あの子

今日は 朝から 私の中で記憶の中のあの子が見ていた。
時々 出てくるけど、今日はなぜかわからないけど。
でも、改めて記録しておこう。と思う。

あの子と出会ったのは 私が中学2年のころ
学校に行かなくなって、休みの理由で お腹痛いと
言い続け 検査しても何もないので 
精神的な面からの治療が必要では と、言うことで
地元の小児科から紹介状を受け 大学病院に行くことになり、
面談の結果 任意入院と言う形で入院することになった。

うつ病パニック障害などの病気で 自分でコントロールはできるものの
自宅以外での療養、休養が必要と本人が思えば 医師との話し合いで
入院でき、退院も自分の判断でできるのだ。
その頃の私は 「入院」というものになぜか変な憧れを持っており
その上 病棟が新しくできたばかり という好奇心から
これは入院してみたい!という思いから 入院を希望した。

両親からしてみれば 
当時はまだ今ほど 不登校 や うつ病 という言葉ですまされる時ではなく
精神科 心療科と言えば すこし距離のある診療科に娘が入院だなんて
心底悩ませたに違いない。そこの部分もあり私は親に頭が上がらない、
申し訳ない気持ちが強かったので反抗期は無い。

中2の6月末 
入院当日(この部分私はどう頑張っても記憶が抜けてしまって思いだせず、母の話でつないでいる)
外来で出会った主治医ではなく、入院の間の主治医となる女医さんと出会う。
この女医さんとの出会いがなかったら今の私は居ない。と言っても過言ではない人だ。

入院の説明を受け、契約、軽い検査を受け。カウンセリングを受けた。
ただ、その最初に 女医さんに
「この病棟の中の人と仲良くなることは良いことだけど、深く入りこむのは心配してます」
と言われていたらしい。後からになって痛感する。

そういう流れから私の入院生活は始まった。
初めて親元を離れて生活をする。
周りは 大人ばかり。
大人ではあるけど パジャマ姿の人もいれば普通の服の人もいる
見た目は居たって健康。だけど、皆目に輝きはない。
そんな 中でただ一人、いつも食堂の横のピアノを弾いている 
もしくはその横のベンチに座ってる私と同じぐらいの女の子がいた。
だけど 人見知りや警戒心もあり 彼女と話すことは無く、
そして当時私の主治医の先生は 8月からの産休前だったためか
受け持ちの患者が少なかったからか、それともその先生のやり方か
私が 気ままに売店や外を見たくて12階へ行く時もすべて一緒についてきてくれた。
そのため 私は その先生と行動することが多かった。

しかし、夜になれば先生も帰宅し、私も部屋にこもり
つまらなくなってくる日が出てきた。
それを繰り返した ある日 彼女が話しかけてきた
「いくつなの?名前は?」
そんな感じだったと思う。
私はびくびくこたえた。そして、一つ上ということがわかり
あっという間に仲良くなって いつも彼女と一緒にいるようになった。

彼女はオレンジのショートヘアー
自殺未遂で2階から飛び降りたらしくコルセットを巻いて
常に脚をずって歩いていた。
そして 外泊の度 新しいリストカットの傷をふやして帰ってきた。

衝撃的ではあった。そして「自分の体に傷をつけるのはよくない」という正義が
私の中にもあったので とても悲しく思っていた。

だけど、
彼女はいつも 私はいつも一人ぼっち 家にいても学校にいても
家族がいたって関心がなければ意味がないの 存在してるだけでは気にかけてもらえないの
だから 派手な格好して 自分に傷をつけたくないけど
そうしないと 自分が存在してる認識ができないの
大人たちは 親からもらった体に傷をつけるな とか
命を大切にしなさいと言う。 だけどそれだけ。

と、ひとり言のように繰り返していた。幼い私は何の言葉もかけることもできなかった。
ただ、一緒にいて 彼女が歌う歌を聞いて ピアノを聞いて
遊ぶことだけだった。

外泊中も お互いに電話をした。歌の話をしたり。話をきいたり。 
淋しさを埋められたと思っていた。

入院して一カ月がたった時
彼女は「ここは つくられたやすらぎで ここにいれば攻撃する人もないし傷つくこともない
だけど ここになれればなれるほど 社会がどんどん私を独りにしていくの」と。
ぽつりと話していた。

その一週間後彼女は退院した。

そして、私も主治医が産休に入るとき
退院した。
これからも 彼女とは友達でいよう 私は見捨てない
と 思っていた。そう信じていた。

だけど、何ヶ月かたったある日 彼女が泣きながら電話をしてきた。
私は なんでも話してと言った。
だけど その頃私にも意思が生まれつつあった時期だったこともあってか
彼女に「それは甘えているよ。世界は自分でつくれるきもするんだ」と言った。
彼女は「友達だと思っていたけど あなたもそんなことを言うんだね。私はずっと一人ぼっちなんだね」
という。
私は「そのまんまじゃ 一人だよ!ダメだよ!」と責めて 大喧嘩。
むきになって どうすべきか わからず 彼女とはその電話が最後になってしまった。
絶交
だった。

その半年後 外来で病院を訪れ診察を終えて
帰る前に売店でパンを買って、少し休んでから帰ろうと
母とベンチに座り、彼女のことや、当時の悩みや、
いろんなことを思い浮かべていた。 

売店とベンチと救急外来は隣どうしにあり、
時折救急車から急患がはいる様子が見えた。

そして ぼーっとしていたときにも
救急車が入ってきた。そしてバタバタと急ぐ声足音
そして 聞いたことのある名前が聞こえてきた。
絶交した彼女の名前。
いつも聞こえない
救急隊の人の声 「薬物大量服用 胃洗浄と太股手首切り傷 有」

私は 頭が真っ白になった。だけど隣には母がいる
心配させるので立ちあがって見に行くことはできない。
できなかった。
今思えば恐ろしいほどの聴覚だった。
治療室の前 彼女の母親と思われる女性は「ごめんね ごめんね」
と泣き狂い その隣には若い男の人が肩を抱いていた
彼女には兄は居ない。

その時もそれ以降も彼女に会うことは二度と無かった。
あの子 

約10年前。
あれが今ならば、少しは私も言葉がちがったのかな
彼女は元気にいきているかな
あの才能は あの歌声は あの優しい性格は
いまも生きているのかな

綺麗事にしかならないけど 願うと言うのか私の中でいつまでも
いつまでも彼女がときどき現れる。

そんなあの子の話。

彼女が大好きだった いつも歌っていた
椎名林檎。そして浜崎あゆみ の
A Song for ××

ついこの間まで聞くことができなかった。
だけど、いつの間にか大丈夫になっていた。

彼女もそうありますように。
都合がいいけど いつまでたっても
こころのどこかで彼女を思ってしまう。
わたしは 忘れたようで ひきずっていきていく。だろう。