猿虎日記(さるとらにっき) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017年03月24日

幻の再会

10年以上前、東京都多摩市に住んでいたころ、近くの川に冬になると飛来するカモたちを毎日のように観察していた時期がありました。特に、トモエガモというちょっとめずらしいカモを発見したときは興奮し、このブログやその前身の日記でも何回か書きました。神奈川に引っ越してからは、近くにカモもおらず、カモの観察はほとんどしなくなってしまいましたが、神奈川大和市の公園で久しぶりにカモの観察をしました。

で、これなのですが

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これを見たとき、一瞬「トモエガモ?!」と思ってしまいました。しかし……昔よくカモを観察していたころならば絶対しかなった間違いなのですが、これはコガモです(まあ、公園のウェブサイトに乗っている「この公園でみられる鳥」の中にトモエガモがあったということもあるのですが)。しかし、コガモトモエガモを間違えるなんて、たとえてみれば道におちていた1000円札と10000円札を見間違えるようなものです。しかし、コガモ、100円玉や10円玉よりはめずらしいかもしれませんが、500円玉ぐらいかもしれません(コガモごめん)。まあたしかに、似ているといえば似ているのですが、やはり全然違います。ちなみにトモエガモはこんな鳥です(2004年東京都多摩市で撮影)

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ネット情報によるとトモエガモは激減しているらしいので、10年前多摩市で観察できたのはやはり貴重な体験だったのかもしれません。

大和市の公園で観察したそのほかの水鳥の写真も紹介します。

ヒドリガモ

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後ろにいるメス、ちょうど鳴いているところで、非常にいい表情です。

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オオバン

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↓バン(まんなかの赤いくちばし。前にいるのはヒドリガモ

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カイツブリ

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↑潜水から上がったばかりで頭が濡れています

エナガ

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2017年03月03日

パット・メセニーと政治、その他

こんなものジャズじゃない!

 大学生のころ、開局したばかりのJ-WAVEをよく聴いていて、そこでパット・メセニー・グループの曲がしょちゅうかかっていたのだが、好きになれなかった。ジャズと言えばフォービート、という凝り固まったリスナーだったのだので、いわゆる「フュージョン」に対して、「こんなものジャズじゃない!」ぐらいの勢いで嫌悪していた時期があったのだ。しかし、だいぶあと、1990年代になってから、周りの人の影響やなんかで、「フュージョン」とひとくくりに敬遠していたいろいろな音楽を聞きなおし、そうした偏見は少しずつなくなっていった。ハービー・ハンコックの「アクチュアル・プルーフ」を友人に聞かせてもらって「なんだこれ?!」と思ったあたりからはじまり、チック・コリアのRTF、ジョン・スコフィールド、などにはまり、ウェザーリポートや電化マイルスのもの凄さを20年以上遅れて再確認した時期があった。

 それでもパット・メセニーはどうも今一つピンとこなかった。周囲のジャズファンにあまりにもてはやされているような気がして、それに対する反発もあったかもしれない。しかし数年前、いまさらもいいところだが、80年代あたりの全盛期のメセニー・グループも集中的に聴きなおした。……メセニーファンのみなさん、すいませんでした。やっぱりかっこいいと思いました。自分がどんどんフツーのジャズファンになって行くようで、それはそれで面白くないと思ったりもするが……。

こんなものアメリカじゃない!

 前置きが長くなったが、最近、パット・メセニーが、自身のfacebookに、ある投稿をした(https://www.facebook.com/PatMetheny/videos/10154416371239926/

 そこでパット(本人?)は、「Remember this song?(この曲覚えてるかい?)」というコメントだけを付けて、パットとデビッド・ボウイが競作し1985年に発表された「This is Not America(これはアメリカではない)」という曲のPVを貼り付けていた*1

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*1:この曲は、同年制作のアメリカ映画『コードネームはファルコン』(原題:The Falcon and the Snowman)の主題歌として作られた。パット(とライル・メイズ)は映画本編の音楽も担当しているようである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B3

2016年08月22日

○○に政治を持ち込むな

 最近、「音楽に政治を持ち込むな」論争というものがあったそうだが、サルトルは、1952年の「共産主義者と平和」という論文で「労働運動に政治を持ち込むな」という主張を批判している。それについて去年「革命的サンディカリスムとサルトルの思想」という論文を書いた。

 この論文の前半部分は、革命的サンディカリスムの思想についてかつて書いたものを一部書き直したものだが、後半部分は、サルトルが「共産主義者と平和」の中で革命的サンディカリスムに言及している部分について論じた。というわけで、その部分を再録することにする。注にも書いたが、この論文は、『労働と思想』(堀之内出版、2015年)所収の拙論「サルトル──ストライキは無理くない!──」の補論なのである。『労働と思想』もよろしく。

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 さて、この論文で論じたように、サルトルは、「共産主義者と平和」において、「政治」と「経済」を相容れないものだとする考え方自体を批判する。そして、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】と結論づけるのである。

サルトルによると、労働運動を「経済」に限定すべき、と主張することは、「雇用者たちに最高の贈り物をすること」つまり、ブルジョワジーを利するだけである。そもそも、「政治」と「経済」の二つの領域の分離は、ブルジョワジーが自らに都合のよいものとして作りだしたものでしかない。ブルジョワ経済学者は、労働者の賃金を決定する「賃金鉄則」を提唱したが、それは搾取者たちを免罪するものであった。(……)つまり、「経済」と「政治」の分割を認めることは、労働者にとって罠に陥ることであり、自らの手足をしばることになるのだ。しかしサルトルは、「労働者は経済の領域で自己の利益 intérêt を守ることに甘んずればよい」という主張に対して、「労働者の利益とは、もはや労働者ではなくなるということであるように思われる」と言う。つまり、労働者が搾取される階級社会の廃絶こそが労働者の「利益」だ、ということである。そもそも、サルトルも言うように、資本主義社会の労働法自体が、「経済」と「政治」との区別を前提として成り立っている。そこでは、賃上げ要求などの「経済的スト」は「良いスト」とされ(それを逸脱するスト(つまり政治的なスト)は「悪いスト」とされている。(……)しかし、ストライキの権利を職業上の権利要求に制限するという【ブルジョワジー】の決定は、自らの利益をみすえた、【すでに政治的なもの】である。また逆に言えば、労働者がブルジョワジーによる政治的決定を容認し、自らその行動を「基本的な権利要求」に限定したなら、それ自体もまた一つの政治的態度を取ったことになる。つまり、サルトルによると、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】のである。その意味で、サルトルは「客観的には労働組合運動(サンディカリスム)は政治的である」と言う。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20160822/p2

「サルトルと革命的サンディカリスムの思想」

『人文学報』(504),2015年3月,首都大学東京人文科学研究科,pp65-88.

一 ペルーティエと革命的サンディカリスム

(省略)

二 サルトルと革命的サンディカリスム

一 「共産主義者と平和」と革命的サンディカリスムの思想

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2016年08月15日

WAR IS OVER

久しぶりにはてなにログインしてダイアリーの下書き一覧を見ていたら、2010年に下書きを書きかけて結局公開しないままになってしまっていた記事があったので、一部を公開します。

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20年ほど前のことです。「西側」メディアは、冷戦の終結を寿ぎ、うかれさわぎました。「「敵」はやぶれた!つまりわれわれの正しさが証明されたのだ!世界に平和がおとずれた!」というわけです。しかし、本当に世界に平和がおとずれたのだとすれば、すなおに考えればそれはすなわち、戦争も、軍隊も、なん回も世界を滅亡させることができる核兵器も、そんなものはぜーんぶ必要なくなった、という意味でしかありえないはずです。というわけで、ベルリンの壁をこわすお祭り騒ぎは、ただちに、全世界の基地の壁をこわし、兵器を廃棄し、兵士が軍服を脱ぎすてるお祭り騒ぎに移行したはずですよね? そう、ちょうどこんなシーンのように。

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↑なにやってるんだよお!                  ↑よこしなさいよお!*1

え? そうなってない? どういうことですか?


「戦争をやめろ」「ひとごろしをやめろ」という「あたりまえの」(あえてこの表現を使いますが)「庶民感覚」があります。ところが、御用学者やテレビコメンテーターは、「戦争をなくせとか基地をなくせなんていう考え方は、素朴すぎるナイーブな考え方なのだ」としてバカにし、まるでそんな感覚を持っていること自体が恥ずかしいことであるかのような印象操作をします。一方では、反戦を訴えるひとびとをゆびさして、「あれは現実をしらずに理想論をとなえているインテリなのだ、あなたたち健全な庶民とは違う存在で、あなたたちをバカにしているのだ、だまされてはいけない」などと言うわけです。


鳩山は「学ぶにつけ、駐留米軍全体の中で海兵隊は抑止力として維持されるという考えに至った」と発言しました。「抑止力のために沖縄に基地が必要」という理屈があちこちでもっともらしいものとしてふりまかれていますが、事実はまったく正反対といっていいでしょう。つまり、「沖縄に基地をおくために抑止力という方便が必要」とされているわけです。基地を沖縄に押し付けつづけるために、「抑止力」などというもっともらしい「必要性」がでっちあげられているわけです。

*1:『未来少年コナン』第19話より。軍事都市インダストリアの部隊がハイハーバーという島を占領していたのだが、コナンらのゲリラ活動と大津波のせいで、部隊は戦意喪失、占領は不可能になった。

2016年02月28日

「ニッポンは素晴らしい」

 また、サルトルか、と思う方もいるだろう。が、また、サルトルである。あしからず。とはいえ、サルトルのこの辺のものを掘り起こすのもおそらくここぐらいだろうとも思う(それはそれである意味絶望的なことでもあるのだが)ので、まあいいだろう。

 今回のサルトルは、1957年のサルトルである。1957年5月*1サルトル主宰の『現代』誌135号に掲載され、その後、論文集『シチュアシオン V』に再録された「みなさんは素晴らしい」という文章である(«Vous êtes formidables», dans Situations, V [«Colonialisme et néocolonialisme»], Gallimard, 1964. /二宮敬訳「みなさんは素晴らしい」『シチュアシオン V』(サルトル全集第31巻)所収、人文書院、1965年*2)。

60年前に書かれたこの文章、正直、「え?これ、今のニッポンのことを書いたんじゃ?!」としか思えない文章である。……いやあんた、サルトルについて書くときそんなことばっかり言ってるね?と思う人もおられることだろう。ええ、まあそうなんじゃが、だってそうなんだから仕方ない! というわけで、もう解説は要らない。たんたんとサルトルの文章を紹介するだけで十分と思われる。

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*1:邦訳では3月になっているが、誤り。

*2:『シチュアシオン V』の諸論文の一部は、『植民地の問題』人文書院、2000年に再録されているが、残念ながらこの素晴らしい「みなさんは素晴らしい」は、再録されていない。