小林一茶風日記

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2007-03-16

中世賤民の宇宙 ヨーロッパ原点への旅』

阿部謹也

ちくま学芸文庫

ISBN978-4-480-09047-8

ヨーロッパ中世人の思惟構造に関していくつかのことが書かれた本。

11、2世紀のヨーロッパにおいて、均質的、抽象的で普遍的な、空間と時間の捉え方、モノを媒介としない人間関係、が生じたのであり、それ以前には、自分たちの内側にある宇宙と、それとは異なるその外にある荒涼とした宇宙、直線的でなく円環的な時間、贈与・互酬に基づく人間関係の中に、人々は生きていた、ということを主要なモチーフに、それに関連したいくつかの事柄が述べられたもの。

私はこの人の本を読むのは多分本書が初めてだが、内容的には確かにそれなりに面白いのだろうものの、著者の論理の筋を追うのが難しい箇所が結構遍在していて、余り良い本ではないと感じた。

一例だけ挙げると、p278に、現代人の宇宙像と中世の宇宙像は違うから、中世の「図像をわれわれは解読できないんです。どのようなものを中世の人びとが怖れたか、そのおおよそのイメージは図像を見れば、ある程度は呼び起こすことができます」と書かれているのは、図像を解読はできないがイメージならば分かる、ということなのだとしても、こうすんなりと順接になっているのは日本語としておかしいと思う。

著者の論理の筋道を辿るのは大変だし、私には完全には辿れない箇所もあって、著者のいうことをどこまで信用して良いのか、よく分からない感じがある。序に書いておくと、著者の考えとしては、空間や時間概念の変化の更に大元の要因として、人間関係の変化があった、といいたいようだが、そのこと自体はどこにも論証されていない。

全体として、無理に読む程のものでもない、というところではないだろうか。普通一般の読者がわざわざ読んでみる程の本でもないのではないか。著者のいうことが正しくて、中世ヨーロッパや近代というものを見る視点として本当に重要なら、遅からず誰かが解説してくれるだろうから、それを待つ、という手もあると思う。

本書は、論理の筋を追うのが難しく、基本的には余り良い本ではないので、無理に読む程のものではないだろう、と私は考える。

以下メモ

・ハインペルは、歴史的現在を画するのは、破局とそれを甘受する者の歴史意識の構造だとひとまずおいた。

ゲルマン人は、死者もまた(現世やどこか別の場所で)生きているという観念を抱いていて、死者が必要とする財宝等を墓や秘密の場所に埋めていたが、キリスト教が普及すると、死者のための財宝を、死者の霊の救済のために教会等に寄進するようになった。こうした寄進は、現世において報酬を受けるものではなく、来世において果報を受けるべき、現世においては無償となる贈与であって、霊の救済のための贈与が、必要な金額が単純な貨幣数量で換算されたり、土地の寄進から土地の売買の形式が発達したりして、贈与社会から交換経済への変革の基盤となった。個人が救済され、あるいは教会がより多くの寄進を受けるためには、個人が家族共同体から離れ、自由に処分可能な私有財産を持つことが必要であり、こうして、教会が、共同体から離れた公のものとして中世ヨーロッパ人の前に立ち現れた。

破局

と、それを甘受する者の歴史意識が、歴史的現在を決めるのだとすると、おそらく私にとって、歴史的現在はバブル崩壊から始まる、といえるであろう。

ある人にとっては小泉訪朝からかもしれないし、ベルリンの壁やソ連の崩壊、あるいはアメリカに縁のある人の中には、2001.9.11からという人もいるかもしれないが、北朝鮮は拉致なんかやっていないと思っていたのでもないし、共産主義に共感していた訳でもない私にとっては、やはりバブル崩壊という破局が大きい。

バブル崩壊で何が破局したというのか。

今日冷静に考えれば変なことのように思えるかもしれないが、あの時代、日本の経済が世界一になるのはそう遠くない未来のように思われていたし、21世紀は日本の世紀だ、くらいに、これは私が長谷川慶太郎の読者だったからというのではなくして、多くの人が思っていたのだと思う。1980年代というのは、そういう時代だった。

バブル崩壊というのは、今から振り返って考えてみれば、その幻が幻でしかないことが露呈した現象だった、といえるのではないか。

日本が世界一になるというバラ色の未来が、バブル崩壊によって破局を迎えたのである。

多分、バブル経済というのは、ただの好景気ではなくて、日本が世界一になる前夜祭の無邪気な高揚感であった。

好景気ならばこれからの日本にもいくどとなく訪れるだろうが、あの高揚感は、バブル経済を知らない若い人は、もう味わうことがないのではないか。再びやってくるとしても、幻滅を味わった世代が消え去る4、50年以上は後のことではないだろうか。

話は変わるが、それを考えると、バブルより50年程前の1930年代日本人にとっても、その時代は日本が世界一になる前夜祭の時代、10年か20年経ったら、日本が世界をリード、もしくはこの場合文字通り支配しているように思えたのではないだろうか。

(そのバブルがいつはじけたかについては、多分議論の余地がある。日本は日中戦争にも負けつつあったのだから。破局は1945.8.15に一遍に来たのではないだろう)

今日的な視点で、日本がアメリカと戦争なんかして勝てる訳がない、それが分からないのは冷静さを欠いた馬鹿ばかりだ、と断罪するのは、バブル当時その幻を見抜けなかった私としては、天に唾する行為であるのかもしれない。

ちなみに、このように歴史的現在が破局によって画期されるのは、現在とは未来を指向するものだからである。1941年の日本人と1946年の日本人が異なる未来を指向したことは、論を待たないであろう(天皇制打破や共産主義革命を目指していた極少数の人にとっては同じだったかもしれないが)。1946年と1986年の日本人も、実際には違う未来を指向していたかもしれないが、1986年の日本人から見て、1946年の日本人が指向する未来は自分が指向するもの(一言でいえば、経済成長か)とそれ程変わっていないと感じられただろう。そして、バブル崩壊を経た2007年の日本人(の内の少なくともある人々)は、もはや経済成長などという未来は指向していないだろう。

1986年の私が実際に経済成長を指向していたかどうかはやや疑問だが、それでも、21世紀は日本の世紀だ、くらいには確かに思っていたし、指向しようがしまいが、私の未来は、当時確実にその辺りにあった。

2007年の私から見て、1986年の私は同じ未来を指向してはおらず、従って、2007年の私と1986年の私は同じ歴史的現在にいるのではない。2007年の私にとって、歴史的現在は、バブル崩壊から始まっているといえる訳である。

そうすると、(今の)私にとって歴史的現在とは、予めバラ色の未来を持ち得ない現在、日常的でささやかな未来に賭けるしかない現在、といえるのだろうか。

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