小林一茶風日記

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2005-09-28

『「資本」論 取引する身体/取引される身体』

稲葉振一郎

ちくま新書

ISBN4-480-06264-5

マルクス主義の再構築を目指したような感じの思弁的な社会思想論。

208ページまでは真面目に読んだ。それ以降は、殆どよく分からなかった。というよりも、分かろうとする気力が失せた、というところか。

好意的に解釈すれば、哲学者が目の前にあるリンゴを見て、そこに本当にリンゴがあるか疑っている、というような感じの本なのだろう。一般的にいえば、哲学者が何を疑っているのか全然意味が分からない、というのが大方の人のありような訳で、つまり私も本書の意味はさっぱり分からなかったが。

全体的に、マルクス主義の再構築を目指しているような本なので、マルクス主義とかが分かる人向け。というか、マルクス主義者に対して、マルクス主義は負けたのだからここまでは出ておいでよ、といっているような本ではないだろうか。

マルクス主義が分からなかった私には、やっぱり分からなかった。

しかし、ひとたび敗れた理論を再構築するというのは、非常に難しいことである

ということが分かった。

敗れた理論を再構築するには、非常に重い立証責任を伴うのだ。

実際問題として、ある理論が敗れる前は、立証責任が完全に理論の提唱者に求められている訳ではない。

極めて単純化していうと、ある理論が敗れる前は、その理論が失敗するという証明がなされない限り、その理論は成功する可能性があるものとして受け取られる。ひとたびその理論が敗れたならば、その後は、その理論が成功するという証明がなされない限り、その理論は失敗するものとして受け取られる。

一度その理論が敗れたなら、次からは、その理論は再び失敗するだろうと推測することが、合理的な推論になる。一度失敗した理論が次は成功するだろうと合理的に推論付けるには、かなりの根拠を必要とする。

敗れる前と後とでは、このようにして、理論に求められる立証の強度が違ってくる。

失敗した理論とまだ失敗していない理論を同列に扱っていては失敗が繰り返される危険性が無駄に高まるだけだから、失敗した理論には何らかのペナルティが必要であり、立証の強度が異なることは当然のことではあろうが、そもそも、成功するという証明が完全になされていたのならば、失敗はしない。成功する証明なんかできっこないから、その理論は、失敗する以前には、成功する証明がなくても受け入れられていたのである。それが、一度失敗したから今度は成功する証明を出せ、といわれて、はいそうですかと出せるはずもない。

敗れた理論を再構築するには、この重みに耐えねばならない。

成功する証明までは求めないとしても、以前には証明できていなかった何かを証明する必要があり、ひとたび敗れた理論を再構築する際には、その理論がうまくいくという立証責任は、理論の提唱者に重くのしかかってくるのである。

つまり反対者は一言こういえば良いのだ。論証が不十分である、と。

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