明日へのメモランダム

2017-01-26 山車、アニミズム、国家神道、沈黙

[] 23:57

新日本風土記スペシャル 神を守り 人が集う〜ユネスコ無形文化遺産 山・鉾・屋台行事

http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/24793/1025096/


ユネスコ無形文化遺産に登録決定 山車が登場する33の祭り】東北〜関東編

http://www.nhk.or.jp/archives/michi/articles/500/1407.html

ユネスコ無形文化遺産に登録決定 山車が登場する33の祭り】北陸西日本

http://www.nhk.or.jp/archives/michi/articles/500/1408.html


 新年1月3日、NHK総合テレビで、日本各地にある「山車(だし)」祭りの特集を、午後7時までやっていた。ああいう祭りの雰囲気の延長に、神道政治連盟や、日本会議があるんだろう。山車の通行で、両者がにらみ合いになると、お互いに「協力を」といい合いながら、最後には、ぶつかり合う。その勇壮さを、「カミ」にみせるのだという。

 あの番組では、「カミ」という言葉が、妙に多用されていた。「日本はカミの国」と言って、森元総理はかなり批判された記憶があるが、そのカミと関係はなくはなかろう。山車のキャラクターは、伊達男もあり、あるいは、巨大な動物像もあり、原始的な心の活動性を象徴しているとは思う。大きいもの、強いもの、畏怖させるものをまつる、素朴なアニミズムの世界だ。しかし、ああいう祭りでは、もちろん、心身の障害者山車の上には登れないだろうし、参加するためには、しきたりや、それを体現化してた人々の掟みたいなものを受け入れ、心を一つにしていく必要がある。「カミ」に関連するポジティブな集団的な感情を背景に、同時に原始的でネガティブな排除の感情の上に成り立っている。

 そして、そういう世界は、「国家神道」や、先の大戦での日本軍のお祭り騒ぎのような無茶苦茶に、直結するものであろう。戦艦大和も、ゼロ戦も、「山車」みたいなものだし、その「山車」は神風で負けないのだと、戦局を偽っていい方に祭り上げる態度も、「カミ」の威厳を傷つけるような事実を隠蔽、排除しながらしか、集団的な凝集性、祭りを保てないことにもつながる。無邪気に情報をねじまげるような潜在的雰囲気、それがドライブしていく感情論理の圧倒的な優位さを感じさせるので、正直言って神社系の祭りというのは苦手だが、妥協していかないと社会生活を送りにくくなるという現実も、一方である。結局、こういう「祭り」的なものと、どう妥協するのか、それとも別の「カミ」の秩序に入り、原始的な「土人的」な「祭り」的な秩序、力を否定するのか、そういうことが、遠藤周作の「沈黙」でも問われていることもである。つきつめて考え感じていれば、遠藤の「沈黙」「サイレンス」の葛藤世界は、現代でもまったく生きている。政治的には、昔の「アカ狩り」から、今の、「サヨク」への侮蔑まで、踏絵を要求するような雰囲気というのは、あるものである。当時は「転び」といわれたようだが、現代では「転向」という。

 国家神道に吸収されていくようなアニミズム、これは暴走を止める原理を持たず、容易に歴史修正主義的ともなるカミ的な政治秩序にもなっていくが、これに巻き込まれずに生きていくためには、どうすればいいのか。代替的な、何らかの言葉、身体的な技法、あるいは、集い、伝統、祭り、文化、そういうものを、どう見出すことができ、自分の内に養うことができるのか。結局は、そういう問いかけになると思う。それに加え、いかに、地域の「カミ」と「動物神たち」と和解しながら、つきあっていくか。排除ではなく、相補的なものとして、原始心性を、みずからの中にも生かし受容しながら、反知性的にならずに方向づけていくか。そういった課題は、キリスト教でも、佛教でも、あるいは、イスラム教でも、それらが伝播していくなかで、世界各地の「土人」の人々の中で、いろんな試練にあってきた、あるいは、現在進行形で、試練にあっているものと思う。そういう課題を、自覚しながら生きていくのと、「廃仏毀釈」「伴天連追放」、あるいは資本主義のかかえる問題を無視して「赤狩り」しながら生きていくのとで、どちらが人間として生きる価値があるのか。そういう問いかけでもある。


遠藤周作 マーティン・スコセッシ 

『沈黙-サイレンス-』 公式サイト

http://chinmoku.jp/

2014-10-08 天野教授、ノーベル物理学賞受賞に寄せて

[] 23:03

  天野教授が、ノーベル物理学賞を受賞した。ノーベル物理学賞といえば、浜松ホトニクスが、カミオカンデや、昨年のヒッグス粒子発見にも貢献していて、浜松ノーベル物理学「脇役」賞では常連組なのだが、主役がついに出たわけである。本物が出た。愛憎半ばする根付けぬ地元での快挙だが、正直、これはうれしい。なにが、浜松ホトニクスや、天野教授を生んだのか、その高貴な土壌は浜松のどこにあるのか、正直よくわからんのだが、とにかく、「自分は普通の日本人です」とおっしゃるように、天野先輩のような邪気のない真面目な粘りのある技術系職人のような人は、その辺にいるにはいる。


 浜松的というものがあるとすれば、誰もできないといわれていて、代表的な研究者、あるいは、大企業が、投げ出したような、そういう日陰なニッチにあえて価値を見出し、脅威的な構想力と粘りと、実行力を発揮する、そして、全く偉ぶらず、淡々とやる、そいういう所が、浜松的といえば、浜松的なのだろう。いわゆる「やらまいか」精神といわれるものだが、「研究」という領域を考えれば、この精神の非常にソフィスティケイトされたものが、必須となる。さらに、浜松的なのは、それが技術的で、なんらかの、非常にわかりやすい用途に役立つようなものであるということである。高柳健次郎のブラウン管受像技術もそうであったし、浜松ホトニクスノーベル賞の研究に脇役ででているのは、それが、「検出」という技術系で、突出して優れているからであろうと思う。これは、研究のわかりやすさでもあるし、反面、ある種の単純さでもあるのだが、これを究極まで突き詰めてゆき、ある分厚い壁を突破すると、このわかりやすい目的に駆動された技術研究というものが、新しいパラダイムを開く革命的なものにまで至るわけである。


  本日のNHKニュース9をノーベル賞報道の目的でみたのだが、そこでやっていたのが、LED太陽光発電を組み合わせれば、これまで、電力の恩恵を受けられなかった途上国中の途上国でも、光を利用できるようになるとのことだ。確かに、この組み合わせは画期的で、電線から光を独立化させることにもなる。あらたな「火」の発見のようなものだ。

 この隅々まで光がいきわたるというLEDの技術的な革新に、大無量寿経四八願と解く。その心は、第一二願「たとえ我れ仏を得んに、光明能く限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば正覚を取らじ」となる。このLEDにより技術的に転換された光は、ただし、源は太陽である。原子力といった、物質的にも、人の心にも、穢れを生み出す似非太陽神ではなく、本物の太陽神だ。これを実現させたのが、太陽神国旗に掲げる、日本の国の学者であるというのがいい。こういう形で、日本国旗のシンボルと日本の誇りを、作り直せないだろうかと思う。




【参考記事】

1.ノーベル賞の天野さん http://s.nikkei.com/1vRqRfM

「必ずできるとの信念があれば、あとは諦めないことだ」ノーベル物理学賞に決まった名大教授の天野浩さんは、フランス企業との共同研究のため訪れた同国南東部グルノーブルのホテルで7日、研究にかける強い思いを口にした。


2.ノーベル賞:喜び新た 失敗が生んだ「幸運」…天野さん 

http://mainichi.jp/feature/news/20141009k0000m040075000c.html

毎日新聞 2014年10月08日 21時45分(最終更新 10月08日 22時02分)

  青色発光ダイオード(LED)の開発で2014年のノーベル物理学賞に選ばれた名古屋大学教授、天野浩氏(54)が8日までに毎日新聞のインタビューに応じた。天野氏は数々の失敗の上に築き上げた経験が発明の「幸運」を呼び寄せたと語る。

  天野氏は8日、滞在先のフランス南部グルノーブルで単独取材に応じ、多くの研究者が挫折した青色LEDの実現について「偶然ではなく、そこまでの経験があって初めて実現した」と振り返った。鍵となったのは、LEDの材料となる窒化ガリウムの結晶化技術。1985年、「ビギナーズラック(初心者の幸運)」が起きた。

 「一般的に、高温にしないと窒化ガリウムの良い結晶はできないと言われていた。ところが、その時の実験では、加熱するための炉の調子が悪かった」。天野氏は先輩研究者から「低温の方が良い場合がある」と教えられたのを思い出した。「低温で確かめようと思った」。それが成功につながった。

  先輩の助言と失敗から得た経験の蓄積が実った瞬間だった。「ついにやったか」。一人残った夕方の研究室。「窒化ガリウムの結晶を乗せたサファイア基板はすごく奇麗で、透明でした。研究生活で一番の思い出です」と語る。

  名大では受賞決定を喜ぶ学生たちが待つ。「私のような平均的日本人でも、こんな栄誉をいただける。才能のある人はぜひ、自分の目標に向かってがんばっていただきたい」。記者の質問の「学生を指導する」という言葉を嫌い、「研究を一緒にやってます」と言い換えて笑った。【グルノーブル(フランス南部)宮川裕章】

2014-09-18 ボールペン字と写経

[] 23:16

 パソコンワープロで文字を打つのが当たり前になり、どんどん、ボールペン、あるいは、シャープペンシルでも鉛筆ででも、文字を筆記することがなくなってきている。4年ぐらい前までは、仕事上、ボールペンを多用していたが、それ以降には、パソコン化の流れが容赦なく広がり、今では、一日、まったく字を書かないようなことも、もしかしたら、珍しくないかもしれなくなった。少なくとも、紙に面と向かって、字をしたためるということは、めっきり減ってしまっている。

 それに危機感を抱いたというわけでもないく、何かの会話の文脈のなかで、「自分は、文字を書くのが好きだから」という言葉を耳にして、ハッとすることがあった。そうか、文字を書くのは面倒くさいことではなく、「好き」になれるようなことであったのか、そんな気づきが襲来したわけだ。その人の文字は、かなり整ったものであるなと、以前から思っていたこともあり、彼は、仕事上でも、文字を、そして、その集積でもある文章を書くのが決して面倒ではなかったわけだな、そういう心持で、文字を書き、人に伝えてゆくことができる心の豊かさが、まったく、自分には失われていたなと、そんな思いも出てきた。

 同じく、経文を日常生活に生かしていこうという、精神生活上の個人的な新運動もあったことから、それが、ボールペン字の本で文字を整えなおして、さらに、その上で、漢字書き下し文の経文を、縦書きの便箋にしたためてゆくという、そういう形になって、結実してきた。ボールペン字の練習帳としては、「武田双葉式ボールペン字、筆ペン字練習帳」を買って、書き込んでいる。楷書とともに、行書も最初から練習できるし、小さな達成感を感じれるようなつくりになっている。また、著者の武田双葉氏は、有名な書道家の武田双雲の師でもあり、実の母親というだけあって、文字の風格も双雲の文字を生むにいたったような、堂々とした所がある。

 「書」とともに、時を過ごすこと、そんな時間を日常の中に作れるのは、まったく、悪くはない。

2013-12-10 ショーペンハウアーの悲劇論

[] 00:22

 ワーグナーの創作にショーペンハウアーの哲学がいかに影響を与えたのか、ちょっと見直してみたくなったので、約20年ぶりに「意志と表象としての世界」第3巻をひもといてみると、やはり、かなり深いところで、影響を与えていることがわかる。単純に、表面的な話の解決の仕方として、意志の否定に救いをみるのかどうかということよりも、そこに至るまでの劇作や、作曲のありかたにおいてである。

 以下、まず、劇作について、手元にある西尾幹二氏訳のものから、ポイントを抜粋してみる。


第3巻第51節より 詩芸術についての節

 「悲劇は詩芸術の最高峰であるとみなされるべきであり、また現にそうみとめられている。・・意志は悲劇においてその客体性の最高の段階に達するが、その際、このうえなく完璧に展開し、恐ろしい姿で出現しているのは、意志の自己自身に対するこの抗争にほかならないのである。これは、人間の苦悩において出現しているのだが、これを招きよせるのは、一部には偶然と間違いであり、一部には人間性そのものである。偶然や間違いは、さながら世界の支配者であるかのように、その奸悪たるや、ほとんど故意と思われかねないほどだから、運命という人間に擬せられて登場するのである」

 これは、「我執」と「苦」を基本的な特徴とみる仏教的な世界認識にもつながる部分である。ショーペンハウアーは、偶然や間違いをさらに、その契機として入れている。トリスタンとイゾルデの第三幕には、マルケ王到着のあたりで、勘違いや間違いが、こういう事態をもたらしたと嘆く台詞があるし、こういう視点からも、劇作がなされているようにみえる。


 「認識の光明で意志を和らげる程度にもいろいろあ差があって、認識がだんだん進めば、しまいにはある若干数の人々において、苦悩そのものによって認識が浄められ昇華されてゆき、認識はもはや現象に惑わされず、すなわちマーヤーの面被に惑わされることなく、「個体化の原理」である現象の形式を見破って、「個体化の原理」に基づく利己心(エゴイズム)が、そのために遂に死滅してしまうような地点に到達するであろう」

 悲劇を描くことによって、あるいは見ることによって、その主人公の心に、あるいは観客に、なにが起きてゆくのか。ショーペンハウアーは、認識の浄化と、そこからのみ到達する逆転的な救済という可能性をみる。これはショーペンハウアーの仏教理解の中心点でもある。例えば、釈迦にとっては、「生老病死」そのものをみること、それを生きることに、悲劇をみたであろう。そこから仏教の試みは始まっている。仏教には、神や「仏」をあがめる所から始まっているわけではない、徹底的なリアリズムが原点にある。

 この辺りの考察と、アリストテレスの有名な「カタルシス」論との比較は価値があろう。ニーチェが「悲劇の誕生」でやっているのかもしれないが。


 「悲劇の取り扱い方について少し立ち入った点をいまひとつ述べることをお許しいただきたい。大きな不幸を描写するのは悲劇にのみ本質的なことである。ところで、詩人によって不幸が引き出される道筋にはじつにいろいろあって、これを3つの種概念にまとめることができようかと思う。


・第一の不幸

 一人の性格的人物が不幸の張本人となって、その人の悪意が並外れて大きく、有り得る限度の最極端と紙一重のところにまで達することによって起こる


  シェークスピア「オセロ」「ヴェニスの商人」

  ソポクレス「アンティゴネ」


・第二の不幸

 盲目的な運命によって、すなわち偶然と間違いによって起こる


  ソポクレス「オイデプス王」

  シェイクスピア「ロメオとジュリエット」

  ヴォルテール「タンクレド」

  シラー「メッシーナ」


・第三の不幸

 ただ、人と人との相互の位置、すなわち関係によって不幸がひき起こされることがあるのである。こうなると、不幸が起こるのに、途方もない間違いとか、未曽有の偶然とかは必要でないし、また、悪意にかけて人間性の限界にまで達しかねない性格的人物なども必要ではなくなってくる。むしろ、道徳的な見地からすれば、普通人であるような人物が、ごくざらにある事情の下で、互いに対立する位置におかれ、その立場上なんとも仕方がなく、相互にそれと知っていながらも、きわめて大きな災禍をつくりだしてしまうことがあるのである。しかも、この場合にはいずれか一方だけが不正であるということではないのだ。この最後の種類の不幸は、前の二種の不幸よりもずっと悲劇に適しているとわたしは思う。なぜなら、これがわれわれに見せてくれる最大の不幸は、なにか例外的なこととして起こるのでもなければ、珍しい状況や怪物的な人物によって引き起こされるものでもなく、普通の人の行いや性格から自然にまたごくかんたんに出てきて、ほとんど本質的なものとして出現し、まさにこのことによって、人生にこのような不幸のあることをわれわれに怖ろしいほどまざまざと感じさせるからである・・・しかしながら、この種の悲劇を上演するのがやはり一番むつかしいと思う


 ゲーテ初期戯曲「クラヴィーゴー」

 シラー「ヴァレンシュタイン」     」


 夏目漱石の「こころ」は、この第三の悲劇に属するのではないかと思う。確かに「こころ」も劇としては上演しにくいだろう。オペラにはとうていなるまいが、トリスタンとイゾルデ風に独白オペラに仕立てられるかもしれない。視点をかえると、ドイツナチズムに巻き込まれつつある一般人や、あるいは、現在の安倍政権の近隣国を逆なでしながら軍拡政策に巻き込まれてゆく一般人も、大きく見ると、この悲劇の中の住人であろうと思う。

 だいたいの悲劇には、あるいは、悲劇的展開をする現実には、と言てもいいかもしれないが、第一から第三までの性質が入り混じりつつ、ストーリーが展開してゆくといえる。どのポイントが、物語を駆動するキーポイントになるかであろう。

2013-07-18 福島県と静岡西部のお悔み欄の比較から考えること 

[] 10:25

hitsuji44‏@hitsuji44

お客様のお嫁さん(53歳)が他界され、新聞のお悔やみ欄を覗いてみるも、その年齢の低さに驚かされる。24歳、34歳、37歳、41歳、44歳、46歳、53歳、58歳・・・。心からご冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/eRAnIijCvH



 福島在住のhitsuji44さんの、現地報告のツイートには、放射性物質の危険を、積極的に知ろうとしている私からみても、驚くようなことがあるが、今回のツイートも特にそうだった。新聞のお悔み欄の年齢という地味で静かな情報から、福島県で起きていることが、すでに、初期の体調不良の増加のフェーズを越えて、その結果が死亡年齢の低下として明らかになっているのだと感じた。添付画像をみると、確かに、20代〜40代の死亡者が軒並みならんでいて、特に、原発避難区域30Km圏に直接隣接しているいわき地区に、若年帯の死亡者が目立っている。

 手近にあった本日付の中日新聞の静岡県西部のお悔み欄を確認してみると、その差に愕然とした。この愕然感を、ちょっとした科学的な判断にまで高めるべく、高校数学でやるような統計検定をやってみた。


【元データ】

福島県お悔み欄 年齢分布

  

   若年死           壮年死       老年死

県北             (63 65 67) 

郡山(24)          (63)       (71 83 82 86 90)

会津(46)          (65)       (84 88 89 99)

いわき(37 41 44 44)   (58)      (80 93)



静岡県西部お悔み欄 年齢分布

     若年死  壮年死    老年死

浜松市       (69)   (70 73 78 81 84 86 86 87 91 92)

湖西市       (69)

磐田市、森町          (78 81 82 83)

掛川市              (82)



 単に、若年、壮年、老年に分けて並べただけでも、福島において、若年、壮年死が、顕著にめだっていることがわかる。このお悔み欄にのせるかどうかは、葬儀会社が家族に確認をして、家族の希望があった場合に載るらしい。他に、新聞社に連絡すれば、載せてくれるようであるが、静岡西部では、中日新聞と静岡新聞を比較したが、まったく同一だった。また、福島に比べ、静岡西部で、より、このお悔み欄に載せたがらない人が多いということは、同じような大都市部ではない地域柄から、考えにくいのではないかとは思う。

 また、人口は、福島県199万に対して、静岡県西部133万で、比較する集団としては、ひどくかけ離れた数字ではない。2013年度の男女平均寿命を平均してみると、福島県82歳、静岡県83歳と、ほぼ同程度である。そこで、このお悔み欄の死亡年齢の統計値を、エクセルを利用して確認してみる。


福島県  標本数 23

     平均 67.9   

     標準偏差 20.8

     

静岡県西部 標本数 17

      平均 80.7

      標準偏差 7.1


 ここで、明らかに、福島県の方が、平均寿命と比較して、この日の平均死亡年齢が低い(-14歳)ことがわかる。静岡西部は-2歳にとどまっている。さらに簡単な統計分析をすすめると、


分散の差の検定(F検定) 6.7E-5=0.000067 で、両群の分散が異なるといえる

異分散のt検定 t=0.005<<0.01


 つまり、この日の福島県と静岡県西部の平均死亡年齢が、同じ日本で特に変わることがないといえる確率は、わずか、0.5%であるということである。200個の中に一つの当たりくじがあり、これを毎回引き当てることのできる者だけが、この平均死亡年齢の分布の差がないと言い切る権利があるが、そういう人はいないから(文明国であり科学技術立国である、わが日本の最高裁事務総局、東京第五検察審査会の中の人は別にしてだが)、この差は統計的にかなり有意である。ふつうは、5%を有意水準とするので、それから考えても、かなりの差がある。この日だけ、ここまでの差がたまたまあったのだというのも、かなり無理な説明になるぐらいの差だろう。

 そこで、何がこの有意な差をおこしているのかという問いになるが、バンダジェフスキーやヤブロコフの研究を認めるならば、答えは一つで簡単である。チェルノブイリで確認されたのと同じ、セシウム137をはじめとした長寿命放射性物質の拡散である。人種的、環境的な同一性が強い日本において、これだけの集団的な健康への影響を、局地的にもたらす要因を、他に考えられるだろうか。特に、ヤブロコフは、ひたすら公になっている統計数値を利用して、チェルノブイリ原発事故の長期的な出生率低下、死亡率上昇などの有意なトレンドを数々導き出しているが、これと同じことが、当たり前だが、すでに福島でも起こってきているということの証左だと思う。さらに、それによる人体におこる病理的変化は、現在来日して、奮闘講演中のバンダジェフスキーが、大まかな見取り図を提出している。心筋へのセシウム沈着による不整脈と突然死の誘発、免疫機能の低下、肝臓や腎臓の変性など、甲状腺癌に限らない、全身に及ぶ非癌病変を起こすことを多数の剖検から、動物実験も行いながら証明した。

 

 ツイッターをみていると、本日は、ドイツ文学者の池田香代子氏が、「山本太郎をデマッターと呼んだ」と、太郎支持派から炎上レベルの攻撃にあっているようであった。彼女のデマッターの元ツイートまでたどる暇はないが、彼女の書いた新聞の中には、「極め付きは、放射線の影響が、より深刻だとされていた子供の方が、むしろ、被曝をはねかえす力をもっていることを示す知見です。」と実際に書いてあり、その具体例として、セシウムを排出する能力が高い、遺伝子修復能力も高いという内容が続く。記事全体の内容は、避難派を非難するというものではなく、「その当時の不安な状況だったら、やむを得ない判断でした。今の科学的な調査は、そんなに心配ないとされていますが、あなたたちのその判断を支持します」というような内容である。


山本太郎氏をデマッターと呼ぶ池田香代子さんへの反響

http://togetter.com/li/535118


  ここで思うのは、放射性物質の危険をどう認知しているか、これが、かなり感度の高い、知識人たち(他に、評論家、政治家、科学者、コメンテーター)の踏絵になっているのではないかということである。というのは、医学的、科学的研究が、現実に、弾圧されているということまで受け入れる覚悟がないと、バンダジェフスキー、ヤブロコフをはじめ、日本の活動家ともいえる、木下黄太、山本太郎系列は、受け入れることはできない。私も、最初はこの事実を認識したときは、さすがに驚いたのだが、さらにそれを受け入れ、行動するのは、かなりの壁がある。原発事故を受けて、おのれの信念を通したあげく、結果、芸能界から排除された山本太郎が今、「大本営は嘘だ、王様は裸だ」と、政治家候補として必死に連呼している。これに対し、文壇でず太い生命を保つ池田香代子は、「大本営がいうから大丈夫よ。王様も立派な服をきているじゃない。」と新聞で書く欄をしっかり与えられている。彼女はグリム童話とか訳しているから、この辺のからくりにはまり込んでいるかもしれないことを、いち早く自覚してもよさそうだが、あまりそのようには見えない。

  私は、こういう時代状況をみながら、放射性物質の危険性を認知し行動できるかどうかは、戦時中の大本営の嘘を認知し、行動できるかどうかと、まったく同じぐらいの、構造と、歴史的重要性を持っていると思う。いや、これは世界的な大本営である。(年余にわたる、毎日毎日続く、WHO前の、IAEAと合意なければ放射性物質についての医学研究は進めないという協定に対するデモをみよ)


IndependentWHO – 原子力と健康への影響

http://independentwho.org/jp/%E3%83%92%E3%83%9D%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%A6%8B%E5%BC%B5%E7%95%AA-2/


「原発被害に沈黙するWHO:IAEAの同意なしに発言できず」ル・モンド紙(2011年3月19日)

2011年4月 1日 (金) フランスの猫ブログより

http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/whoiaea319-5f9b.html


だから、戦前の大本営を否定するよりも、難しいかもしれない。しかし、当の日本は、原爆被害国で、さらに、海外報道をみると、チェルノブイリの4倍の放射性物質を拡散させた原発事故を起こした国である。


Fukushima nuclear cesium fallout equals 4,023 Hiroshima bombs

http://www.examiner.com/article/fukushima-cesium-equals-4-023-hiroshima-bombs

これは、核武装にこだわり、危険を唱える福島県知事を抹殺までしてきた自民党政治-官僚-特捜検察-東電による、3発目の原爆投下オウンゴールである。いや、3発目ではなく、4023発、今回の事故で自国に落としたことになる。抗弁する余地はない。本来なら、国会事故調の調査を参考にして、責任者を告発し、「福島第一原発事故裁判」を開くべきであると思う。


  日本には、この点で、人類史的な、なんらかの使命、ミッションがあると思いたいし、思うべきだと思う。自民党路線とは、つまり、これまでの日本支配層の路線とは、まったく逆行する路線であり、原爆と原発の非人道性を証明し、その廃止を行い、また、人類の未来のために、さらに国際政治的な活動へすすめてゆくという使命である。日本という国の独自性は、新しい国是は、明治以来の富国強兵路線ではなく、むしろ、ここに新たに置くべきだと思う。また、それは、以前、ブログでも触れたが、(2013-05-20 「日の丸」象徴をレイシズム、尊皇攘夷的興奮から救出できるか?http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130520日本の国旗象徴を、原子力と科学技術信仰による、本来の自然なき偽太陽神崇拝と、ガラパゴス化した誇大妄想的な尊王攘夷の日の丸から、太陽を源にする本来の自然エネルギーへの賛意、敬意を表し、それを中心として共生循環社会を築く日の丸に、生まれ変わらせることでもある。



参考リンク

1. 武田邦彦 マスコミが伝えない事実と解説 7月18日

原発事故後の日本の人口とチェルノブイリ事故後のウクライナの人口

http://takedanet.com/2013/07/post_4558.html


2. 福島県いわき市の元教員の証言動画

 「昨年いわき市の小学校で身長が1センチも伸びていない子が多い。異常」

http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/635.html

 他、鼻血が震災後はタラーではなくドーッと出ようになった等「カミングアウト」があり。教職員間では、放射能との関連付け発言はタブーだと証言。

 この動画の講師の小児科医も、統計的な調査をするべきと述べている。福島の医師がやるのが一番だが、調査自体を統制するような圧力があるとも話している。「radiophobia」「放射脳」退治には、福島と九州での、児童の身長の伸び、鼻出血や感染症の頻度などを比較検討すれば、事足りる。簡単なことであるが、これをしない。




P.S. 7月24日記

 この結果が、本当に継続的におきていることなのかどうか確認するためにも、先に阿修羅掲示板に上がっていた、5月10日から31日までの福島お悔み欄年代別データを、静岡県西部の同じ時期のものと比較してみた。ただ、この形の比較だと、統計的な有意差がでるほどの差がみつからなかった。


元データ阿修羅記事

http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/106.html


 では、この7月の一日は、偶然、福島での低年齢死去者が増えていたからなのか、それとも、今後のトレンドを先取りしはじめている徴なのか。あるいは、hitsuji44さんキャプチャー部分のバイアスを反映したものなのか、まあ、いろんな要因は考えられる。ただ、一日に40代以下が6人あったというのは、福島5月10日〜31日にもないし、静岡新聞でもそんな日はない。無視はできないことが、起きつつある徴ではないかと考えておいた方がいいのではないかと思う。そして、福島県民の方は、おかしいなと思うようなことが続くようであれば、是非、1か月分ぐらいのお悔み欄年齢を、原発事故前、2010年の同じ月一か月と比較して、簡単な統計的な検定をしてみると、見えること、言えることがあると思う。

おっちゃんおっちゃん 2013/07/19 19:38 若年死の原因として、移動や仮設生活のストレスなども考える必要があるのではないでしょうか?宮城、岩手との比較など。

sarabandesarabande 2013/07/20 18:47  福島県で特に、震災関連死が多いというニュースがありますが、これが、いわゆる震災後の過酷な環境変化や避難生活などの心理的ストレスの要因も含めた死亡を示していると思います。私も、この要因を否定するつもりはないのですが、これに、さらに、長寿命放射性物質の内部被曝の問題が重なっているのではないかと思います。以下のブログが、バランスのとれた解釈になっていると思います。
 
「福島で震災関連死が増えている  心臓を守ろう」
2013年2月25日 「明日に向けて」ブログ  守田敏也氏
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/7c9f201e69779cb487b63c6113b1ae52

5月の福島民報の記事
http://www.minpo.jp/news/detail/201305118315
発生から1年を経過して亡くなったのは129人で、全国147人の87,7%が福島県となっている。年齢は、66歳以上が91.3%



 神戸、新潟の経験から、避難生活があったとしても、「6カ月以上経過すると関連死ではないと推定される」としたいようですが、東日本大震災の場合はそうではないと議論になっているようです。神戸のときは、真冬でインフルエンザの流行、新潟のときは車中避難の長期化によるエコノミークラス症候群が問題になりましたが、福島で起きていることは、原発事故に関連した避難生活の長期化、故郷の喪失といったストレス、さらに、これに加えて、被曝の問題といった複合的なものになるのでしょう。そして、阪神、新潟、さらにこれまでの東日本大震災での「震災関連死」では少なかった、非高齢者の死亡が、特に震災後2年以上を経た今めだってくるようであれば、さらに、深い考察を要すると思います。

halloohalloo 2013/07/30 23:20 初めまして、この記事を読んで驚きました。原因不明で、若年層の死が増えているのですね。以前武田邦彦教授のHPでウクライナの寿命が事故後急激に縮んでいることは読みましたが、福島では早くでているのですね。本当に悲しさと怒りが込み上げます。私も原発関連の事をブログに書いてあるので、シェアさせてください。もちろんこちらのHPのとこと、メールアドレスを書きます。

sarabandesarabande 2013/07/31 00:27 halloさん、こちらの引用元を付記してもらえれば、どうぞ、シェアしていただいてかまいません。福島で、この記事のような一日が、どの程度、再現されていくのか見極めていかないといけないのではないかと思います。