小林一茶風日記

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2007-03-30

『写楽 江戸人としての実像』

中野三敏

中公新書

ISBN978-4-12-101886-1

東洲斎写楽が誰であったかに関して書かれた本。

基本的な主張としては、写楽が誰であったのかは、斎藤月岑の『増補・浮世絵類考』に「俗称斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住む。阿波侯の能役者」と書かれている通りであって、その記述から戦前は写楽が誰であったのかは殆ど疑いがもたれていなかったのに、戦後になって謎めいた人物のように捉えられたのは、江戸時代の身分制度やそれに基づいた雅と俗の二元的な文化のあり様、つまり阿波藩お抱えのれっきとした士分にある者が、浮世絵、なかんずく河原者を描くことは堂々とできることではなかった、ということが分からなくなったからだ、と説かれたもの。

本の出来栄えとしては微妙なところであると思うが、こうした主張そのものは、写楽が誰かということを斎藤月岑が書いていたことも知らなかったので、私には面白かった。

それ程積極的に薦めるのではないが、こうした主張に興味があるのなら、読んでみても良いかもしれない。

本の出来が微妙だというのは、一つは、意識して擬古文的にしているのかどうかは知らないが、凝った文体で読みにくいこと。もう一つは、著者の主張は、10ページ足らずのはじめにを読めば私には殆ど分かったので、後は、先が読めるというか、ほぼ予定調和で動いていく感じがあったこと。良くいえば、その主張を敷衍・論証したもの、ではあるのだが、それが楽しいか、というと、また話は別だろう。

全体としては、やや微妙。積極的に薦めるのではないが、それでも読みたければ読んでみても、というところだろう。

以下メモ

・江戸文化において元禄や化政期が特筆されてきたのは、庶民文化をよしとする近代的な観点から、町人文化の勃興期や爛熟期が注目されたのであり、江戸文化そのものとしては、その中間期の方が、古雅な上層文化と町人文化とが調和した一つの絶頂を示している、といえるだろう。

・『江戸方角分』によれば、多田人成は、大田南畝の弟、島崎金二郎である。

この本によれば、加陪仲塗という狂歌師がいたらしい。

次のHNは、土師上塗にしよう。

2007-03-28

『かたき討ち 復讐の作法』

氏家幹人 著

中公新書

ISBN978-4-12-101883-0

江戸時代の敵討ちに関していろいろなことが書かれた雑学読本。

基本的に、よくある江戸読み物、と考えて間違いないが、事例もそれなりにあるし、割と良質の江戸読み物といっていいのではないだろうか。

私はこの著者の本は何冊か読んでいるが、その中では上位に来る出来栄えだと思う。

後は、ありがちな江戸読み物なので、特に述べておくようなことはない。江戸読み物が好きな人や興味のある人なら、購読しても良い本だろう。

以下メモ

・怨む相手を指名して先に自害すれば、相手を切腹に追い込める習慣があった。

山鹿素行をはじめ、江戸初期には、敵持にはなんとしても逃げ延びることが勧められている。

・幕府によって正式に敵討ちが認められるのは、父や兄等の目上の者のかたきを討つ場合であり、弟や子のかたきを討つのは認められなかった。

・合戦や敵討ちに明け暮れた戦国から江戸初期の人々は、殺されるのは非業の死であり畳の上で死ぬことをよしとするような現代の死生観とは、異なる死生観を持っていたのではないだろうか。

クリスマスセックス関係についてのメモ書き。

私はキリスト教信仰していた時期もあるのだけれど「クリスマスにケーキを買ったりデートしたりする具体的な理由」は知らないし、検索しても出てこないんで教えてくだちい。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070327/1174987584

クリスマスを冬至祭りであるとすると、近代以前の太陽信仰社会においては、冬至は太陽や太陽が司る穀霊、精霊が再生する日であって、世界各地で聖婚儀礼が行われていたのだから、冬至であるクリスマスに、新たに太陽を産み出すための生殖行為が営まれるのは寧ろ自然なことである、という発想はすぐに思い浮かぶが、日本人一般がクリスマスを冬至として理解しているか、という問題と、聖婚儀礼は通常王族や支配者層が行うものであるのに、現代日本においては一般庶民が行うのは何故か、という問題があり、直接結び付けるにはまだちょっと距離があるだろうか。

前者については、勤労感謝の日がずれてしまったので、冬至に当たる祭りがなくなってしまった、ということで逃げることができそうだ。正月は、長い間立春正月だった訳だし、平成の御世でも天皇誕生日というのは不敬罪のそしりを受けかねないだろう。

後者はどうするか。花魁と遊ぶのは聖婚儀礼だ、という話でも持ってくるのだろうか。

2007-03-26

『生命のセントラルドグマ RNAがおりなす分子生物学の中心教義』

武村政春

講談社ブルーバックス

ISBN978-4-06-257544-7

DNAからタンパク質が合成される過程や、RNAの機能について書かれた本。

タンパク質合成までの過程がすっきりと一通り解説されているし、書き慣れていて読みやすい感じもあって、私には良い本だった。興味があるなら、お薦めしたい。

欠点としては、仕方がないことではあるのだろうが、むやみにカタカナが多いような気はする(プロモータークリアランス(RNAポリメラーゼがDNAのプロモーター領域上に結合した基本転写因子から解き放たれてmRNA合成を開始すること)とか、エクソン・ジャンクション複合体(スプライシングによってエクソン同士が結合した時、その接合部につくタンパク質)とか、リコーディング(mRNA上のコドンの翻訳が、一塩基ずれるなどして、読み替えられること)とか、クロマチン・リモデリング(DNAがヒストンに巻き付いて作る構造(クロマチン)が遺伝子発現を活性化したり抑制するために変化すること)とか、アンチセンス阻害(DNAやRNAの二本鎖の内、遺伝子をコードしている方をセンス鎖、それと相補的な方をアンチセンス鎖というが、mRNAと相補的なRNAを使って、タンパク質合成を阻害すること)とか。全くの初心者が読むと、少し混乱するかもしれない。

しかし、そうしたもので良ければ、一通りまとまった良い本だと思う。

興味があるのなら、お薦めしたい。

以下メモ

・mRNAにコピーされたイントロン領域は、すべて「GU……AG」という塩基配列になっている。

・mRNAはDNAの忠実なコピーではなく、スプライシング以外にもいくつかのRNA編集が行われることがある。

・スプライシングを受けたmRNAには、エクソン・ジャンクション複合体や、その他のタンパク質がくっついて、そのmRNAが正常に作られたものであるということを示す。エクソン・ジャンクション複合体より前に終止コドンがあるmRNAは、分解される運命にある。

2007-03-23

クイズ 宇宙旅行 逃げる宇宙船に追いつくにはどう操縦する?』

中冨信夫

講談社ブルーバックス

ISBN978-4-06-257542-3

宇宙飛行に関して書かれた雑学本。

SF的なものではなく、現実宇宙開発やそれに伴う(有人)宇宙飛行に関して、あれこれのことがクイズ形式で書かれたもの。

クイズ形式であることは、答えの誤植もスルーされてしまうくらいどうでもいいことのようだが(序に書くと、スペースシャトルでは49分ごとに昼と夜が繰り返されるのなら、一日の長さは、その倍の約100分間が正しい答えになるのでは)、全体的には、特に良くもなく、悪くもなく。

コンビニ文庫とかにありがちな雑学本、と考えてほぼ間違いのない、殊更に述べておくようなことはない本なので、そういうので良ければ読んでみても、というところだろう。

以下メモ

人間は毎分一回転以上は生理的に耐えられないので、トーラス型の宇宙ステーションは毎分一回転の遠心力で1gの力を発生させる半径830mよりも大きなものになるだろう。

虫歯のある人は、(治療してあっても)気圧の変動によって痛みに襲われるので、宇宙飛行士に適さない。

・トマトの種を、地球周回軌道上で6年間X線等に曝しても、殆どが正常に発芽し、実をつけた。

2007-03-21

男性一人称について

対して、男性が日常的に使用可能な一人称は多彩だ。

http://d.hatena.ne.jp/akio71/20070320

一人称というのは、キャラクターではなく、TPOによって使い分けがなされるのではないだろうか。少なくとも、東京に在住か在勤のサラリーマンにとっては。

仕事の場合や、その他多少なりともあらたまった口調で使うのが、「わたし」。

友達などの近しい間柄でため口の時に使うのが、「おれ」。

「ぼく」、は少々特殊で、よく分からないが私の勘では、先輩や年上の人、目上の人、あるいははっきりとそうではなくても多少の敬意を表すべき人に対して、くだけた口調で接したい時に使うのではないかと思う。例えば、取引先の人と飲みに行く時に、「おれ」はないし、「わたし」では硬いと思ったら、「ぼく」だろう。

ボク女が変なのは、女性性を嫌ってボクと言っているのに、そこで一歩謙って女性性を発露してしまっているから、なのだろうか)

友達とため口でしゃべるのに、「わたし」と言う奴はまずいない、というか、「わたし」と言っている時点で、ため口ではない気がする。「ぼく」もかなりの少数派ではないか。スポーツ選手は、テレビ出演やインタビューの時に「ぼく」を使うことが多いような気がするが、上下関係に厳しい体育会で鍛えられているから目上の人に「おれ」を使っちゃう人は多くはないだろうものの、芸能人でも、相当に売れている人や不遜キャラの極少数を除けば、大概は「ぼく」を使うようにも思うので、視聴者に対して多少の敬意を示しつつ親しみやすく接するという点で、テレビ的なTPOに合っているのだろう。

つまり結論としては、男性が日常的に使用可能な一人称は、多彩なようで多彩ではなく、極端な例を除けば、キャラクターによって使い分けるものでも余りない、といえるのではないだろうか。

2007-03-20

皇室外交とアジア』

佐藤考一 著

平凡社新書

ISBN978-4-582-85361-2

東南アジアを中心としたアジア諸国との間の戦後の皇室外交について書かれた本。

これといったテーマはないので、基本的に、誰それがどこそこに行った、という記述がメインになる本で、個人的には、あんまり面白いとは思わなかった。

後は、内容以外の面白み、となると、我らが皇室の方々はその徳から外国でこのように歓待されている、皇室万歳、ということになるのだろうか。皇室敬愛の傾向はあるだろうものの、最初からそれのみを期待して読むような本でもないのでは、とは思うが。

一応のまとめといえばまとめだし、どこか特に悪いという訳でもないので、誰がどこに行ったで十分面白そうだとか、皇室万歳、という人なら読んでみても良いのかもしれないが、私には、余り面白い内容の本だとは思えなかった。

2007-03-16

中世賤民の宇宙 ヨーロッパ原点への旅』

阿部謹也

ちくま学芸文庫

ISBN978-4-480-09047-8

ヨーロッパ中世人の思惟構造に関していくつかのことが書かれた本。

11、2世紀のヨーロッパにおいて、均質的、抽象的で普遍的な、空間と時間の捉え方、モノを媒介としない人間関係、が生じたのであり、それ以前には、自分たちの内側にある宇宙と、それとは異なるその外にある荒涼とした宇宙、直線的でなく円環的な時間、贈与・互酬に基づく人間関係の中に、人々は生きていた、ということを主要なモチーフに、それに関連したいくつかの事柄が述べられたもの。

私はこの人の本を読むのは多分本書が初めてだが、内容的には確かにそれなりに面白いのだろうものの、著者の論理の筋を追うのが難しい箇所が結構遍在していて、余り良い本ではないと感じた。

一例だけ挙げると、p278に、現代人の宇宙像と中世の宇宙像は違うから、中世の「図像をわれわれは解読できないんです。どのようなものを中世の人びとが怖れたか、そのおおよそのイメージは図像を見れば、ある程度は呼び起こすことができます」と書かれているのは、図像を解読はできないがイメージならば分かる、ということなのだとしても、こうすんなりと順接になっているのは日本語としておかしいと思う。

著者の論理の筋道を辿るのは大変だし、私には完全には辿れない箇所もあって、著者のいうことをどこまで信用して良いのか、よく分からない感じがある。序に書いておくと、著者の考えとしては、空間や時間概念の変化の更に大元の要因として、人間関係の変化があった、といいたいようだが、そのこと自体はどこにも論証されていない。

全体として、無理に読む程のものでもない、というところではないだろうか。普通一般の読者がわざわざ読んでみる程の本でもないのではないか。著者のいうことが正しくて、中世ヨーロッパや近代というものを見る視点として本当に重要なら、遅からず誰かが解説してくれるだろうから、それを待つ、という手もあると思う。

本書は、論理の筋を追うのが難しく、基本的には余り良い本ではないので、無理に読む程のものではないだろう、と私は考える。

以下メモ

・ハインペルは、歴史的現在を画するのは、破局とそれを甘受する者の歴史意識の構造だとひとまずおいた。

ゲルマン人は、死者もまた(現世やどこか別の場所で)生きているという観念を抱いていて、死者が必要とする財宝等を墓や秘密の場所に埋めていたが、キリスト教が普及すると、死者のための財宝を、死者の霊の救済のために教会等に寄進するようになった。こうした寄進は、現世において報酬を受けるものではなく、来世において果報を受けるべき、現世においては無償となる贈与であって、霊の救済のための贈与が、必要な金額が単純な貨幣数量で換算されたり、土地の寄進から土地の売買の形式が発達したりして、贈与社会から交換経済への変革の基盤となった。個人が救済され、あるいは教会がより多くの寄進を受けるためには、個人が家族共同体から離れ、自由に処分可能な私有財産を持つことが必要であり、こうして、教会が、共同体から離れた公のものとして中世ヨーロッパ人の前に立ち現れた。

破局

と、それを甘受する者の歴史意識が、歴史的現在を決めるのだとすると、おそらく私にとって、歴史的現在はバブル崩壊から始まる、といえるであろう。

ある人にとっては小泉訪朝からかもしれないし、ベルリンの壁やソ連の崩壊、あるいはアメリカに縁のある人の中には、2001.9.11からという人もいるかもしれないが、北朝鮮は拉致なんかやっていないと思っていたのでもないし、共産主義に共感していた訳でもない私にとっては、やはりバブル崩壊という破局が大きい。

バブル崩壊で何が破局したというのか。

今日冷静に考えれば変なことのように思えるかもしれないが、あの時代、日本の経済が世界一になるのはそう遠くない未来のように思われていたし、21世紀は日本の世紀だ、くらいに、これは私が長谷川慶太郎の読者だったからというのではなくして、多くの人が思っていたのだと思う。1980年代というのは、そういう時代だった。

バブル崩壊というのは、今から振り返って考えてみれば、その幻が幻でしかないことが露呈した現象だった、といえるのではないか。

日本が世界一になるというバラ色の未来が、バブル崩壊によって破局を迎えたのである。

多分、バブル経済というのは、ただの好景気ではなくて、日本が世界一になる前夜祭の無邪気な高揚感であった。

好景気ならばこれからの日本にもいくどとなく訪れるだろうが、あの高揚感は、バブル経済を知らない若い人は、もう味わうことがないのではないか。再びやってくるとしても、幻滅を味わった世代が消え去る4、50年以上は後のことではないだろうか。

話は変わるが、それを考えると、バブルより50年程前の1930年代日本人にとっても、その時代は日本が世界一になる前夜祭の時代、10年か20年経ったら、日本が世界をリード、もしくはこの場合文字通り支配しているように思えたのではないだろうか。

(そのバブルがいつはじけたかについては、多分議論の余地がある。日本は日中戦争にも負けつつあったのだから。破局は1945.8.15に一遍に来たのではないだろう)

今日的な視点で、日本がアメリカと戦争なんかして勝てる訳がない、それが分からないのは冷静さを欠いた馬鹿ばかりだ、と断罪するのは、バブル当時その幻を見抜けなかった私としては、天に唾する行為であるのかもしれない。

ちなみに、このように歴史的現在が破局によって画期されるのは、現在とは未来を指向するものだからである。1941年の日本人と1946年の日本人が異なる未来を指向したことは、論を待たないであろう(天皇制打破や共産主義革命を目指していた極少数の人にとっては同じだったかもしれないが)。1946年と1986年の日本人も、実際には違う未来を指向していたかもしれないが、1986年の日本人から見て、1946年の日本人が指向する未来は自分が指向するもの(一言でいえば、経済成長か)とそれ程変わっていないと感じられただろう。そして、バブル崩壊を経た2007年の日本人(の内の少なくともある人々)は、もはや経済成長などという未来は指向していないだろう。

1986年の私が実際に経済成長を指向していたかどうかはやや疑問だが、それでも、21世紀は日本の世紀だ、くらいには確かに思っていたし、指向しようがしまいが、私の未来は、当時確実にその辺りにあった。

2007年の私から見て、1986年の私は同じ未来を指向してはおらず、従って、2007年の私と1986年の私は同じ歴史的現在にいるのではない。2007年の私にとって、歴史的現在は、バブル崩壊から始まっているといえる訳である。

そうすると、(今の)私にとって歴史的現在とは、予めバラ色の未来を持ち得ない現在、日常的でささやかな未来に賭けるしかない現在、といえるのだろうか。

2007-03-11

『採用力のある面接 ダメな面接官は学生を逃がす』

太一朗 著

NHK出版生活人新書

ISBN978-4-14-088212-2

採用コンサルタントが面接に関して書いた読み物。

著者のいうことも分からなくはないし、第三章が若干意義不明な他は読み物として特に悪いという訳でもないが、実技中心ではないので本書のようなものを必要とする人向けに良い本ではないと思うし、かといって必要のない人が読むような本でもなく、総合的には、結構微妙な本か。

必要とする人が何冊か読む内の最初の方の一冊なら、実技といってもそんなに特殊で目から鱗が落ちるようなテクニックが他書にあるのでもないだろうし、読み物っぽく読めるので読んでみても、というところ。

第三章が意義不明だというのは、著者はどういう意図でこれを書いているのか、例えば、どういうタイプの人が論理的な話ができない印象を与えるのか、ということが書いてあるのだが、こういう人は論理的な話ができないから落とせ、といいたいのか、論理的な話ができない印象を受けても単にそういうタイプというだけだから落とすな、といいたいのか、あるいは、面接を受ける学生向けに、こういうのは論理的な話ができない印象を持たれるから気を付けろ、といいたいのか、著者が第三章で何をしたかったのか、その目的が、私にはよく分からなかった。

はっきり悪いという程酷い訳でもないが、別に薦めるような本でもないと思う。類書にどんなものがあるのか知らないので、必要とする人にはこれでしょうがないかもしれないが、余り良い本ではない、と私は考える。

以下メモ

集団面接では、前の人と違うことを言おうとして、おかしな回答になることがある。

・面接官は、その人が会社に入ってからの働きぶりを想像しながら、質問していく。そのために、「学生時代は何に打ち込んだか」「どんなアルバイトをしたか」を聞く。「克服したこと」「今までで一番辛かったこと」等を質問して、その人のストレス耐性を見る。志望動機を聞くのも、好きならば多少嫌なことがあっても頑張れるだろう、と考えるからである。また、面接中にその人の過去の経験を聞いていく中で、何故それをしたのか、と質問して、その人の論理的な思考力を推し量る。

2007-03-10

持ち株会社

を現すホールディングス(Holdings)というのは、当然holdから来ていると思う訳だが、略す時に、しばしばHDとするのは何故だろう。

2007-03-08

『ワインと外交

西川恵 著

新潮新書

ISBN978-4-10-610204-2

饗宴外交に関して書かれた本。

基本的な内容は、誰それがどこそこに行った時の饗宴には、どういう食事が出されて、飲み物(主にワイン)は何だったか、ということが記述されたもので、そんなんで面白いのかと私なら思う訳だが、それで面白そうだと思える人向きの本なのか。

ワインとかグルメとかに興味がある人には、良いのかもしれない。

雑誌の連載を元にしている、ということで、時事解説としては、饗宴の内容から両国関係や関係の変化へ向けたホスト国のメッセージを読み取る、というのは確かにありなのではあろうが、ある程度リアルタイムに読める雑誌ならばともかく、一冊の本としては、そこにもう一つ何かテーマが欲しかったところではないだろうか。

蘊蓄系の話もなくはないが、メインでもないし、饗宴外交とは関係ない、何とかの料理にこのワインは合う、という話が多い。

料理の種類やワインの銘柄がずらずらと書かれているのだけを見て楽しめる、という人には良いのかもしれないが、私には、本書は物足りなかった。

以下メモ

鳥インフルエンザ流行して以降、多くの国で外国の首脳に野鳥や鶏を出すのは控えるようになった。

・中国の首脳は外国を訪問する時プロトコルにこだわるが、それはその歓迎振りを国内に見せつけるためである。

2007-03-05

カラヤンフルトヴェングラー

中川右介 著

幻冬舎新書

ISBN978-4-344-98021-1

フルトヴェングラーからカラヤンへの世代交代劇を描いた読み物。

1934年から1955年まで、フルトヴェングラーとカラヤン、そして戦後の一時期ベルリン・フィルを指揮したチェリビダッケの動向を、それぞれクロスさせながら追った本。

全体的に、講釈師見てきたような、というところが多分にある、歴史書というより歴史小説に近い感じの読み物で、歴史書の方が好きな私としては好きになれない面もあるのだが、歴史小説で良ければ、読んでみても良い本ではないだろうか。

興味があるのなら、それなりには面白い本だと思う。

歴史小説だと思えばそれなりの読み物ではあるだろうから、それでも良ければ、というところだろう。

以下メモ

ブルーノ・ワルターやエーリヒ・クライバー等、早い時期にドイツから亡命した人は、戦後のドイツでは戦前程の人気は出なかった。

・戦後に、(西)ドイツの首相が初めてバイロイト音楽祭に出席したのは、2003年小泉首相を出迎えた時である。

2007-03-02

『近くて遠い中国語 日本人のカンちがい』

阿辻哲次

中公新書

ISBN978-4-12-101880-9

中国語に関して書かれたエッセイ

一応、テーマというか、モチーフとしては、中国語も外国語なのだから、漢字意味を追っていけば理解できる、などとは考えない方が良い、ということが主張されたものではあるが、全体的には、中国語の先生が書いたエッセイ、と考えておけばそれで大体間違いのない本か。

特にどうということもないエッセイ。

あんまり対象(中国語)に対する批判精神が感じられないので、個人的には別に薦めはしないが(対象以外のものに対する批判精神はある)、中国語に関するエッセイが読んでみたいのであれば、読んでみても良いのではないだろうか。

興味があれば、読んでみても、という本だろう。

以下メモ

・中国語でも一つの漢字で意味が異なると発音が異なる場合がある。音楽の楽と楽しむという意味の楽では違う発音になる。

・日本でも、銀行とか、西洋のものを取り扱う業者の会社名に洋行と付くように、行には職業、業種という意味があり、中国語で改行とは、転業するという意味である。

・昔イギリスでは、5ポイントの活字をパール、7号の活字をルビーと呼んでおり、その7号活字を、5号活字にふりがなを付けるのに使ったことから、ルビという言葉ができたらしい。

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