだけ取り出すと犯罪的なほどに過酷な発言が、ツイッターで出回っていた。最近wikipediaアウシュビッツ収容所を確認したことがあり、その中の写真にある「ARBEIT MACHT FREI」という標語が、まさしく、この「365日24時間、死ぬまで働け。」に直結するものではないかと、直観した。

アウシュビッツ第一強制収容所の入口看板「ARBEIT MACHT FREI」 (働けば自由になる)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Auschwitz_entrance.JPG

 

  「ドイツ資本主義ナチズム」田野慶子(『資本主義はどこに行くのか』東京大学出版 三和良一他編)というのがあり、私の直観は、単なる思い付きのレベルにとどまるものではない、なにか、いけない本質に触れるようなものといっていいレベルのものがあるように思っている。タガの外れた資本主義が、ナチズムと区別がつかなくなる現象を、ヒトの経済現象の病の明確なパターンの一つとして、しっかりつかんでおく必要があると思う。以下、論文から引用した文章と、私がちょっとした注をあわせてツィートしたものをまとめておく。米国が、というよりも米国を中心とした多国籍大企業群が、非民主主義的な手段により強行しているTPPというものの本質が、歴史的にはどのように考察できるのか、一つの材料にもなると思う。 



1.「ナチスの政策により、ベンツ社の売上高は急速にのび」「戦時期の生産拡大は、多数の外国人労働者、戦争捕虜強制収容所収容者による強制労働にささえられていた」


2.「ドイツの銀行がユダヤ人の企業を非ユダヤ人の所有に移し変える際に大きな利益を上げていた」「こうしたドイツ企業のあり方は、ホロコーストに象徴される反ユダヤ主義を、企業経営の面で実践していたとされている」


3.「軍部や、官僚の中には、ナチスに対する抵抗の動きがあったにもかかわらず、企業家や経済界においてそうした動向が一切存在しなかったという点である」 

これが非常に大きな歴史的事実である。利潤を目指す経済界の場からは、歴史的に、人道尊重が駆逐される傾向があるということである。今でいえば、TPPがまさにそれだ。TPPは、ホロコーストに象徴される反ユダヤ主義ではなく、グローバリゼーションに象徴される汎アメリカ主義である。TPPの名のもとに虐殺されるのは、人ではないが、ローカルな法秩序や国民の権利、さらに、国家の統合性と尊厳である。


4.「ナチス体制下の加害者としての活動が企業利潤の増大をもたらし、第二次大戦後の各企業は、そうした利潤を基盤として成長していったという事実である」

 マルクスなら、こういうのも、原始的蓄積過程というのではないか。企業活動、つまり、「安く買って高く売る」活動、分捕り活動に潜む、原罪性である


5.「ドイツ企業の発展過程において、ナチス経済は追い風の役割をはたしていた」「追い風の中での強蓄積を基盤として、各企業は、戦後成長の軌跡を進んでいった」「ナチス期から現在にいたるまでの資本主義の連続性を示している」

 米国・日本でも似たような分析はできるだろう。これをもじれば、「アメリカ企業の発展過程において、TPP経済は追い風の役割を」果たすだろう。特に、保険や製薬、農業において。


6.「企業史研究は、ナチス期の企業蓄積の進展に注目することで、ナチス経済合理性を持ったシステムであることを明らかにした」 

レイシズムによる奴隷労働、分捕り、侵略・軍拡による市場拡大は、企業にとってはきわめて合理的かもしれないが・・・・。その合理性は、人権尊重や、国民主権国際法理念を、叩き潰して得られる合理性である。


7.「各国は、世界恐慌の中で深刻な不況におちいり、経済停滞から脱出を可能とするような経済政策経済システムを模索していた。それが、米国ニューディールであり、フランスのブルムの実験であった。だが、ナチス体制ほど、軍事に特化した資本蓄積システムが確立されることはなかった」

さすがのナチスとその裏の企業家たちも、今の米国軍事、保険、金融に特化した、資本蓄積システムには、驚嘆の念をいだくに違いない。

2013-03-23 資本癌化論の系譜 2

[] 23:03

 光文社新書の『すべての経済はバブルに通じる』小幡績 著で、「キャンサーキャピタリズム」という言葉が使われていた。今回グーグル検索してみて初めて知った。彼は、自分がこの言葉を作ったとつぶやいているようで、慶応大教授の経済学者がいうのだから、嘘でもなかろう。彼の論では、補助役だった金融が、実体経済を上回り、主役になった所で、投機ゲームが自己目的化し、実体経済を破壊するということらしい。

 現在の、円安(海外投機筋が、安倍ノミクスに賭けた結果。日刊ゲンダイ、3月20日では、ソロスはこれで、昨年11月から現在まで、940億円勝ったという)と、株高市場は、この「キャンサーキャピタリズム」の顕れであろう。決して、実体経済の市場が開拓された、あるいは、革新的な技術が出現したというわけではない。「アベノミクス」自体は、未だ何も実行されていないのだ。群集心理、ムード、ゲーム感覚での賭けだろう。 政治、マスメディアが、バブルムードを演出して、塩漬けになっていた金融を回転させただけでも、いいではないかという意見もあると思う。果たして、本当にいいのだろうか。リーマンショックの前の雰囲気には、似ていないだろうか。あの時も、みんなで踊っていた。

 小幡績は、これが、「現在の経済の姿だ、まだまだバブルと痛みはつづくぞ。金融資本の価値低下がおき、実体経済と調節されるまで。覚悟しておけ」と述べているらしい。私や、中沢の癌化論よりも、金融経済平面での事象分析に寄っている。私や中沢は、これが実体経済面へ破壊的影響を及ぼすことを、主体にスポットを当てようとする。実体経済といっても、それは、自然、文化、身体、あるいは、人との交換のありかたから、精神構造にも及ぶものであり、経済、資本の母体となるものである。ブラジルへの法的規制の網をかいくぐった、遺伝子組み換え大豆の「浸潤、転移、増大」と、非遺伝仕組みかえ大豆の排除は、資本の癌としての動きの、眼に見える形での象徴である。

 投機したカネを失う痛みは、まあ、ご愁傷様だが、長い歴史により培われた、文化、土壌、自然、生態系が、あるいは身体が、投機資本の論理で改変されてゆくことの痛みは、なかなか癒しがたいものがある。これは、資本の越権であり、犯罪なのであると、「社会的権威」が、一線を画すべきなのである。例えば、ISD条項では、タバコの害を警告する文を、タバコ広告に載せることが、知財としてのタバコ広告を損害しているとして、タバコ会社から訴訟の対象にもなるとの話を、IWJインタビューの中で内田聖子がしていた。このような資本の増大を目的とした詭弁を使うタバコ会社に対して、身体を守るためにNoという権威が、資本を抑制する、本来あるべき、政治的社会的「父性」である。新自由主義的な政府では、この父性が、資本側、マネタリズムの側の軍門にくだり、企業のための訴訟弁護士として、企業の利益のために、実体経済、自然、文化、身体、精神構造に、牙をむいてくる。

 経済学に疎いも者の、大づかみな比喩的論説だが、それなりのパースペクティブにもなるのではないかと思う。だが、私からすれば、リーマンショックに至った時点で、超専門家集団でもあっただろう、アメリカ金融機関は既に死んでいる者であり、権威もへったくれもない者どもである。今、生き延びている新自由主義という奴らは、国家から救われた「ゾンビ」である。政治的にも、竹中や、麻生、安倍も、ゾンビである。ゾンビとして復活させたのは、特捜検察であり、マスメディアであり、その背後の軍事的な策略もともなう威嚇的な権威であろう。これは、経済学でもなんでもない、経済学の衣をまとった、新たな階級社会への意志といえるかもしれない。本屋にいったら丁度、本日、「ゾンビ経済学」という格好の本が筑摩書房から出ているのをみて買った。読んでみたい。


P.S. TPPは、ゾンビ化した新自由主義経済である

 「Zonbie」というのは、どうしても、墓場からでてきて町中をうろつきまわる映画のワンシーンがあるが、由緒正しい民族的な言葉である。

本来は、西インド諸島ハイチの言葉で、黒魔術により死体を夢遊状態にして動かし、生き返らす魔力のこと、あるいは、ヴードゥー教の呪いにより、生き姿を与えられた死体のことを言う。現代の口語では、「精神的には死体と同様の奴」というような意味になる。

 これを、政治に当てはめて考察したのが、藤原筆による「小泉純一郎と日本の病理」Koizumi's Zombie Politics (光文社)である。小渕恵三が倒れ、その後、小泉純一郎首相の誕生で、法治国家、民主主義国家の枠が外れ、ウソが公然とまかり通る政治状況になったという日本政治史の認識を書いている。これとセットで、日本の資本主義が、バブル経済のころに「賎民諸本主義」に変質していったと考察している。「賎民」というのは、乞食、ギャング、詐欺師などに対して使われる言葉だが、社会の中枢の役割を担う者が賎民化すれば、一般国民はいわずもがなであろうと書いている。

 9.11後のアメリカでも同様であろうが、このような政治経済状況が、資本の増殖、癌化を際限なく許容し、「信用」の膨大な嘘が隠しおせずに、リーマンショックにつながった。オバマの誕生でその流れが、断ち切られることが期待されたが、米国が、計画経済的に屑債権を国が買い取るという「黒魔術」を行い、癌化して信用破綻した新自由主義的な資本主義が、ゾンビのようによみがえり、さらに、オバマの政策を骨抜きにするようになった。

 また、日本でも民主党政権が誕生し、本来は小沢一郎が首相になることによって、歴史的転換が図られるべきだったが、特捜警察とマスメディアが、「政治とカネ」という黒魔術を行い、ゾンビのような、ウソがまかり通すような、菅、野田さらに、安倍といった政治家、さらに御本尊である竹中平蔵を復活させた。

 だから、彼らの進める、TPPというのは、リーマンショック後に黒魔術でよみがえっている、また、すでに、黒魔術の元でしか、生き残れなくなっている新自由主義の姿であり、ゾンビ化した新自由主義経済ではないか。民主主義的な議論、オープンな報道をされると、とても生きてゆけないような、きわめて無礼で不公正な、市場開拓、司法制度のやり方を、「ゾンビ国家」(まことに申し訳ないが、大義なきイラク戦争により、数えきれない無実の人命を殺戮した国、貧困と病が放置される国、しかし、軍事力と諜報力のみで国際的な力を保持国として、そのように申し上げざるを得ない)米国主導で作ろうとしている。

2013-03-21 資本癌化論の系譜  

[] 23:03

 「観察映画」というジャンルを作り、精力的に活動している元NHKドキュメンタリー制作者、想田和弘氏のツイッターで、本日午前中に、「『すばる』で、中沢新一が、新自由主義における資本の動きを癌化に例えて書いていてすごい」というような内容を見た。「資本癌化論」は、ネットコメント欄での私の専売特許だと思っていたのだが、同じような発想をする人が遂に現れた、あるいは、私の論考をどこかでみて、参考にされたのかと思い、さっそく、当の『すばる』を買って読んでみた。想田氏が、「自分がばくぜんと思っていたことを書いてくれている」と述べていたが、これは、私も、自分の考えを、きれいに整理してくれていると感じた。

 ただし、中沢はやや甘い。中沢は新自由主義における資本の「癌化」を、抽象化された資本と市場取引の世界を第一義にして、その元にある身体も含めた自然やそれの織り成す社会、生態系への完全な盲目、無視があると述べている。それが、ハイエクにまでさかのぼる学者の思考仮説、つまり、「自由主義経済学者たちは、そのような交換に含まれる社会性を背後に引っ込めて、市場で出会って駆け引きする商人同志の思考と心理の動きを前面に押し出すことによって、交換を市場内部で起こる心的出来事として純粋化しようと試みた」、これに源流をもつとされる。経済学のゲーム理論化につながるモデルであり、サッチャーをして「社会などというものは存在しない」と言わしめることにつながるものである。

 このゲーム理論化の行きつく先が、「リーマンショック」としてあらわれた米国金融工学とその破綻であり、それは、すでにゲームといえる代物ではなく、金融詐欺、投資詐欺というべきものであった。ゲームの仮定を、「住宅価格の暴落が10万年(確か)に1回」というような、ありえない所において、こねくりあげた屑金融商品の信用度をあげて、詐欺的に売りさばいて、また、買う方もレバレッジをきかせて、資本を仮想的に膨大化させ、全世界中に災厄をもたらしたのだ。だから、資本の癌化においては、ハイエクにさかのぼるところの、「カタラクシー」論の誤りだけでなく、カタラクシー論に寄生して詭弁化、詐欺化して膨大化していった点が一つ、さらに、その米国ドルを中心にして行われた、詭弁、詐欺的な経済が、断罪されずに、つまり、免疫的に排除できずに、生き残ったという点、その背景にある、米国軍事的な恫喝を背景にした、国際政治体制、あるいはドル基軸通貨制度という点(ドルの総発行量、M3さえ、よくわからない! 分母の公表されない通貨であることが、許されているのである)、これらの問題を、中沢はまだ指摘していない。この領域は、むしろ、マルクスによる「原始的蓄積過程」という言葉の方が、ぴったりくると思う。

 だから、資本の癌化の要因として、新自由主義的な経済学的仮定の誤りと、さらに、人間の間の交換過程にある、原罪的な、「騙しや脅し」あるいは、「強欲」がある。チベット仏教の修行を積んだ宗教家でもある中沢新一であれば、このあたりまで、是非、考察を深めてもらいたいところである。参考までに、これまで、コメント欄に残した、資本癌化論を、以下に元記事とともに引用しておく。




阿修羅掲示板より引用


TPPの罠 自由貿易が惹き起す“資本という亡霊”と闘う国家と国民 (世相を斬る あいば達也) 

http://www.asyura2.com/13/senkyo144/msg/760.html

投稿者 笑坊 日時 2013 年 3 月 07 日 10:13:24: EaaOcpw/cGfrA

http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/cd09af8fe0ac4dd81229d968f6502c21?fm=rss

2013年03月07日 世相を斬る あいば達也


 TPP、特にISD条項の問題点を、数多くの書籍や内外のネット情報とオバマ・安倍会談の流れを観察すれば、その条項が如何に理不尽なものであるかは、脳味噌のある人間なら、誰もが危惧するものだろう。簡単に言ってしまえば、民間企業(広い意味で資本)が国家の上位に位置する貿易協定である。否、TPPを貿易協定のレベルで論ずること自体、既に間違いである。

 小沢一郎は、一般論として自由貿易を支持している。それではTPP自由貿易に資する協定かといえば、異なるものだと言っている。仮に、自由貿易協定であれば、どことでも結んで良いと言っているが、TPPアメリカのルールに従うことであり、同等の立場で交渉できる協定とは言えず、例外が存在すると米国側が言ったのは、日本政府が国内で言い訳する材料を与えただけだろうと看破している。おそらく、それ以上の問題を含んでいる事を知っているのだろうが、敢えて、それ以上は言及していない。

 ネット上で情報が拡散しているように、有利な立場にいる筈の米国人までが、多国籍企業による民主主義の支配だと怒っている。なにせ、TPPと云う一見自由貿易協定に似せた“対国家における資本の優位性”を規定するISD条項やラチェット条項(不可逆性条項)は、参加するすべての国家の主権を制限する。制限ならまだしも、最悪の場合、その国の憲法よりも上位な可能性すらある。つまり、参加各国の国内法(憲法含む)のすべてに優先するのだ。たとえば、相手国がその国の法律に従い行った規制でも、資本の行動自由が阻害された場合、不利益を蒙った資本(多国籍企業群乃至は単なる民間企業)は、その国を訴え、賠償を支払わせる事が出来ると云うものだ。

 TPP推進論者は、このISD条項における紛争は、国際仲裁機関において(今までの歴史的経緯において)公正公平に行われていると主張している。たしかに、NAFTA(北米自由貿易協定:米・カナダ・メキシコ)におけるISD条項違反の裁定を詳細に見てみると、訴えた企業側の主張に理がある面もあるので、一概に反TPP論者の「負けているのはカナダとメキシコだけだ」と云う証明には論理的に弱い面がある。つまり、その仲裁裁判の結果を持って、だから危ないと云うのは論理的ではない。

 ただし、国際仲裁法廷が公正公平で、今後、その歴史的経緯が継続すると保証はない。本当のTPPにおける問題は、今までではなく、将来に亘って国際仲裁法廷が公正で公平な機能を果たせるかどうかなのである。最近、社会学者の間で語られるようになっている課題は、資本にとって国家は必要か、と云うものである。経済のグローバル化はかなりの部分で、国境と云う意識を抹殺してきた。それでも、関税と云う障壁が国家の存在を目に見えるものにしていたのだが、資本は、それが邪魔だと言い出したのが米国TPPの発想である。

 オバマの哲学的思考まで考えるつもりはないが、自由貿易の過度な進捗は、必ず国境が邪魔と云う考えに到達する。なぜなら、資本と云うもの人格を持たないので、何処まで行き着こうが強欲なのである。これは資本が悪者と云うわけではなく、それが資本の性(さが)なのである。人間や国家のように、食べ過ぎには注意しよう。あまり人のものを奪うのは宗教倫理上も、外交上も拙いものだ、等と考えないのである。そして、どこの誰が、その資本の持ち主なのかさえ判らないのだから、極めて取り扱いが難しい。案外、各国の庶民の貯金も、資本の一部でさえあるかもしれないのだ。つまり、世界各国が、この資本と云う正体不明の存在に蹂躙される危機が訪れているのだろう。

 リーマンショックと云うのが、自由貿易の踊り場だったことは確かだ。しかし、資本は、国家の財政に助けられ、結果的には甦った。そしてまた、再び牙を剥いているのだ。彼ら(資本・マネー)には、人格、言いかえれば心がないのだから、その慣性の法則に従い、食って食って食い捲るのである。自由なんて言葉がくっついているので、ついつい善のように思うのだが、トンデモナイ悪魔なのだ。永遠と云って良いほどの食欲で、寝る暇さえ惜しんで食べ続けるわけである。

 自由貿易の世界では、資本が主役であり、国家も国民も、すべて従属関係にある。ゆえに、此の儘自由貿易が継続すれば、国家は滅亡するのである。まぁ理屈上は、国境がなくなり世界国家が誕生するわけだが、国家を形成しているのが国民と云う人間であり、彼らの心があることを忘れてはならない。つまり、資本を主体とする自由貿易は、論理上世界国家を成立させ得る。しかし、現時点で、国家を形成している各国の人々には、感情があり、良くも悪くも心がある。つまり、最終的には、理屈と情緒の対立が起きる。言い換えるなら、資本と国家の対立が起きる。

 ところが、この対立の図式は、勝敗は決まっている。必ず、国家が負けるのだ。なにせ、相手が何処にいて、何者なのか、誰にも判らないからだ。幽霊と喧嘩して勝てるヤツはいないだろう。実に、それに似ている。ただ、幽霊と違って、目が覚めても、そこにいるのだ。そして、常に人間を競争に追いたてるのである。その昔、キリスト教では、利息を取ってはいけないと云う不文律があったわけだが、それを暗黙に認めたことから、資本と云う怪物が生まれたらしい。こんな事をオバマが考えているかどうか判らないが、少なくとも安倍晋三はオバマから命じられる儘に実行するだけで、行く先や国益など、チンプンカンプンなのだろう。 正直、そんな自民党に勝たせたから仕方がないとかの問題ではなく、民主党でも同じくらい低レベルの議論しかしていないので、目くそ鼻くその選択。共産党も抵抗できない資本の風圧である。




04. 2013年3月07日 20:57:01 : stL1RLpSIc

 「資本が自己増殖する運動体だ」とマルクスが喝破したが、それは、資本というもの本性は、癌だということである。癌が、自らの出自である身体組織の秩序を侵食し、転移し、死に至らしめても苦しみも知らないように、資本も自らの出自である、社会、文化、法、自然の秩序を侵食しながら、幾何級数的に増大し、それを「なにか」にいたらしめる。「なにか」とは、文化的、生態学的な浅薄化、画一化と、創造性、生産力の低下であろう。だから、本来、癌化しないように、資本を国家が管理すべきなのである。

 TPPや、その背後のマスコミ、金融、軍需産業などをうごめいている資本の中には、リーマンショック時に、本来は国家の規制、「免疫」によって、淘汰されてしかるべきものが、大量に含まれているのであろう。本来排除されるべきものが、あいば氏もいうように、国家によってリスクを保障され、救われてしまった。米国はオバマを産むには産んだものの、すでに資本の管理能力を失っているようにみえる。皆保険制度を志向し、骨抜きにされた彼は、TPPも心底やりたいわけでは、なさそうにみえる。

 しかし、ここで無人格な資本に悪役を負わせ、諦めるのではなく、それに抵抗しない政治家、無視するマスメディア、そして、立憲国家という免疫機構を逃れようと謀議を続けるTPP参加資本家605人に、むしろ、標的を決めて、国民として、それぞれができる批判の矛を向け続けるべきだとおもう。



The Journalより引用 

このモサントの問題は、日本にとっても非常に深刻である。



印鑰智哉:モンサント、ブラジルの遺伝子組み換え大豆「開国」の手口

http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2011/01/post_722.html



ブラジルがいかに遺伝子組み換え大豆栽培の「開国」を迫られたか、そのプロセスを今ここでまとめておきたいと思う。

それは、WikiLeaksが暴露した米国政府へのEUへの恫喝よりもおぞましいやり方と言わざるをえない。交渉での威嚇というレベルどころか一国の法律も主権も無視した非合法手段を使ったものだからだ。しかし、違法な手段で開国させてしまったからといって、ブラジルの民衆はおめおめとそれを受け入れたわけではない。さまざまなレベルで闘いが繰り広げられた。そして今なお闘っている。ただし、その犠牲はあまりに大きいものであるが。

EUそしてブラジルでの遺伝子組み換え技術に対する抵抗を見る時、今の日本の民主党政権の遺伝子組み換え大豆栽培の承認に向けた動きを見せていることがいかにも異様に見えてくる。

このまとめが日本の遺伝子組み換え技術に対して取るべき選択について考える一つの材料となれば幸いである[注1]。

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世界最大の非遺伝子組み換え大豆の輸出国が狙われたー非合法活動で強引に既成事実化


ブラジルはかつて世界最大の非遺伝子組み換え大豆の輸出国だった。遺伝子組み換え大豆の耕作は禁止されていた。しかし、現在ブラジルでは75%ほどの大豆が遺伝子組み換えとなってしまった。

遺伝子組み換え大豆の栽培はルラ前大統領の前のフェルナンド・エンヒキ・カルドーゾ(FHC)政権時代の1998年にアルゼンチンから遺伝子組み換え大豆の種子が国境沿いのマトグロッソドスル州に非合法に持ち込まれることで始まった。

持ち込まれた遺伝子組み換え大豆はいわば密輸品であり、FHC政権は持ち込まれた大豆を即時に処分し、持ち込んだ関係者の処罰をする義務があるにも関わらず、実際には遺伝子組み換え大豆の耕作実態をつかむ調査すら十分には行わなかった。そのためにどれだけ広範囲に遺伝子組み換え大豆が持ち込まれたのか正確につかむことができない。

この事態を理解するにはブラジルの地方の政治状況を知る必要があるだろう。ブラジルでは軍事独裁政権との闘いの中で民主化運動が大きく成長し、その中心にあった労働者党のルラ大統領が選挙で選ばれるまでに至っている。しかし、その一方で、農地はごく一部の大土地所有者に握られ、極端な富の偏在がまだ残っている。地方では大土地所有者の力は強く、マトグロッソドスル州では特にその傾向が強い。行政の力は時に弱く、地方の権力者の協力を得てしまえば、非合法行為もなかなか処罰されない傾向がある。

こうして大土地所有者への密輸という方法を通じて、モンサントはブラジルを遺伝子組み換え大豆生産国に強引に変えて、それを既成事実化してしまったのだ。


政治をめぐる攻防ー憲法を無視する法案


同時にモンサントが試みたのは強力なロビー活動を通じての法律の変更だ。1998年、モンサントは除草剤Roundupに耐性のある種子Roundup Ready大豆のバイオ食料国家技術委員会(CTNBio) による承認を勝ち取った。

しかし、これに対して、GreenpeaceブラジルとInstituto de Defesa do Consumidor (消費者保護協会、IDEC)はモンサントとブラジル政府を相手に訴訟を起こし、この承認の取り消しを求めた。この訴訟はGreenpeaceらの側の勝利となり、1998年から2003年まで、遺伝子組み換え大豆の栽培はモラトリアム(停止処分)となった。

2002年、大統領選挙で労働者党のルラは「環境と生活の質」をテーマに掲げ、非合法の遺伝子組み換え大豆の耕作の停止を公約した。大統領選でのルラの勝利で、環境問題、農業問題に取り組む広範な人びとから、遺伝子組み換え作物の栽培禁止の継続の期待が高まった。しかし、議会で影響力を強く持つ大土地所有者、アグリビジネスの利益代表者に対して、ルラ政権は妥協を重ねた。

2003年、政権が発足すると、ルラは遺伝子組み換え促進派を農務省大臣に据える一方、環境大臣には遺伝子組み換え技術に対して予防原則の適用の立場から反対するマリナ・シウバを起用した(後に大臣を辞任、緑の党の候補として2010年大統領選挙で善戦する)。

大統領に就任するやいなやルラは難問に直面する。すでに非合法に植えられていた大豆の収穫期が迫っており、モンサント、リオグランジドスル州政府、非合法に大豆を植えた大土地所有者からその収穫される大豆を承認するように大きな圧力を受けたからだ。

その結果、ルラ大統領は2003年3月に人や家畜への遺伝子組み換え大豆の 2004年1月までの利用を承認する暫定措置令を出した。これはルラの選挙公約に反したものだった。この暫定措置令は連邦地方裁判所の決定を無視し、この種の決定には環境影響調査が必要とする憲法に反するものだった。

この暫定措置令に対しては、遺伝子組み換え大豆に反対する大多数の農民、消費者、社会運動や環境保護運動から大きな反対が起こり、80の団体が反対する声明を出したが、政府はこれを無視した。

2番目の暫定措置令は2003年9月に出され、これは2003/2004の収穫に遺伝子組み換え大豆を承認するものだったが、この承認は遺伝子組み換え大豆の種子をすでに確保していた農家に対してのみ適用されるもので、2004年2月初めまでに8万1612農家が申請を行った。これに対して公共省が連邦最高裁判所にこの遺伝子組み換え大豆の承認は憲法違反であるという訴えを起こしている。しかし裁判所は未だ何も応えていない(2005年4月時点)

遺伝子組み換え大豆を連邦政府が承認する決定を行った後、ブラジルで2番目の大豆生産量を誇るパラナ州政府が、遺伝子組み換え大豆の州内栽培、輸送、船積みを禁止する法律を制定した(パラナ州はリオグランジドスル州に近隣州)。それに対して、リオグランジドスル州政府は最高裁に、パラナ州政府を訴え、パラナ州政府の遺伝子組み換えを禁止する権限は否定されてしまった。


一国の主権が、憲法が骨抜きに


モンサントのまったくの非合法な行為がブラジルの地方寡占勢力と結びつくことで、なし崩し的に承認され、その後のバイオセキュリティ法の成立過程で憲法が次々に骨抜きになっていく様がはっきり見える。

2004 年2月、バイオセキュリティ法案が下院で承認された。この法案はバイオ食料国家技術委員会のみが遺伝子組み換え作物の実験農場での評価をするというものだが、この時点ではバイオ食料国家技術委員会だけでなく、関係省庁も審議会とは別途、評価を行うことになっており、モンサントの遺伝子組み換え大豆は 2005年末までの耕作と期限付きで使用が許された。

8ヶ月後、法案がさらに改訂される。今度はバイオ食料国家技術委員会は遺伝子組み換え作物利用承認の唯一の機関となり、関係省庁の権限は削除された。憲法に規定された環境許可に関してはまたしても無視された。

2005 年3月、ルラ大統領が署名し、成立したバイオセキュリティ法では、遺伝子組み換え作物を栽培したり、商業化したい企業は、バイオ食料国家技術委員会に請求を出せばよく、委員会が承認の評価をすればバイオ食料国家審議会が最終判断を行うというものとなり、最終的に憲法で規定された環境や人間の健康に与える影響調査の義務も不要とされてしまった。この法の下では保健省と環境省は以前持っていた遺伝子組み換え種の自由化に対してそれぞれの領域で調査を行い、影響を評価する権限も失われた。


ブラジル社会の反応とブラジルにおける遺伝子組み換え食品表示規定


2003年12月の調査によるとブラジル社会は92%が遺伝子組み換え食品の表示は必要と考え、74%は遺伝子組み換え食品を食べたくないと考え、73%が遺伝子組み換え作物の自由化に反対であるとなっており、遺伝子組み換え技術に対しては強い反対がある。

遺伝子組み換え問題は98年以来、ブラジル社会での大きな論争点であり、前述の通り、大統領選での大きな争点にもなった。遺伝子組み換え大豆のモノカルチャーの拡大は環境問題のみではなく、農地改革や地方の人権問題にも密接に関わるため、広範な社会運動団体やNGOが取り組んでいる。土地なし地方労働者(農園労働者)運動(MST)は遺伝子組み換え大豆問題を大きくとりあげ、非合法に植えられている遺伝子組み換え大豆畑の大豆を破壊する直接行動にも訴えている。

2004年3月26日、遺伝子組み換え食品の表示規定を定めた政令が有効になり、1%を超える遺伝子組み換えの原料を含む人あるいは家畜用の食品には遺伝子組み換えの表示をすることが義務づけられた。これは日本の表示基準よりもはるかに厳しいものだ[注2]。しかし、ブラジル政府はこの政令の完全な実施をする具体策を示していない。


広がる不安−大豆モノカルチャーの拡大、除草剤被害、そして狂豆病


遺伝子組み換え大豆の生産が本格的に始まり、おりしも、気候変動問題でバイオ燃料の採用を先進国が決めたため、バイオ燃料の原料としての大豆の需要が伸びている。 現在(2010/11)では75%程度が遺伝子組み換えとなっているとされるが、さまざまな問題が持ち上がっている。

大豆増産のための農地開拓の矛先は森林の破壊であったり、先住民族や小農民の土地からの追い出しであったり、さまざまだ。また、大規模な大豆農場は軽飛行機で除草剤を撒き、大型コンバインで収穫するため、広大な土地で生まれる雇用はわずかだ。モノカルチャーは自然と同時に社会を破壊する。追い出された先住民族と小農民は日雇い労働者として劣悪な労働条件で働くか、都市スラムへと流れ込むか、選択は限られてしまう。

さらに追い打ちをかけるのが、遺伝子組み換え大豆の導入と同時に増加したモンサントの猛毒除草剤(その起源はベトナム戦争時の枯れ葉剤だろう)の使用である。除草剤に汚染された水を飲む周辺住民からベトナム戦争の時にたくさん生み出された先天性欠損症などの健康被害が続発している(それはアルゼンチンのレポートと共通する症状だ[注3])。

また、遺伝子組み換え大豆に狂豆病と名付けられた、狂牛病と同様に治癒不可能な病気が広がっているという[注4]。


大豆生産農家からも非遺伝子組み換え大豆を求める動き


遺伝子組み換え大豆は遺伝子組み換え種子と除草剤を売る遺伝子組み換え企業には利益を与えるが農家にとっては除草剤の負担や種子のロイヤルティの支払いなど負荷が大きい。Roundup Ready大豆の除草剤が結局効果を発揮しないという大きな問題も発生している。しかも、消費者が求めるのは、非遺伝子組み換え大豆であり、遺伝子組み換え大豆を一度選択した農家も非遺伝子組み換え大豆を要望するようになってきている。

しかし、大豆種子の流通を独占するようになったモンサントは非遺伝子組み換え大豆の供給を制限し始めて、農家から不満が高まっている。

この声に押されるようにブラジル政府はSoja Livre(自由な大豆)計画を2010年に発表した[注5]。これは遺伝子組み換えでない大豆の栽培を後押しするもの。

ヨーロッパから遺伝子組み換えでない大豆をブラジルに求める市場の要求は実はかなり高い。決して、ブラジルは遺伝子組み換え大豆にそまったわけではなく、非遺伝子組み換えに活路を求める農家も存在している。


結語


昨年の大統領選挙と同時に行われた総選挙では大土地所有層、アグリビジネスの利益代表者は相次いで落選した。ブラジルの民主化はルラの着任時よりもさらに進んでいる。

この遺伝子組み換えの「開国」はブラジルの民主化の進みきらない過程の中で、モンサントと寡占大土地所有者の連携によってぎりぎりのところで生み出されたクーデタのようなものといえよう。実際に検証すれば、この過程は法的プロセスとしても整合性を持たず、抜け駆け的な動きの連続でしかない。

正当に真正面から国会審議で検討され、しかるべき公聴会などで市民の参加も得て議論されていれば、現在のような形で遺伝子組み換えが合法化されることはありえなかったであろう。

ルラ政権はブラジル政権として始めて反貧困に積極に取り組んだ政権であり、評価されるべき部分も少なくないが、モンサントと大土地所有者に対しての妥協は後世に残る汚点となったといわざるをえない。

そして、その結果、モンサントの開発した大量の猛毒グリフォサートがブラジルの大地にまかれ、環境を汚染し、社会的にも先住民族や小農民に大きな苦しみを生み出すことになってしまった。この解決はさらに長い時間を必要とするだろう。

日本は果たしてこの「開国」要求に対して、どう対応すべきだろうか?

日本の農林水産省は12月24日から遺伝子組み換え大豆栽培の承認を前提としたパブリックコメントを始めている。これに対して、アジア太平洋資料センター(PARC)が市民からコメントを集めるオンラインキャンペーンを開始している。多くの方にご注目をよびかけたい。


この問題などのフォローはTwitterでも書いています。

http://twitter.com/tomo_nada


【注・出典】

1.このまとめの多くは Greenpeace Brasil "O CONTEXTO POLÍTICO DOS TRANSGÊNICOS NO BRASIL Abril de 2005" (原文、ポルトガル語)によっている(pdfファイル)

http://www.greenpeace.org/raw/content/brasil/documentos/transgenicos/greenpeacebr_050430_transgenicos_documento_contexto_politico_port_v1.pdf

2.日本での遺伝子組み換え表示は、原材料欄に記載されている原料の3番目まで、少なくとも原材料の重量に占める割合が5%以上であることという緩いものだ。遺伝子組み換えを使っていても表示しなくていいケースが多いことに注意が必要

参考: あいまいな日本の遺伝子組み換え表示(なお、残念ながらグリーンピース・ジャパンの遺伝子組み換えに対する取り組みは中断されている)。

http://www.greenpeace.or.jp/campaign/gm/basic/label_html

3.「南米を襲う遺伝子組み換え大豆と枯れ葉剤」参照

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201101060905584

4.狂豆病について:Brazil battles spread of "mad soy disease" (英語)

http://www.gmwatch.eu/latest-listing/1-news-items/12554-brazil-battles-spread-of-qmad-soy-diseaseq

5.ブラジル政府 Aprosoja, Abrange e Embrapa lançam Programa Soja Livre (ポルトガル語)

http://www.embrapa.gov.br/imprensa/noticias/2010/novembro/1a-semana/aprosoja-abrange-e-embrapa-lancam-programa-soja-livre/


(この記事は「日刊ベリタ」から許可を得て転載しました)

投稿者: 《THE JOURNAL》編集部 日時: 2011年1月12日 09:29 |



マルクスの言う「原始的蓄積過程」は、原始的でもなんでもなく、今現在、さまざまな脱法、強圧、マスコミによる扇動(ペテン)をしながら、時には、国連の安全保障理事会で猿芝居を行なったりして、繰り返されている。

 資本というものが、本当に、周囲の組織を破壊しながら自己増殖し、最終的にはみずからが寄生している人体を死においやる悪性腫瘍に転じていることを、見る思いがする。ここで、モサント資本によって具体的に破壊されたのが、ブラジルの憲法や法秩序であり、さらに農場を中心とした生態系による自然秩序である。同じように、イラクの法秩序と無数の人命が失われ、アメリカ金融市場の秩序もほしいままに破壊された。日本でも、国民主導の政権が瓦解し、選挙で話題にもならなかった法人税減税が強行され、単純化した議論による扇動で、TTP導入されようとしているし、郵政改革修正法案の可決もどうなるかわらない。

 癌は細胞が本来持っている力強い生命力である細胞増殖プログラムが、抑制されなくなって発病する。現在、人類社会や、自然生態系にあらわれる、資本の自己増殖による破壊現象も、本来は健全な範囲での労働意欲、社会貢献意欲をかきたてるお金をもうけたいという欲求、あるいはえらくなりたいという欲求が、抑制されなくなって発病しているといえるのではないか。それが科学技術という、まさに「きちがいに刃物」を持たせたような状態になって地球規模の影響がみられるようになった。

 たぶん、これを内面的に抑制していたのが、宗教だったのだろう。ブータンのようなチベット仏教に沿った、GDPを国民の幸福の指標としないような国づくりをしている国は、この波からはあるていど独立していられる。それから、本来は宗教に変わって、憲法が、現代の「十戒」となり、資本への抑制と、基本的な秩序維持機能を発揮するべきで、ベネズエラは国民の権利と共に義務を明示したやる気と誇りの出る憲法を制定し、ある程度は成功している。消費者や投資家労働者や経営者である前に、自分たちの憲法をもつ国民である誇りがでてくるし、それが、消費や投資、労働、経営の枠組みになる。しかし、わが国では、大人たちが、日本国憲法を、本気でそれを指針にしてを持って生き、また子供に教えようとはしないし、その前に、赤子のころから消費者として登場し、日本国民であることへ意識する機会がない。本来は、国の基盤である憲法に、日本の歴史や、2次大戦の敗戦の経験から学んだことも含めた知恵がわかりやすく独自の形で結晶化しており、それが経済活動の前に、豊かさの追求の前にあるべきだと私には思われるが、しかしそうではない。これは、抑制のはずれた巨大資本(マスコミの独占体制も含む)にとっては原始的蓄積過程に入るには、もってこいの草刈場の社会環境を提供している。

 巨視的には、こういうことがおきているのではなかろうかと最近思います。

投稿者: H.I. | 2011年1月14日 14:47