小林一茶風日記

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2005-09-30

『ザ・フェミニズム

上野千鶴子小倉千加子

ちくま文庫

ISBN4-480-42149-1

上野千鶴子と小倉千加子の対談。

別に普通にありがちな対談という以上のものはなく、基本的にはファンが読んで楽しむような本だろう。入門的なものは期待できない。

そうしたもので良ければ、読んでみても、という本。ファンが読むのなら、多分悪くはない本だろう。

2005-09-28

『「資本」論 取引する身体/取引される身体』

稲葉振一郎

ちくま新書

ISBN4-480-06264-5

マルクス主義の再構築を目指したような感じの思弁的な社会思想論。

208ページまでは真面目に読んだ。それ以降は、殆どよく分からなかった。というよりも、分かろうとする気力が失せた、というところか。

好意的に解釈すれば、哲学者が目の前にあるリンゴを見て、そこに本当にリンゴがあるか疑っている、というような感じの本なのだろう。一般的にいえば、哲学者が何を疑っているのか全然意味が分からない、というのが大方の人のありような訳で、つまり私も本書の意味はさっぱり分からなかったが。

全体的に、マルクス主義の再構築を目指しているような本なので、マルクス主義とかが分かる人向け。というか、マルクス主義者に対して、マルクス主義は負けたのだからここまでは出ておいでよ、といっているような本ではないだろうか。

マルクス主義が分からなかった私には、やっぱり分からなかった。

しかし、ひとたび敗れた理論を再構築するというのは、非常に難しいことである

ということが分かった。

敗れた理論を再構築するには、非常に重い立証責任を伴うのだ。

実際問題として、ある理論が敗れる前は、立証責任が完全に理論の提唱者に求められている訳ではない。

極めて単純化していうと、ある理論が敗れる前は、その理論が失敗するという証明がなされない限り、その理論は成功する可能性があるものとして受け取られる。ひとたびその理論が敗れたならば、その後は、その理論が成功するという証明がなされない限り、その理論は失敗するものとして受け取られる。

一度その理論が敗れたなら、次からは、その理論は再び失敗するだろうと推測することが、合理的な推論になる。一度失敗した理論が次は成功するだろうと合理的に推論付けるには、かなりの根拠を必要とする。

敗れる前と後とでは、このようにして、理論に求められる立証の強度が違ってくる。

失敗した理論とまだ失敗していない理論を同列に扱っていては失敗が繰り返される危険性が無駄に高まるだけだから、失敗した理論には何らかのペナルティが必要であり、立証の強度が異なることは当然のことではあろうが、そもそも、成功するという証明が完全になされていたのならば、失敗はしない。成功する証明なんかできっこないから、その理論は、失敗する以前には、成功する証明がなくても受け入れられていたのである。それが、一度失敗したから今度は成功する証明を出せ、といわれて、はいそうですかと出せるはずもない。

敗れた理論を再構築するには、この重みに耐えねばならない。

成功する証明までは求めないとしても、以前には証明できていなかった何かを証明する必要があり、ひとたび敗れた理論を再構築する際には、その理論がうまくいくという立証責任は、理論の提唱者に重くのしかかってくるのである。

つまり反対者は一言こういえば良いのだ。論証が不十分である、と。

2005-09-26

たとえ客観的に見て、どんなに実力不足で、勝てる可能性に乏しいとしても、出場する以上は、応援する方としては主観的に見て一縷の期待を持つものだろう。

単に応援するだけでもそうだろうし、ましてや活動資金を出しているとなれば、尚更である。

映画や漫画では、弱い選手やチームが、逆転優勝したり、勝てないまでも好勝負を繰り広げたりするのが定番であるが、人間、多少なりともそういう夢を持つことは当然であり仕方がないことであるように思われる。

しかし、創作物ならぬ現実の世界では、実力不足の者が勝つようなことは、大数の法則に従って圧倒的に少数であり、実力のない者はやっぱり負ける。

負けた理由はもちろん、実力不足、の一語に尽きる訳だが、さてその場合でも、「実力がありませんでした負けました」、で済むのだろうか。

自己ベストを出して予選落ちするオリンピック選手とか。地方予選の一回戦でコールド負けする高校野球部とか。ダービーに出走した殿人気の馬とか。それでお金をもらっているプロの選手は特に、実力不足は言い訳にならないだろう。

いくら最初から分かっていたこととはいえ、出場する以上は期待をする訳で、負けた時にその期待をどう清算するのか、やり場のない怒りをどこに持っていくか、ということは、やっぱり、問題になるのではないだろうか。

2005-09-23

『刀狩り 武器を封印した民衆』

藤木久志 著

岩波新書

ISBN4-00-430965-4

近世近代における日本人の武器保有について書かれた本。

内容的には、豊臣秀吉が行った刀狩りは、武士と百姓の身分差をはっきりさせることが目的で、民衆から武器を取り上げたものではなかった、日本人が武器を持たなくなったのは、寧ろGHQの武装解除命令に拠るところが大きい、というものであり、テーマ的には、日本人は自らの意志で武器を封印してきたのだ、平和憲法を守れ、という本。

どうも内容とテーマとが必ずしも一致していない感はあるが、そういう、岩波らしいと苦笑するしかない本ではある。

私個人的には、些か旧聞に属する印象はあったし、こういったものは好きではないのでパスしたいところだが、こういうのが良いという人や、秀吉の刀狩りで近世の百姓は武装解除されたのだと思っている人なら、読んでみても、という本だろうか。

問題点としては、史料の制約もあるだろうし、単なるレトリック上の問題なのかもしれないが、論証に使われている史料が断片的で、初めに結論ありきでやや強引な部分もあるような気がする。当時の人々が自らの意志で武器を封印したのだ、ということは殆ど全く論じられていないし、私としては寧ろ逆に、この著者は秀吉が押し付けたものだと考えているのではないかと、読んでいる途中では思っていた。

全体的には、特に悪いということはないので、別に薦めはしないが読んでみたいのなら読んでみても、という本ではないかと思う。

以下メモ

・戦乱の絶えなかった中世において、刀を指して武装することは立派な大人としての証であった。

・近世の村々の争いにおいても、他人の脇差を取ることは、重大な逸脱行為と看做された。脇差が、帯刀を許されなかった一般の百姓にとっても、それだけ重要なものであると認められていたのである。

(つまり、日本刀が武士の魂だというのは、鈴木眞哉がいうよりは根が深そうだ)

2005-09-21

小沢一郎をまた民主党の幹部にしよう、というのは、よく分からない(断られたが)。

この前の選挙で民主党が大敗したのは郵政民営化法案を傍観したことに決定的な要因があるのは疑いのないところだが、普通に考えれば、何故郵政民営化法案を傍観したのかといえば自民党内に渦巻く反対論を見透かして小泉政権の弱体化を狙ったからであり、その戦略を立案したのは、小沢一郎、だったのではないのだろうか。

この仮説が正しいとするならば、小沢こそが民主党敗北の責任者であり、非難する声が上がりこそすれ、再び幹部に、などとは決してならないように思われる。そうなっていないということはつまり、この仮説が間違っている、ということを示しているのだろうか。

2005-09-20

『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』

斎藤慎一 著

中公新書

ISBN4-12-101809-5

本能寺の変から小田原の陣直前までの北関東の政治史を語った本。

北条軍と反北条の佐竹・宇都宮等が対陣した沼尻の合戦を中心に、その前後の北関東の情勢を、豊臣秀吉や徳川家康の動きと絡めて描いた歴史読み物。タイトルのようなことは、一応、自力によって領土を守り支配を広げていく中世的考え方から、公権力の権威に頼る近世的発想への移行、ということが、彩り程度には語られているが、基本的には、歴史の細かい動きを追っている本だと考えて間違いない。

歴史の細かい部分をがたがたとやっている本だし、北条vs反北条という北関東の動きを、北条と同盟した家康vs秀吉という中央での動きと連動させながら興味深く描いているので、戦国好き歴史好きな人ならば、読んで損はない本だと思う。私としてはかなり面白かった。

問題点としては、全体的に読み物っぽい感じで、余り論証は多くないような気がする。

後、これは問題点ではないが、地方の細かいことを追っているので、ある程度この時代の歴史を知らないと楽しめないだろう。豊臣秀次のその後はどうなったのかとか。

そうしたもので良ければ、結構楽しめる本。戦国時代の好きな人なら、お薦めできると私は思う。

以下、メモ

・辻加賀守という人物は、(おそらく仕官の際)佐竹家に出した申告書に、北条に仕えていた当時、沼尻の戦いで佐竹方の首を取ったことを堂々と書き記している。

・北条のような大大名が上洛するとなれば、進物等に多大な経費が必要だった。

2005-09-16

『闘えない軍隊 肥大化する自衛隊の苦悶』

半田滋 著

講談社+α新書

ISBN4-06-272331-X

自衛隊の海外派遣を巡るドタバタ振りをいくつか描いた本。

それ程たいしたことが書かれているのでもないが、それなりの読み物といえば読み物という本か。改憲反対、という通奏低音が結構うざいので、私には余り好きになれる本ではなかったが、そうしたもので良ければ、読んでみても、というところ。

しかし、著者は普段付き合って取材している自衛隊制服組の人たちに対してそれなりの共感なりリスペクトなりは持っているようで、その上で、改憲反対という方向に導こうとするならば、制服組の上にいる背広組や官邸が悪いという風にならざるを得ないだろうということは容易に考えられ、著者が本書で行っているような官邸批判がどこまで当たっているのかには、疑問の余地があるかもしれない。

そうした点も含めて、私としては余りお薦めするような本でもない。

以下、メモ

・サマワの自衛隊は、外務省に権限があるODAを使って、イラク人を雇い、公共施設を作っている。つまりODAで安全を買っている。

・御巣鷹山の日航機事故の時、自衛隊の現地部隊に夜間暗視ゴーグルがなく、夜明けまでヘリが飛行できなかった。

2005-09-13

犯罪は「この場所」で起こる』

小宮信夫

光文社新書

ISBN4-334-03319-9

犯罪社会学の入門的読み物。

主な内容としては、犯罪は、入りやすく、見られ難い場所で行われることが多いので、そのような場所を減らして犯罪の機会を少なくすることが重要だ、という話と、そうした考えに基づいて米英でどのような犯罪対策が行われているかを紹介したもの。

光文社新書らしい入門書だといえばそういう本なので、そうしたもので良ければ読んでみても、という本ではあるのかもしれないが、ただし、結構欠点が大きいので、お薦めにするには足りない。

欠点というのは、全体に殆ど無批判の礼賛であること。バラ色のことばかりが書かれていて、立ち止まって深く考えてみようという契機がない。本書の半分くらいは米英の事例の紹介だが、日本とは司法制度やボランティアの考え方が大きく異なるし、社会が違うのだから、それがそのまま日本に当てはまるということはないだろう。後、最後のところに出てくるデジタルアナログアナロジーは、殆どどうしようもない。

入門書だからと割り切る手もあるかもしれないが、このような欠点が大きいので、本書は、私には余り良い本だとは思えなかった。

メモ1点。

・きちんと整理整頓された机は、物がなくなればすぐに分かるので、犯罪者の標的になりにくい。

2005-09-11

妖精のアイルランド 「取り替え子(チェンジリング)」の文学史

下楠昌哉 著

平凡社新書

ISBN4-582-85286-6

アイルランド民話がアイルランド人文学者に与えた影響について書かれた本。

内容的には、アイルランドにおいて大英帝国からの独立、自治獲得を目指す民族主義的運動が盛んになっていた19世紀末から20世紀初頭にかけての、アイルランドに出自を持つ文学者たちの作品に、アイルランドの民話や古い共同体において、急に亡くなったり、共同体にそぐわない人物がそれに成り代わったとされてきた妖精「取り替え子(チェンジリング)」というモチーフが、いかなる痕跡を残したか、ということを探ったもの。

著者の主観的には、もう少し違ったモチーフがありそうではあるが、それは私にはよく分からなかったし、私が期待したような歴史民俗学的な部分も多くなく、大体においては、文学読み物、と考えておけば良い本ではないかと思う。

文学を読んでいない私が文学読み物を読んでも楽しめるはずはなく、私には別にどうということもない本であったが、ブラム・ストーカーオスカー・ワイルドラフカディオ・ハーンジェイムズ・ジョイス等を読んだことがある人には、多分それなりの本なのではないだろうか。

全体的に地に足のついた実証ではなく、「ケルトという概念」とか、「想像力のネットワーク」とかの、分かったような分からないような言葉で論旨をけむにまいている印象があるにはあるが、文学読み物はこんなものではあるかもしれない。

文学読み物で良ければ、読んでみても、という本ではないだろうか。

2005-09-09

『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』

北野圭介 著

平凡社新書

ISBN4-582-85285-8

日本映画がアメリカでどのように紹介されたかを、日米関係の文脈の中で探った本。

私にはそれ程面白い本でもなかったが、特に悪いということでもないので、文化評論としては、多分それなりの本ではないだろうか。私は、映画が好きでもないし、映画評論を読んだことも殆どないので、余りよくは分からないが。

私が受けた印象では、日米関係の中で映画を論じるという本書のパースペクティブが、焦点が狭すぎて雑学本としては必要な遊びに欠けるし、その割に踏み込んだテーマ設定があるのでもなく、大風呂敷を広げただけという感じがややあるようには思われる。

ただ、それで特別酷いという程ではないし、他の映画評論がどういうことをいっているのか私は知らないので、こんなものではあるのかもしれず、興味があるなら読んでみても、というところではないのだろうかと思う。映画評論をよく読む人とかには、それなりの本ではあるのかもしれない。

特に面白い訳でもなかったが、別に駄目という程でもない本。読んでみたいのならば、読んでみても、というところだろう。

メモ1点。

・60年代のアメリカにとって日本は、非西欧諸国が共産主義によらなくてもこのように近代化が可能なのだ、という展示見本としての役割を持っていた。

2005-09-06

梶原一騎伝 夕やけを見ていた男』

斎藤貴男

文春文庫

ISBN4-16-744304-X

梶原一騎の評伝。

私には余り好きになれるタイプの本ではなかったが、全体的には普通の評伝だといえば普通の評伝なので、興味があるならば読んでみても、という本ではないだろうか。

薦めはしないが、特に悪いというものでもないと思う。

私が好きになれなかった理由は、一言でいえば、この腐れ左翼が、という感じか。良くいえば感傷的、悪くいえばナイーブな感じのする本。文庫あとがきの最後のところに、「人間が人間であることができた時代を惜しんで」などと書かれているように。

(どっちかというとこういう科白は腐れ保守が吐くものだろうが、そこが腐れ保守と腐れ左翼は紙一重というか、斎藤貴男が文春と岩波の両方に書ける所以なのだろう)

私は梶原一騎にそれ程の思い入れはないし、本書を読んでも好きになれるタイプの人ではなかったので、著者の梶原一騎に対する共感に共感できない、という感じもある。

だから私としては薦めないが、それでも読んでみたい人には、特に悪いというものでもないのではなかろうか。後は御随意に、というところだろう。

2005-09-04

『絵巻で読む中世

五味文彦 著

ちくま学芸文庫

ISBN4-480-08933-0

院政時代の絵巻に関して書かれた読み物。

全体的に、好事家向けに書かれた別に普通にありそうな歴史読み物で、特別でもないがどこが悪いということもないので、面白いと思える人には、多分面白いのだろう。私には、中世日本史に関して本書を面白いと思えるまでの知識はないが。

文庫本サイズのせいか、絵の細かい部分が分かり難いような気もするが、中世日本史が好きで読んでみたいという人なら、読んでみても、という本ではないだろうか。それ以外の人に、特に、という程のものはない。

2005-09-01

あるネタを思い付いたのだが、考えてみると、どうもそのネタはどこかで読んだことがあるような気がして、自分のオリジナルかどうか、自信がない。

どこかで読んだような気もするし、なかったような気もするし、単に自分が昔同じことを考えただけのような気もする。

しかし、別の人が書いたものを、半年とか一年前に読み、ある日ふと思い出して、自分のネタだと思い込んだまま、自分のブログに書いてしまう、などということも、これだけブログがはびこっている現在、絶対にないとはいえないだろう。というか、マーフィーの法則に従って、いずれ必ずどこかで起きるのではないだろうか(あるいは既に起きているか)。

ブログにおいて(無意識的に起こる)このような盗作を防ぐ最大の方策は、多分、時事ネタを扱うことだろう。

今日起こった事件に関して今日自分が思ったことは、確実に自分のネタである。たとえ、一昨日の事件に関して一昨日誰かが同じことを言ったのだとしても、それは今日の事件に関する考察ではあり得ないのだから。

今日放送されたテレビの感想でも同じだが、個人的なイベントに関しては、誰かが以前に同じ経験をしている可能性は、ある。

つまりブログにおいては時事ネタを扱っておくのが無難だということだ。

ちなみに、思い付いたのはこんなやつ↓。

どこかで誰かが書いていたら、多分それのパクリに違いない。

挨拶

昼過ぎに出社した時の挨拶には、難しいものがある。

「おはようございます」という時間ではないし、「こんにちは」というのは、如何にも何か違うような感じがするのは、私だけだろうか。

「こんにちは」に何故違和感があるのか、と考えてみると、仕事は日が昇った直後の朝早くから行うのが一般的だから、「こんにちは」を使う時間帯ではそれだけサボっている、という感覚があるのか、あるいは、「おはようございます」に、さあこれから仕事を始めましょうという含意があるのだろうか。

フレックスタイム制で、昼過ぎに出てくるのが珍しくない会社の人とかは、どう挨拶しているのだろう。夜に仕事をする水商売の人なら、挨拶が「こんばんは」でも違和感はないし、交替勤務を行う職業なら、多分「こんにちは」を普通に使うのだろうが。

芸能界では、どんな時間でも挨拶はすべて「おはようございます」を使う、と言われているが、珍妙なようで、実はそれなりに合理的な習慣ではないのかと思う。昼過ぎに人が集まって一緒に仕事をしようという時、「こんにちは」では、やはり違和感があったのではないだろうか。

フレックス・タイムが広く一般的になった場合、挨拶は「こんにちは」が使われるのか、時間にかかわらず「おはようございます」が使われることになるのだろうか。

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