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2018年06月02日 常野雄次郎さんの言葉と行動を引き継ぐ会

常野雄次郎さんの言葉と行動を引き継ぐ会

テラ豚丼と自由

●「サルトル哲学における自由とは」

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20080708/1215483859

たとえば、私たちは、毎朝目ざまし時計がなると起床し、食事や身支度をして学校や会社に行く、というような日常生活を送っている。しかし、「崖くずれが崖の上の石の落下を引き起こす」というのと同じように「目ざまし時計が私の起床を引き起こす」と言うことはできない。目ざまし時計の音が鳴った時、起床するという可能性を作り出すのは私たち自身だからである。つまり、崖の上の私に、崖から身を投げる可能性があったのと同じように、目ざまし時計の音を聞いた私にも、起きずにそのまま寝つづけるという可能性があるのである(会社はクビになるかもしれないが)。

 私たちの日常生活は「芝生に入るな」とか、「税金を払いなさい」といったものをはじめとした様々な規則にかこまれている(これをサルトルは「日常的道徳」と言う)。しかし、そうした規則は、直接私たちの行動を「決定」しているわけではない。実際は「規則に従う」と自分で決めたからこそ、規則が意味を持つのである。だが、規則を成り立たせているのが自分自身である、ということを認めることは、私たちに不安を引き起こす*。だから、私たちはまるで規則が私たちの行動を外側から決定しているかのように思いこむことによって、安心しようとするのである。そのような精神をサルトルはくそまじめの精神と呼ぶ。(『図解雑学サルトル』ナツメ社、2003年)


●「テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」」

http://toled.hatenablog.com/entry/20071202/p1

ブロークバック・マウンテン』の主人公が少年時代に見た同性愛者は虐殺されたけども、ローザ・パークスは現在では偉人ということになっている。でもたぶん、ロッキーの言う「勝つ」というのはそういうレベルにはない。

 仮に両者に違いがあるとしても、それは後になってから言えることだ。今だったら、「賢明な」人は言うだろう。ローザ・パークスの行動は歴史を動かし、社会を変えたと。でも彼女が白人席に座った時点でそうなる保証はなかった。そしてきっと、彼女と同じようなことをしてボコボコにされた人は無数にいたことだろう。今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。

 問題はタバコを吸ったらどうなるかということではない。そんなの関係ねえ! そうじゃなくて、私はタバコを吸いたいのかどうかということだ。私は私のやりたいことをやっているかということだ。ロッキーの言う「勝つというのはそういうことだ」。


●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」

http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html

ローザ・パークス(1913―2005)が白人と黒人が分離されたバスで白人席から移動しろと言われたとき、頑迷に座り続けて、逮捕されて、それからバスボイコット運動が始まって、ついに分離政策を変える成果を勝ちとったんです。でも、ローザ・パークスが白人席に座った瞬間に、その可能性が見えていたかというと、そんなことはないと思います。なぜなら、ローザ・パークス以前にも、同じようなことをしていた人はいるわけです。ボコボコにされて逮捕されて、歴史に名を残してない人が無数にいる。革命というのは、可能そうだからやるのではなくて、不可能にしか思えないことを可能にするための条件をつくりだすために闘っていくということです。それは5000億年後かもしれないけど、学校のない社会を目指す。社会そのもののあり方を根本的に変えていくことを目指す。私は、そう主張したいです。


●「朝鮮の核開発を支持する」

http://toled.hatenablog.com/entry/20160107/p1

世界平和。核のない世界。戦争のない世界。/核施設や実験によって労働者、住民が被害を受けることのない世界。

可能か不可能かはわからない。/できるから目指すのではない。/倫理がそれを強制するから、可能である可能性をつくりだすのだ。/なぜならば自由に縛られているからである。/倫理によって、自由を強制されているのだ。


●尾瀬あきら『ぼくの村の話』

「あんたたちは政府相手にほんとうに勝てると思っとるのかね」「勝てるとは思ってません 勝とうと思っています」(第7巻220頁)

学校をなくすということ

●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」

http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html

私は学校を廃止すべきだと思っていますが、「学校をなくす」というと、よく「給食でしかご飯を食べられない子はどうするんだ」「文字の読めない子はどうするんだ」と反論されます。しかし、学校をなくすというのは、いまの社会をそのままに、そこから学校だけを引き算するということではなくて、社会全体のあり方、社会の仕組みを変えることです。つまりは、ひとつの革命です。そう考えるようになりました。

●「いい植民者と悪い植民者」

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/touch/20070922/1190428681

https://twitter.com/SartrePolitique/status/1002843722696912896

「新植民地主義者は、植民者に良いのと悪いのといると考える。植民地の状況が悪くなったのは、悪い植民者の罪だという。(……)良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるというようなことは真実ではない。植民者がいる。それだけのことだ。(サルトル植民地主義は一つの体制である」人文書院『植民地の問題』33頁)

●「「対案についての思考」を禁止します」

http://toled.hatenablog.com/entry/20070923/1190541968

僕は、学校的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、学校をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。だから、学校が必要かどうかということは、ささいな問題です。必要ないならそのままなくせばいいし、必要だということになればその必要性をなくせばいい。このような出発点の設定には、ただ僕がそれを選んだという以外には、何の根拠もありません。


●「じゃあとうすればいいのか」

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/touch/20070923/1190515352

「じゃあどうすればいいのか」という言葉は、真にどうすべきかということではなく、我々の問題提起をはぐらかし、圧殺することが目的だからです。(横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、31頁)


●「登校拒否解放の(不)可能性 前編」

http://toled.hatenablog.com/entry/20041204/1102129335

「明るい登校拒否」の物語は、本当に登校拒否を肯定するものだったのでしょうか。僕はそうは思いません。この物語で示されているのは、登校拒否児でも学校エリートのようになれる、ということなのですから。ここで肯定されているのはあくまでも学校的価値であって、登校拒否ではありません。

●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」

http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html

醜さ、モンスター性みたいなものを、いかにして美の支配から救い出すかというときに、「ほんとうは美しいんだよ。視点を変えてみれば、呪いが解ければ」ということではなくて、醜さの側が反乱を起こすんだということですね。それと、私が書いた一節をつなげて考えられないかなと思うんです。


●「カオスの解放――『風の谷のナウシカ』の構造――」

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6142/ronbun/chaos.html

腐海とは、いわば魔女(人間)によってみにくい黒いカラスの姿に変えられてしまった王子である。そして、ナウシカは、みにくいカラスをわけへだてなく愛する少女である。だが、この手の物語ではたいてい、最後には魔法が解けて、みにくいカラスは美しい王子の「本当の」姿にもどるのである。同様に、少なくとも中盤までの『ナウシカ』においては、腐海も、美しい清浄な森の姿をとりもどすとされている(浄化された美しい森のイメージは、何度か登場する)。しかし、だとすると、みにくいカラスへの愛、腐海への愛は、結局は王子への愛、美しい自然への愛に還元されてしまう、ともいえるのであって、カラスとしてのカラス、腐海としての腐海のみにくさそれ自体は、最後まで救われないわけである。だが、「神」を殺すことによって、ナウシカは腐海を魔法(みにくさ)から解く鍵を捨てる。つまり彼女は、腐海をケガレ「から」解放するのではなく、腐海のケガレそのもの、みにくさそのもの「を」解放する道を選択したわけである。(1999年)

永遠の嘘

●「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編

http://toled.hatenablog.com/entry/20070726/1185459828

だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。クリスマスに胸を膨らませる子どもたちに、サンタクロースなんていないんだよと言って聞かせても、プレゼントを買い与える親の義務は免除されない。「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。


●「永遠の嘘をついてくれ」——「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 後編

http://toled.hatenablog.com/entry/20070727/p1

 リベラルは、戸塚宏長田百合子や細井敏彦を糾弾する。「無法者」の暴虐に驚愕する。しかし問題は、そのような否定は、体罰教師や「無法者」にとっては「織り込み済み」であり、むしろ彼らの存在意義でさえあるということだ。彼らは自分たちが「ダーティ」な仕事を担っているということは十分に自覚しているのだし、だからこそ彼らは英雄たりうるのだ。

 銀行があって、消費者金融があって、闇金がある。リベラルなエリート校があり、軍隊的な底辺校があり、フリースクールがあり、戸塚ヨットスクールがある。天皇がいて、臣民がいて、軍幹部がいて、「無法者」がいて、「民間業者」がある。人間には「本能」があり「理性」があり「欲望」があり「良心」がある。組織には「無法者」がおり管理部門があり「良心的」構成員がいる。御用学者がいて、左翼知識人がいて、ネット右翼がいて、僕はブログを書いてストレス発散している。「永遠の嘘」は、これらの「全体」が、バラバラの互いに独立した「部分」に分かれているかのように演出する。で、何かあると適当な「無法者」を「トカゲの尻尾きり」して、システムは全体として存続していく。

サルトル「みなさんは素晴らしい」『シチュアシオン V』 

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20160228/p1

 しかし、もしわれわれの誰かが目を覚まし、看護人に問いただそうものなら、政府はたちまち新手のごまかしを持ち出し、あっという間に保護委員会をでっちあげる。責任の重荷をわれわれの肩からおろすのが、ほかならないそのお役目なのである。(……)

 われわれは無罪ではない、汚れているのだ。われわれの良心は乱された〔トゥルブレ〕のではない、しかしそれは濁っている〔トゥルブル〕のだ。指導者たちはそれを良く承知しており、われわれがそういう状態にあることを好ましいと考えているのである。彼らがその慎重な配慮や見え透いた手心によって獲得したがっているものは何かといえば、それは見せかけの無知に隠れたわれわれの共犯なのである。


●「大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日」

http://toled.hatenablog.com/entry/20080407/p1

 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。


●番犬とニセの知識人

https://twitter.com/SartrePolitique/status/998917860419293187

(教授たち)の中の何人かは、アルジェリア戦争当時に実に勇気ある行動をし、自分の家にプラスチック爆弾を投げ込まれる、といった目に遭いました。…ところがこの連中は、教授としては、依然として選別主義者…であり、大学の欲する観点によってその講義をつづけていたのです(「人民の友」『シチュアシオン 八』(人文書院)所収)


●「「日本の歴史家を支持する声明」批判」

http://toled.hatenablog.com/entry/20150605/p1

 「戦前」を悪魔化して切り離すことにより、そうではないものとしての自由で民主的で平和な「戦後」のイメージが形成される。それは変革されるべきものというよりは、たとえば安倍や在特会といった脅威から防衛されるべきものとなる。しかし問題は、日本は切れ目なく続いているということだ。

2017年11月03日

タクシーと救急車

 異様なものを見た。「救急車有料化」と大きく書かれたポスターである。「日本維新の会」と書かれているので、選挙ポスターなのだろう。「ER救命医師」とも書いてある。調べたところ、この人は今回の衆院選で希望の党から出馬し、落選したようだ。一方で、最近よく「救急車はタクシーではありません」という、消防庁の?ポスターを見かける。言うまでもなく、この二つのポスターが発しているメッセージは同じ方向を向いている。しかし、考えてみるとどうもおかしい。というか、「救急車はタクシーではありません」という言葉は、「救急車有料化」などという世迷言を言うこのような人物に向けてこそ、言われるべき言葉ではないだろうか? だって、救急車が有料なんて普通に考えておかしいでしょ? タクシーじゃあるまいし!

 で、「救急車をタクシー代わりに使う人がいるおかげで、本当に救急車を必要としている人が助からなくなる」という例のお話、「不正な〇〇がいるおかげで、本当に困っている××が迷惑している」系のお話の一バリエーションなわけだが(〇〇には「生活保護不正受給者」「偽装難民」などが入る)、ちょっと検索してみると、「救急車を通院のために何度も呼ぶ不届きものがいる」というような話が出てくる。まあ「救急」でもないのに救急車を使うな、ということなのだろうが、行先は病院なのであるから、程度の差はあれ病人なのではないだろうか? ディズニーランドや観光に行くのに救急車を使っているわけではない。で、「救急車はタクシーではありません」というメッセージは、「そんな用途はタクシーを使え」ということを含意しているわけだが、はたして、通院に毎回タクシーを使える人というのはどれぐらいいるのだろうか? ここからは、私の推測ではあるのだが、自家用車もなく、徒歩や公共交通機関も使えない、かといってタクシー代も払えない、という人が、やむなく通院に救急車を呼んでいる、というケースも当然あるのではないか?

 ところで、私のNHS(イギリスの国民保険サービス)についての知識は、10年前のマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』由来の乏しいものでしかないが、あの映画で印象的なシーンがある。NHS運営の国営病院では、治療費は一切かからないので、経理課などの部署がない。信じられないムーアが病院中を探し回るが、「会計Cashier」と書かれた場所を見つける。患者はここで治療費を払うんだ、と思ったらそうではなかった。イギリスの国営病院では、収入が基準額以下の患者の場合、病院に来るまでかかった交通費が支払われるのである。「会計」はお金が入っていく場所ではなく、出ていく場所だったのだ。

 『シッコ』では、その後、雲泥の差のアメリカの状況が描かれる。アメリカでは、治療費が払えない患者を、病院がタクシーで貧困者の支援センターの前まで連れて行き、置き去りにすることがしばしばあるのだという。というか、それはタクシー使うんだ?! いやいや、そんなことにタクシーを使うなよ! 「タクシーは灰色のバス*1ではありません」とでも言いたくなる。「救急車有料化」を訴える件の候補者の理想はこんな社会なんですかね?

救急車についての過去記事

「不正な〇〇がいるおかげで、本当に困っている××が迷惑している」系の話についての過去記事

シッコ(字幕版)

シッコ(字幕版)

*1:ナチスが障害者をガス室に連れて行くために使ったバス。

2017年10月08日

浅間山荘と児童虐待──漫画『刻刻』について──

 数年前、風邪で寝込んでいるときに、当時話題になっていた『刻刻』(こっこく)という漫画をまとめて読みました*1。読み始めたら確かに設定が凝っていて引き込まれました。面白かったです。しかし、読み終えて、やはり本筋と違うところで違和感が残った。まあ『プラネテス』を読んだ時と同じようなものです*2。というか最近の漫画はそういう感じを持たないもののほうが少ないのかも?

 ところで、『刻刻』とはどんな作品なのでしょうか(以下ネタバレあり)。

刻刻 コミック 1-8巻セット (モ-ニングKC)

刻刻 コミック 1-8巻セット (モ-ニングKC)

 「止界術(しかいじゅつ)」という時間を止めることのできる術がある。時間を止めるといっても、原理的には昔の『サイボーグ009』の「加速装置」と同じで、超高速に動くことで周囲の世界が止まって見えるようになる、ということのようです。なぜ人間がそのように超高速運動ができるようになるのか、というと、体の中に「霊回忍(タマワニ)」というクラゲのような「自然霊」が入り込むことによって、ということになっています。この辺の設定はなかなか面白いのですが、そこはおいときます。

 で、主要登場人物は以下のような感じです。

  • 止界術を代々受け継ぎながらも術を使わず平和に暮らしていた佑河家(ゆかわけ)の長女樹里(じゅり)=主人公
  • 術を発動させる石を佑河家から奪って世直しをしようとする実愛会(じつあいかい)という宗教教団(ただし教祖佐河(さがわ)はある目的のために教団を利用しているにすぎなかったことが後にわかります)
  • 「相談役」として実愛会と行動をともにしている間島(まじま)という謎の女性
  • 教団に金で雇われて、佑河家の真(まこと)(長女の甥)を誘拐するヤクザたち(真を助けるために佑河家は止界術を発動させるが、それが教団の狙い)

 これらのキャラクターが、「止界」という時間の止まった世界に入り込み、各自の思惑で闘ったり協力関係になったり、というのがストーリーです。

 それぞれの思惑というのは、細かいキャラクターを除くとこんな感じです。

  • 家族を守って止界から生還するため(佑河家)
  • 止界術で世直しをするため(実愛会)
  • 止界術で神のような存在になるため(教祖佐河)
  • 行方不明になった家族を救うため(間島)
  • 金のため、または生き残るため(ヤクザ)

 このうち、主人公である佑河家の「家族を守るため」という目的が、最も読者が共感を持てるような形になっています。基本的にそれ以外は最初は「悪役」なのですが、間島とヤクザ(の一部)は、途中から主人公の味方になります。間島は、佑河家の長女樹里の力によって家族を救うことができ、心境が変わったような描写がありますが、ヤクザの場合、改心して善人になった、とかそういうことではないのですね。彼らの場合、金のために教団に雇われたが、教団や教祖の異常性を目の当たりにし、佑河家と組んだ方が生き残れると計算したから、でしかありません。「なんでこっちに寝返ろうと思った 仲間割れか?」と主人公の祖父に聞かれた迫(さこ)というヤクザはこう言います。

迫「仲間割れつーか 長生きするための賭けかな 実愛会の駒でいれば遅かれ早かれあいつらと心中だ(……)時間が止まるなんて信じてなかった 止界のヤバさが解ってくるのに比例して 実愛会の危なさを実感した」(堀尾省太刻刻』第3巻、147頁*3

 迫らヤクザは、佑河家にとっては、自分たちを誘拐したり殺そうとしたりした許せない存在のはずですが、実愛会と戦って止界からもとの世界にもどるために一人でも「味方が欲しい」(同書148頁)ということで、佑河家は、迫らの協力の申し出を受け入れます。つまり、彼らはお互いに「生き残る」という共通する目的によって共働することになるのですね。このように、上記のキャラクターのうち、間島と、ヤクザの一部は、読者が感情移入しうるようなキャラクターとして描かれていて、内面を描写するようなコマも多いのです。また、教祖である佐河(さがわ)も、最大の悪役として、何を考えているかが細かく説明されますし、内面描写のコマも当然多い。唯一、佐河の教義を信じ、佐河に付き従う教団の信者のみが、最後まで雑魚扱いなのです。ただ、佐河の本当の目的を知り、裏切られたことを知って教祖佐河を殺そうとする宮尾という信者だけは、後半部分で少しだけ丁寧に描かれています(といっても作者は彼の内面を描写してはくれないのですが)。その宮尾に、ヤクザの迫が、主人公である佑河側に寝返ったことを打ち明けた時の、二人の会話が、第6巻にあります。セリフを引用してみます。

宮尾「理念が無いから信念もない……目先目先で……呆れますよ ほんと……!!」

迫「……理念とか アホか なんかキレイな言い方してんじゃねーよ 我欲だろが!」

宮尾「違いますよ 私利私欲で世界を支配する連中を潰すんです」

迫「で お前らがそいつらに取って代わるんだろ?」

宮尾「理念に従う限り そのような低俗な存在に堕ちることなどありえません」

迫「あのなあ 今の体たらくを見ろよ なんだよこれ 浅間山荘かよ 何人死んだか言ってみろよ この繰り返しがお前らの未来だよ」(中略)

宮尾「搾取の加担者が…… お前には止界に入る資格すら無いんだよ」

堀尾省太刻刻』第6巻、35-37頁)

 まあつまり、いわゆる「正義の暴走」に突っ込みを入れるセリフをヤクザである迫にさせてるんですね。だいたい、オウム真理教をすっとばしてなんで唐突に「浅間山荘」が出てくるのか、てところが謎なんですけど*4、というかここを読んだとき私はちょっと失笑してしまいました。「何人死んだか言ってみろ」とか偉そうに言ってますが、このヤクザたちこそ、何人殺したのか言ってみろ、て話です。何言ってんだ、と。

 「金のため」あるいは「過酷な世界で生き残るため」の行動は、たとえ殺人であろうとも、なんとなくぼんやりと「逞しさ」の現れとして、あるいは「必要悪」として、少なくとも理解できる行為として描かれる一方、「理念のため」あるいは「過酷な世界を良いものにするため」になんらかの行動をする人がひとたび殺人でも犯そうものなら、なぜかそれは、その人だけではなく、理念のために行動することそのものが「愚か」で「はた迷惑」である、ということの明白な証拠とされてしまうのです。つまり、「世直し」の人というのは、ヒーローではありえないことはもちろん、「悪役」ですらなく、悪役の引き立て役としての「キレイごとを抜かす愚か者」でしかないのですね。要するに「キレイな言い方してんじゃねーよ 我欲だろ」て(鬼の首でもとったように)言いたいがためだけのキャラクターなのではないか、と。どうも、今のニッポンには「そんなのキレイごとだ、と言いたい欲」があふれているような気がしてなりません。悪の蔓延より正義の暴走のほうがよっぽど嫌い、という空気が蔓延している、というか。ネット上では特にそのことを感じます。

 さて、もう一つ気になるのは、間島翔子の扱いです。彼女は、幼いころ佑河家の止界術に巻き込まれて何も知らないまま一家で止界に迷い込んでしまいます。そして、両親と兄は行方不明になり、ただ一人間島翔子だけが止界からもとの世界にもどることができたのです。大人になった間島は、止界について独自に調査して知識を得、佑河樹里の特殊な力を使えば家族を止界から救い出せることを知ります。そのため彼女は教団に接近し、教団を利用して佑河家に術を発動させ止界に入るのですが、当初は教団に真の目的を隠しています。

 結局、間島の家族は樹理の力によって救い出されるのですが、両親はすでに死亡していました。翔子が、変わり果てた両親の死体を抱きしめるシーンは、感動的に描かれています(『刻刻』第4巻、106頁)*5

 しかし、読者は、間島翔子の家族が止界に迷い込む直前の様子を、第2巻(45頁〜)で描かれる回想シーンで知っています。間島一家は、父親が運転する車で帰宅途中なのですが、後ろの座席で子供たちの兄弟げんかが始まります。運転していた父親はそれにいら立ち、赤信号で停車したとき後ろを向いて兄の頭を殴ります(ガツン、という擬音が書かれています)。「もうお前 こっから歩いて帰れ な 降りろホラ早く」と父親がいい、兄が頭を押さえてむせび泣いているシーンが描かれます。さらに、それをきっかけに今度は両親の夫婦げんかが始まります。ここに描かれているのは、大人から子供への暴力と、「我欲」でいがみ合う大人たちでした。どうしてこういうシーンが描かれたのでしょうか。そう、つまり、「家族」とは「キレイごと」ではない、というわけです*6。にもかかわらず、間島翔子は、周囲の人間たちに多大な犠牲を負わせてでも家族を取り戻そうとした。「家族」は、キレイごとではないが、にもかかわらず、というか、だからこそ、というか、何か価値を持ったもの(少なくとも、はた迷惑で愚かでしかない「世直し」などよりも)として描かれます。どうも、読者というのは「キレイごとではない理不尽な生存本能」のようなものが大好きであり、同様に「キレイごとではない理不尽な家族の絆」のようなものも大好き、ということが前提されている。だからこそ、このようなキャラクター設定、物語設定が好まれるのではないかな、と思ってしまうのです。

*1:kindle版で読みました。

*2プラネテスのポリティカ1〜3 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20090814/p1 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1 もう10年も前か…。

*3:頁数はkindle版。以下同様。

*4:まあ教祖が信者を殺した直後の場面だったので、内ゲバってことを言いたいのでしょうけど、唐突感はありますね。

*5:ちなみに間島の兄は、奇跡的に生きていて、止界から生還することになります。

*6:佑河家の中にも「キレイ」ではない部分が描かれています。

2017年04月02日

Belson液晶テレビDM16-B1用視野角問題改善スタンド工作

うちのテレビはBelson液晶テレビDM16-B1というものです。

Belson  16型 LED液晶 テレビ  DM16-B1   ブラック

Belson 16型 LED液晶 テレビ DM16-B1 ブラック

「Belson」というブランドですが、メーカーはオリオン電機です。2012年発売です。数年前確か1万円ぐらいで買ったのですが、とにかく安いものを探していて、こういっては何ですが機能は低いです。なんといってもHDMI端子がついておりません。したがって、HDDレコーダーとコンポジットケーブルでつないでいます(いまどきコンポジット出力端子のついているレコーダーもめずらしくなっているようです)。しかし、画質についてはそれほど不満はないです*1。あまりテレビ見ないですし、用途としては、極端な話、レコーダーにちゃんと録画されているか確認できればいい、という感じですので。

ちなみにこの機種には後継機種があり、2014年発売のもの(DM16-B3 ※これ以降はオリオン電機ブランドとなるようです)

2015年発売のもの(DMX161-B1)

などがあるようです。すべて外観はうちの古いタイプと全く同じですが、2015年発売のものはHDMI端子が(やっと)つきました。

ただ、問題は、このテレビのamazonカスタマーレビューで多くの人が言っているように、視野角が異様に狭い(特に上下方向)、ということです(カスタマーレビューを読むと、この症状は、2014年、2015年発売の後継機種でも変わっていないようです)。少し斜め下から見ると、画面が暗くなる、というかいわゆるソラリゼーションのような状態になる。しかも画面の角度を調整できない。うちではテレビを少し高い位置に置かざるを得ないので、非常に見にくいです。しかたないので、底面の後ろの部分にものをはさんで画面を前に傾けていたのですが、大きく傾けるとバランスを崩してテレビが前に倒れてしまうので、少ししか傾けられない。というわけで、ずっとイライラしていたのですが、簡単な工作をして問題解決しました。

まず、工作前の写真……は撮っていなかったので、こちらのサイトの写真(売り切れてしまった中古品の写真)を見てください。

工作材料は、ホームセンターでたしか300円ぐらいで買った黒い発泡スチロールの板と、黒いビニールテープのみです。発泡スチロール板をこのように切ります。

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この3つを黒いビニールテープでくっつけ、本体にも黒ビニールテープで固定しました。以上です。制作時間20分ぐらいでしょうか(あらかじめ段ボールで試作しましたが)。

こんな感じです。

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横から見るとどのぐらい傾いているかわかると思います。近くで見ると雑な作りが目立ちますが、遠目にはあまりわからないですし、画面がきれいに見えるようになって非常に満足しております。

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*1:きれいに見たいときは、中古で買った液晶プロジェクターでスクリーン(兼ロールカーテン)に映しています。

2017年03月24日

幻の再会

10年以上前、東京都多摩市に住んでいたころ、近くの川に冬になると飛来するカモたちを毎日のように観察していた時期がありました。特に、トモエガモというちょっとめずらしいカモを発見したときは興奮し、このブログやその前身の日記でも何回か書きました。神奈川に引っ越してからは、近くにカモもおらず、カモの観察はほとんどしなくなってしまいましたが、神奈川大和市の公園で久しぶりにカモの観察をしました。

で、これなのですが

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これを見たとき、一瞬「トモエガモ?!」と思ってしまいました。しかし……昔よくカモを観察していたころならば絶対しかなった間違いなのですが、これはコガモです(まあ、公園のウェブサイトに乗っている「この公園でみられる鳥」の中にトモエガモがあったということもあるのですが)。しかし、コガモトモエガモを間違えるなんて、たとえてみれば道におちていた1000円札と10000円札を見間違えるようなものです。しかし、コガモ、100円玉や10円玉よりはめずらしいかもしれませんが、500円玉ぐらいかもしれません(コガモごめん)。まあたしかに、似ているといえば似ているのですが、やはり全然違います。ちなみにトモエガモはこんな鳥です(2004年東京都多摩市で撮影)

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ネット情報によるとトモエガモは激減しているらしいので、10年前多摩市で観察できたのはやはり貴重な体験だったのかもしれません。

大和市の公園で観察したそのほかの水鳥の写真も紹介します。

ヒドリガモ

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後ろにいるメス、ちょうど鳴いているところで、非常にいい表情です。

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オオバン

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↓バン(まんなかの赤いくちばし。前にいるのはヒドリガモ

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カイツブリ

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↑潜水から上がったばかりで頭が濡れています

エナガ

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