猿虎日記(さるとらにっき) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017年11月03日

タクシーと救急車

 異様なものを見た。「救急車有料化」と大きく書かれたポスターである。「日本維新の会」と書かれているので、選挙ポスターなのだろう。「ER救命医師」とも書いてある。調べたところ、この人は今回の衆院選で希望の党から出馬し、落選したようだ。一方で、最近よく「救急車はタクシーではありません」という、消防庁の?ポスターを見かける。言うまでもなく、この二つのポスターが発しているメッセージは同じ方向を向いている。しかし、考えてみるとどうもおかしい。というか、「救急車はタクシーではありません」という言葉は、「救急車有料化」などという世迷言を言うこのような人物に向けてこそ、言われるべき言葉ではないだろうか? だって、救急車が有料なんて普通に考えておかしいでしょ? タクシーじゃあるまいし!

 で、「救急車をタクシー代わりに使う人がいるおかげで、本当に救急車を必要としている人が助からなくなる」という例のお話、「不正な〇〇がいるおかげで、本当に困っている××が迷惑している」系のお話の一バリエーションなわけだが(〇〇には「生活保護不正受給者」「偽装難民」などが入る)、ちょっと検索してみると、「救急車を通院のために何度も呼ぶ不届きものがいる」というような話が出てくる。まあ「救急」でもないのに救急車を使うな、ということなのだろうが、行先は病院なのであるから、程度の差はあれ病人なのではないだろうか? ディズニーランドや観光に行くのに救急車を使っているわけではない。で、「救急車はタクシーではありません」というメッセージは、「そんな用途はタクシーを使え」ということを含意しているわけだが、はたして、通院に毎回タクシーを使える人というのはどれぐらいいるのだろうか? ここからは、私の推測ではあるのだが、自家用車もなく、徒歩や公共交通機関も使えない、かといってタクシー代も払えない、という人が、やむなく通院に救急車を呼んでいる、というケースも当然あるのではないか?

 ところで、私のNHS(イギリスの国民保険サービス)についての知識は、10年前のマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』由来の乏しいものでしかないが、あの映画で印象的なシーンがある。NHS運営の国営病院では、治療費は一切かからないので、経理課などの部署がない。信じられないムーアが病院中を探し回るが、「会計Cashier」と書かれた場所を見つける。患者はここで治療費を払うんだ、と思ったらそうではなかった。イギリスの国営病院では、収入が基準額以下の患者の場合、病院に来るまでかかった交通費が支払われるのである。「会計」はお金が入っていく場所ではなく、出ていく場所だったのだ。

 『シッコ』では、その後、雲泥の差のアメリカの状況が描かれる。アメリカでは、治療費が払えない患者を、病院がタクシーで貧困者の支援センターの前まで連れて行き、置き去りにすることがしばしばあるのだという。というか、それはタクシー使うんだ?! いやいや、そんなことにタクシーを使うなよ! 「タクシーは灰色のバス*1ではありません」とでも言いたくなる。「救急車有料化」を訴える件の候補者の理想はこんな社会なんですかね?

救急車についての過去記事

「不正な〇〇がいるおかげで、本当に困っている××が迷惑している」系の話についての過去記事

シッコ(字幕版)

シッコ(字幕版)

*1:ナチスが障害者をガス室に連れて行くために使ったバス。

2017年10月08日

浅間山荘と児童虐待──漫画『刻刻』について──

 数年前、風邪で寝込んでいるときに、当時話題になっていた『刻刻』(こっこく)という漫画をまとめて読みました*1。読み始めたら確かに設定が凝っていて引き込まれました。面白かったです。しかし、読み終えて、やはり本筋と違うところで違和感が残った。まあ『プラネテス』を読んだ時と同じようなものです*2。というか最近の漫画はそういう感じを持たないもののほうが少ないのかも?

 ところで、『刻刻』とはどんな作品なのでしょうか(以下ネタバレあり)。

刻刻 コミック 1-8巻セット (モ-ニングKC)

刻刻 コミック 1-8巻セット (モ-ニングKC)

 「止界術(しかいじゅつ)」という時間を止めることのできる術がある。時間を止めるといっても、原理的には昔の『サイボーグ009』の「加速装置」と同じで、超高速に動くことで周囲の世界が止まって見えるようになる、ということのようです。なぜ人間がそのように超高速運動ができるようになるのか、というと、体の中に「霊回忍(タマワニ)」というクラゲのような「自然霊」が入り込むことによって、ということになっています。この辺の設定はなかなか面白いのですが、そこはおいときます。

 で、主要登場人物は以下のような感じです。

  • 止界術を代々受け継ぎながらも術を使わず平和に暮らしていた佑河家(ゆかわけ)の長女樹里(じゅり)=主人公
  • 術を発動させる石を佑河家から奪って世直しをしようとする実愛会(じつあいかい)という宗教教団(ただし教祖佐河(さがわ)はある目的のために教団を利用しているにすぎなかったことが後にわかります)
  • 「相談役」として実愛会と行動をともにしている間島(まじま)という謎の女性
  • 教団に金で雇われて、佑河家の真(まこと)(長女の甥)を誘拐するヤクザたち(真を助けるために佑河家は止界術を発動させるが、それが教団の狙い)

 これらのキャラクターが、「止界」という時間の止まった世界に入り込み、各自の思惑で闘ったり協力関係になったり、というのがストーリーです。

 それぞれの思惑というのは、細かいキャラクターを除くとこんな感じです。

  • 家族を守って止界から生還するため(佑河家)
  • 止界術で世直しをするため(実愛会)
  • 止界術で神のような存在になるため(教祖佐河)
  • 行方不明になった家族を救うため(間島)
  • 金のため、または生き残るため(ヤクザ)

 このうち、主人公である佑河家の「家族を守るため」という目的が、最も読者が共感を持てるような形になっています。基本的にそれ以外は最初は「悪役」なのですが、間島とヤクザ(の一部)は、途中から主人公の味方になります。間島は、佑河家の長女樹里の力によって家族を救うことができ、心境が変わったような描写がありますが、ヤクザの場合、改心して善人になった、とかそういうことではないのですね。彼らの場合、金のために教団に雇われたが、教団や教祖の異常性を目の当たりにし、佑河家と組んだ方が生き残れると計算したから、でしかありません。「なんでこっちに寝返ろうと思った 仲間割れか?」と主人公の祖父に聞かれた迫(さこ)というヤクザはこう言います。

迫「仲間割れつーか 長生きするための賭けかな 実愛会の駒でいれば遅かれ早かれあいつらと心中だ(……)時間が止まるなんて信じてなかった 止界のヤバさが解ってくるのに比例して 実愛会の危なさを実感した」(堀尾省太刻刻』第3巻、147頁*3

 迫らヤクザは、佑河家にとっては、自分たちを誘拐したり殺そうとしたりした許せない存在のはずですが、実愛会と戦って止界からもとの世界にもどるために一人でも「味方が欲しい」(同書148頁)ということで、佑河家は、迫らの協力の申し出を受け入れます。つまり、彼らはお互いに「生き残る」という共通する目的によって共働することになるのですね。このように、上記のキャラクターのうち、間島と、ヤクザの一部は、読者が感情移入しうるようなキャラクターとして描かれていて、内面を描写するようなコマも多いのです。また、教祖である佐河(さがわ)も、最大の悪役として、何を考えているかが細かく説明されますし、内面描写のコマも当然多い。唯一、佐河の教義を信じ、佐河に付き従う教団の信者のみが、最後まで雑魚扱いなのです。ただ、佐河の本当の目的を知り、裏切られたことを知って教祖佐河を殺そうとする宮尾という信者だけは、後半部分で少しだけ丁寧に描かれています(といっても作者は彼の内面を描写してはくれないのですが)。その宮尾に、ヤクザの迫が、主人公である佑河側に寝返ったことを打ち明けた時の、二人の会話が、第6巻にあります。セリフを引用してみます。

宮尾「理念が無いから信念もない……目先目先で……呆れますよ ほんと……!!」

迫「……理念とか アホか なんかキレイな言い方してんじゃねーよ 我欲だろが!」

宮尾「違いますよ 私利私欲で世界を支配する連中を潰すんです」

迫「で お前らがそいつらに取って代わるんだろ?」

宮尾「理念に従う限り そのような低俗な存在に堕ちることなどありえません」

迫「あのなあ 今の体たらくを見ろよ なんだよこれ 浅間山荘かよ 何人死んだか言ってみろよ この繰り返しがお前らの未来だよ」(中略)

宮尾「搾取の加担者が…… お前には止界に入る資格すら無いんだよ」

堀尾省太刻刻』第6巻、35-37頁)

 まあつまり、いわゆる「正義の暴走」に突っ込みを入れるセリフをヤクザである迫にさせてるんですね。だいたい、オウム真理教をすっとばしてなんで唐突に「浅間山荘」が出てくるのか、てところが謎なんですけど*4、というかここを読んだとき私はちょっと失笑してしまいました。「何人死んだか言ってみろ」とか偉そうに言ってますが、このヤクザたちこそ、何人殺したのか言ってみろ、て話です。何言ってんだ、と。

 「金のため」あるいは「過酷な世界で生き残るため」の行動は、たとえ殺人であろうとも、なんとなくぼんやりと「逞しさ」の現れとして、あるいは「必要悪」として、少なくとも理解できる行為として描かれる一方、「理念のため」あるいは「過酷な世界を良いものにするため」になんらかの行動をする人がひとたび殺人でも犯そうものなら、なぜかそれは、その人だけではなく、理念のために行動することそのものが「愚か」で「はた迷惑」である、ということの明白な証拠とされてしまうのです。つまり、「世直し」の人というのは、ヒーローではありえないことはもちろん、「悪役」ですらなく、悪役の引き立て役としての「キレイごとを抜かす愚か者」でしかないのですね。要するに「キレイな言い方してんじゃねーよ 我欲だろ」て(鬼の首でもとったように)言いたいがためだけのキャラクターなのではないか、と。どうも、今のニッポンには「そんなのキレイごとだ、と言いたい欲」があふれているような気がしてなりません。悪の蔓延より正義の暴走のほうがよっぽど嫌い、という空気が蔓延している、というか。ネット上では特にそのことを感じます。

 さて、もう一つ気になるのは、間島翔子の扱いです。彼女は、幼いころ佑河家の止界術に巻き込まれて何も知らないまま一家で止界に迷い込んでしまいます。そして、両親と兄は行方不明になり、ただ一人間島翔子だけが止界からもとの世界にもどることができたのです。大人になった間島は、止界について独自に調査して知識を得、佑河樹里の特殊な力を使えば家族を止界から救い出せることを知ります。そのため彼女は教団に接近し、教団を利用して佑河家に術を発動させ止界に入るのですが、当初は教団に真の目的を隠しています。

 結局、間島の家族は樹理の力によって救い出されるのですが、両親はすでに死亡していました。翔子が、変わり果てた両親の死体を抱きしめるシーンは、感動的に描かれています(『刻刻』第4巻、106頁)*5

 しかし、読者は、間島翔子の家族が止界に迷い込む直前の様子を、第2巻(45頁〜)で描かれる回想シーンで知っています。間島一家は、父親が運転する車で帰宅途中なのですが、後ろの座席で子供たちの兄弟げんかが始まります。運転していた父親はそれにいら立ち、赤信号で停車したとき後ろを向いて兄の頭を殴ります(ガツン、という擬音が書かれています)。「もうお前 こっから歩いて帰れ な 降りろホラ早く」と父親がいい、兄が頭を押さえてむせび泣いているシーンが描かれます。さらに、それをきっかけに今度は両親の夫婦げんかが始まります。ここに描かれているのは、大人から子供への暴力と、「我欲」でいがみ合う大人たちでした。どうしてこういうシーンが描かれたのでしょうか。そう、つまり、「家族」とは「キレイごと」ではない、というわけです*6。にもかかわらず、間島翔子は、周囲の人間たちに多大な犠牲を負わせてでも家族を取り戻そうとした。「家族」は、キレイごとではないが、にもかかわらず、というか、だからこそ、というか、何か価値を持ったもの(少なくとも、はた迷惑で愚かでしかない「世直し」などよりも)として描かれます。どうも、読者というのは「キレイごとではない理不尽な生存本能」のようなものが大好きであり、同様に「キレイごとではない理不尽な家族の絆」のようなものも大好き、ということが前提されている。だからこそ、このようなキャラクター設定、物語設定が好まれるのではないかな、と思ってしまうのです。

*1:kindle版で読みました。

*2プラネテスのポリティカ1〜3 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20090814/p1 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1 もう10年も前か…。

*3:頁数はkindle版。以下同様。

*4:まあ教祖が信者を殺した直後の場面だったので、内ゲバってことを言いたいのでしょうけど、唐突感はありますね。

*5:ちなみに間島の兄は、奇跡的に生きていて、止界から生還することになります。

*6:佑河家の中にも「キレイ」ではない部分が描かれています。

2017年04月02日

Belson液晶テレビDM16-B1用視野角問題改善スタンド工作

うちのテレビはBelson液晶テレビDM16-B1というものです。

Belson  16型 LED液晶 テレビ  DM16-B1   ブラック

Belson 16型 LED液晶 テレビ DM16-B1 ブラック

「Belson」というブランドですが、メーカーはオリオン電機です。2012年発売です。数年前確か1万円ぐらいで買ったのですが、とにかく安いものを探していて、こういっては何ですが機能は低いです。なんといってもHDMI端子がついておりません。したがって、HDDレコーダーとコンポジットケーブルでつないでいます(いまどきコンポジット出力端子のついているレコーダーもめずらしくなっているようです)。しかし、画質についてはそれほど不満はないです*1。あまりテレビ見ないですし、用途としては、極端な話、レコーダーにちゃんと録画されているか確認できればいい、という感じですので。

ちなみにこの機種には後継機種があり、2014年発売のもの(DM16-B3 ※これ以降はオリオン電機ブランドとなるようです)

2015年発売のもの(DMX161-B1)

などがあるようです。すべて外観はうちの古いタイプと全く同じですが、2015年発売のものはHDMI端子が(やっと)つきました。

ただ、問題は、このテレビのamazonカスタマーレビューで多くの人が言っているように、視野角が異様に狭い(特に上下方向)、ということです(カスタマーレビューを読むと、この症状は、2014年、2015年発売の後継機種でも変わっていないようです)。少し斜め下から見ると、画面が暗くなる、というかいわゆるソラリゼーションのような状態になる。しかも画面の角度を調整できない。うちではテレビを少し高い位置に置かざるを得ないので、非常に見にくいです。しかたないので、底面の後ろの部分にものをはさんで画面を前に傾けていたのですが、大きく傾けるとバランスを崩してテレビが前に倒れてしまうので、少ししか傾けられない。というわけで、ずっとイライラしていたのですが、簡単な工作をして問題解決しました。

まず、工作前の写真……は撮っていなかったので、こちらのサイトの写真(売り切れてしまった中古品の写真)を見てください。

工作材料は、ホームセンターでたしか300円ぐらいで買った黒い発泡スチロールの板と、黒いビニールテープのみです。発泡スチロール板をこのように切ります。

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この3つを黒いビニールテープでくっつけ、本体にも黒ビニールテープで固定しました。以上です。制作時間20分ぐらいでしょうか(あらかじめ段ボールで試作しましたが)。

こんな感じです。

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横から見るとどのぐらい傾いているかわかると思います。近くで見ると雑な作りが目立ちますが、遠目にはあまりわからないですし、画面がきれいに見えるようになって非常に満足しております。

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*1:きれいに見たいときは、中古で買った液晶プロジェクターでスクリーン(兼ロールカーテン)に映しています。

2017年03月24日

幻の再会

10年以上前、東京都多摩市に住んでいたころ、近くの川に冬になると飛来するカモたちを毎日のように観察していた時期がありました。特に、トモエガモというちょっとめずらしいカモを発見したときは興奮し、このブログやその前身の日記でも何回か書きました。神奈川に引っ越してからは、近くにカモもおらず、カモの観察はほとんどしなくなってしまいましたが、神奈川大和市の公園で久しぶりにカモの観察をしました。

で、これなのですが

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これを見たとき、一瞬「トモエガモ?!」と思ってしまいました。しかし……昔よくカモを観察していたころならば絶対しかなった間違いなのですが、これはコガモです(まあ、公園のウェブサイトに乗っている「この公園でみられる鳥」の中にトモエガモがあったということもあるのですが)。しかし、コガモトモエガモを間違えるなんて、たとえてみれば道におちていた1000円札と10000円札を見間違えるようなものです。しかし、コガモ、100円玉や10円玉よりはめずらしいかもしれませんが、500円玉ぐらいかもしれません(コガモごめん)。まあたしかに、似ているといえば似ているのですが、やはり全然違います。ちなみにトモエガモはこんな鳥です(2004年東京都多摩市で撮影)

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ネット情報によるとトモエガモは激減しているらしいので、10年前多摩市で観察できたのはやはり貴重な体験だったのかもしれません。

大和市の公園で観察したそのほかの水鳥の写真も紹介します。

ヒドリガモ

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後ろにいるメス、ちょうど鳴いているところで、非常にいい表情です。

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オオバン

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↓バン(まんなかの赤いくちばし。前にいるのはヒドリガモ

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カイツブリ

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↑潜水から上がったばかりで頭が濡れています

エナガ

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2017年03月03日

パット・メセニーと政治、その他

こんなものジャズじゃない!

 大学生のころ、開局したばかりのJ-WAVEをよく聴いていて、そこでパット・メセニー・グループの曲がしょちゅうかかっていたのだが、好きになれなかった。ジャズと言えばフォービート、という凝り固まったリスナーだったのだので、いわゆる「フュージョン」に対して、「こんなものジャズじゃない!」ぐらいの勢いで嫌悪していた時期があったのだ。しかし、だいぶあと、1990年代になってから、周りの人の影響やなんかで、「フュージョン」とひとくくりに敬遠していたいろいろな音楽を聞きなおし、そうした偏見は少しずつなくなっていった。ハービー・ハンコックの「アクチュアル・プルーフ」を友人に聞かせてもらって「なんだこれ?!」と思ったあたりからはじまり、チック・コリアのRTF、ジョン・スコフィールド、などにはまり、ウェザーリポートや電化マイルスのもの凄さを20年以上遅れて再確認した時期があった。

 それでもパット・メセニーはどうも今一つピンとこなかった。周囲のジャズファンにあまりにもてはやされているような気がして、それに対する反発もあったかもしれない。しかし数年前、いまさらもいいところだが、80年代あたりの全盛期のメセニー・グループも集中的に聴きなおした。……メセニーファンのみなさん、すいませんでした。やっぱりかっこいいと思いました。自分がどんどんフツーのジャズファンになって行くようで、それはそれで面白くないと思ったりもするが……。

こんなものアメリカじゃない!

 前置きが長くなったが、最近、パット・メセニーが、自身のfacebookに、ある投稿をした(https://www.facebook.com/PatMetheny/videos/10154416371239926/

 そこでパット(本人?)は、「Remember this song?(この曲覚えてるかい?)」というコメントだけを付けて、パットとデビッド・ボウイが競作し1985年に発表された「This is Not America(これはアメリカではない)」という曲のPVを貼り付けていた*1

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*1:この曲は、同年制作のアメリカ映画『コードネームはファルコン』(原題:The Falcon and the Snowman)の主題歌として作られた。パット(とライル・メイズ)は映画本編の音楽も担当しているようである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B3