パット・メセニーと政治、その他

こんなものジャズじゃない!

 大学生のころ、開局したばかりのJ-WAVEをよく聴いていて、そこでパット・メセニー・グループの曲がしょちゅうかかっていたのだが、好きになれなかった。ジャズと言えばフォービート、という凝り固まったリスナーだったのだので、いわゆる「フュージョン」に対して、「こんなものジャズじゃない!」ぐらいの勢いで嫌悪していた時期があったのだ。しかし、だいぶあと、1990年代になってから、周りの人の影響やなんかで、「フュージョン」とひとくくりに敬遠していたいろいろな音楽を聞きなおし、そうした偏見は少しずつなくなっていった。ハービー・ハンコックの「アクチュアル・プルーフ」を友人に聞かせてもらって「なんだこれ?!」と思ったあたりからはじまり、チック・コリアのRTF、ジョン・スコフィールド、などにはまり、ウェザーリポートや電化マイルスのもの凄さを20年以上遅れて再確認した時期があった。
 それでもパット・メセニーはどうも今一つピンとこなかった。周囲のジャズファンにあまりにもてはやされているような気がして、それに対する反発もあったかもしれない。しかし数年前、いまさらもいいところだが、80年代あたりの全盛期のメセニー・グループも集中的に聴きなおした。……メセニーファンのみなさん、すいませんでした。やっぱりかっこいいと思いました。自分がどんどんフツーのジャズファンになって行くようで、それはそれで面白くないと思ったりもするが……。

こんなものアメリカじゃない!

 前置きが長くなったが、最近、パット・メセニーが、自身のfacebookに、ある投稿をした(https://www.facebook.com/PatMetheny/videos/10154416371239926/
 そこでパット(本人?)は、「Remember this song?(この曲覚えてるかい?)」というコメントだけを付けて、パットとデビッド・ボウイが競作し1985年に発表された「This is Not America(これはアメリカではない)」という曲のPVを貼り付けていた*1

 問題は、それがトランプ新大統領の就任式が行われた1月20日だった、ということである。この投稿には、投稿から約一か月後の2月17日段階で、1.3万件の「いいね!」と970件のコメントが付き、6,526件シェアされている。
 ところで、前回のこのブログ(半年も前だが)で、日本における「音楽に政治を持ち込むな」論争、なるものを紹介した。

「音楽に政治を持ち込むな」「音楽を政治利用するな」。この夏、フジロック・フェスティバルに学生らの団体「SEALDs(シールズ)」の奥田愛基さんの出演が発表されると、こんな批判がネット上にわき起こり、大きな論争となった。

http://mainichi.jp/articles/20160705/dde/012/040/002000c

 さて、今回、パット・メセニーの「This is Not America」投稿につけられたコメントをちょっと覗いてみたのだが、予想通り、というか、アメリカ版「音楽に政治を持ち込むな」論争が繰り広げられていた。
 コメント欄には

  • ありがとうパット、この投稿をしてくれたことに、そして、新しいホワイトハウスの占領者に投票しなかった有権者の多数の感情を完璧にとらえてくれたことに感謝するよ。

というようなコメントもあるにはあるのだが、パットが政治的な投稿をしたことを批判する多くのコメントがついていた。その内容は、日本の「音楽に政治を持ち込むな」派の意見とそっくりで、笑ってしまった。以下、少し抜粋して訳してみる。

  • パット、あなたのファンだけど、私はあなたを少し見損なったよ。誰かがコメントしていたように、これはアメリカだ。平和的な権力の移譲だった。あなたは鏡でご自分の姿を見た方がいいのでは?
  • パット・メセニー……なぜ、なぜ、なぜあなたはこんなことをしなければならないの?私は40年間あなたの 超 フ ァ ン で、あなたの音楽をものすごく尊敬しています。私は、息子のコナー(今は写真の中でしか会えません)と、彼が21歳で亡くなるまで、ともにあなたの音楽を愛してきました。去年、彼の葬儀で「9月15日」*2を流しました。全てのアメリカ人が、平和的な権力の移譲を目撃した今日、あなたが、狭量で意地の悪い投稿をして、アメリカと我が国の制度の偉大さにケチをつけたことに、私はとても失望しました。これ が アメリカです、パット……わかっているでしょう。たとえあなたが選挙の結果を苦々しく思っていたとしてもです。あなたのファン層を大切にしてください。私たちがあなたのファンなのは、あなたが素晴らしい才能を持っているからであって、あなたの政治的な傾向によってではありません。
  • 愚かなコメントをしてファン層を遠ざけるバカな芸能人の道へと転がり落ちるのはやめた方がいい。あなたは音楽がすごいことによって名声を得たんだから。道をそれなさんな。
  • どうして美しい音楽作品が政治声明に変えられなきゃいけないんだ……アーティストの天才をただ賛美するだけじゃいけないのか?
  • パット、あなたの音楽は愛しています。でも謹んで申し上げるけど、私はあなたの政治には興味がないんです。あなたがこれを8年前に投稿したなら、同意しただろうけど。
  • パット・メセニーよ……それからあんたみたいな他の連中もそうだけど、何にもわかっちゃいないなあ……あんたたちの音楽はもう買わないよ……私の国は、あんたたちの社会主義思想より重要なんだ。
  • 今日は、どこに行っても政治論評から逃げられないのか?私は音楽を愛していて、政治を憎んでいる。その二つがパットのページで合体しているのを見るのは、本当にがっかりだ。

 というありさまである。もちろん、パットを擁護する声もある。

  • あなたの美しい音楽にずっと感謝しています。そして、政治に沈黙することをあなたに強要する人たちのことは、気にしないで。パット・メセニー……あなたはご自分の意見を表明する あ ら ゆ る 権利を持っています。そ れ が ア メ リ カ で す !
  • パットが政治的であることを批判するこんなにも多くのコメントを見るのは悲しいね。あなたたちは、パットや他の人が、有名であるがゆえに非政治的であるべきだとでも考えているの?

 まあ、これに関しては、パットが政治的振る舞いを(ほんのわずか)示しただけで、それを非難するこれほどまで多くの声が集まる、という現象こそが、まさに「政治的」としか言えないわけで、上のコメントの中にあった「あなたは鏡で自分の姿を見た方がいい」という言葉はそのままこれらの人たちに返したくなる。

アメリカはずっと「こんなもの」であった

 しかし、その問題は置いておいて、ここでは、パットとデヴィッド・ボウイの「This is Not America」という曲のタイトルについて少し考えてみたい。パットの曲名が、「こんなものはアメリカではない」というトランプ批判のメッセージになりうる、ということは、「トランプが大統領になるアメリカなんてアメリカではない」「そしてアメリカではないことは悪である」ということが前提されている。しかし、では、トランプ就任以前のアメリカは、はたしてどんなアメリカだったというのだろうか?
 たとえば「さようなら、オバマ「あなたは史上最悪の爆弾魔でした」」というこちらの記事には、こうある。

 つい先日、バラク・オバマ前大統領がこの2年間で5万発近い爆弾を世界中でばら撒いたことが、米外交問題評議会のサイトで明らかにされた。2016年は2万6171発、15年は2万3144発を投下した。1回の爆撃で複数の爆弾が落とされることや、発表されている国々以外への投下を考えれば、より増える可能性は高い。
 英国の調査報道ジャーナリスト協会のまとめでは、ブッシュ政権の8年間でパキスタンにおける無人機攻撃は51回、民間人を含む死亡者は少なくとも410人であった。一方、オバマ政権では373回、2089人となっている。イエメンやソマリアを追加すればさらに増える。
(……)数千人以上の民間人が死亡しているとするデータもある。内部告発によれば、13年の軍の報告書では「ある期間に200人以上を殺害したが、標的が正確だったのは35人だけだった。また、5カ月間の空爆で死亡した9割が意図した目標ではなかった」と報じている。

http://president.jp/articles/-/21210

 日本のメディアは、オバマの広島訪問を「平和」のイメージで飾りたて、美談のようにもてはやしたが、「無人機攻撃」という形態こそ目新しいものの、オバマ大統領のアメリカがやってきたことは、それ以前のアメリカがずっと行ってきた、「自衛」の名を借りた大量殺人、すなわち戦争である。これがアメリカである。悪い意味で。
 また、「実は新しくない、トランプ大統領の入国制限令」というこの記事では、

「これは私たち(の国)ではない"This is not who we are"」と言う人々は、考え直した方がいい。残念ながら、私たちの国は以前から変わっていないのだ。

http://jp.reuters.com/article/vanburen-immigration-idJPKBN15I0E6?pageNumber=2

 として、トランプ米大統領によるイスラム諸国からの入国制限令は、実は、911以後ずっと行われてきた措置の延長にすぎず、アメリカは常に「国民の恐怖を保ち、政府は国土を保護する任務を果たしている、という政治的な神話を維持する」ための排外主義的政策をとりつづけていた、と指摘している。
 ようするに、「こんなものはアメリカではない」の「こんなもの」が「トランプ(的なもの)」だとするなら、実際は、アメリカはずっと、その「こんなもの」だったわけである*3。 
 もちろん、トランプ以前のアメリカも「そんなもの」だったからといって、トランプが免罪されるわけではない。ただ、トランプが「悪い」のは、「アメリカ【ではない】から」ではなく、「それ」、つまり、「人種差別」「女性差別」「障害者差別」「爆弾魔」etc.【である】がゆえなのである。

日本はずっと「それ」であった

 そして、日本はどうだろうか、というと、トランプ顔負けの差別主義者の極右政治家石原慎太郎東京都知事になったのが、1999年。2000年の「三国人発言」、2001年の「ババア発言」をはじめとする数々の差別的暴言が明らかになっても、マスメディアはおおむね彼を「実行力のある政治家」のようにもてはやし、その後彼は4期14年も東京都知事であり続けた(動画参照)。

 また、トランプの入国制限令は大問題となったが、それを言うなら日本の場合、日本政府の入管政策自体が、最初から、このトランプのやり方をいわばもっと純化させたものであり続けてきたのである。

1940年代からいままで、外国人にたいする日本政府の考え方の基本は、変わっていません。それは、ひとつには「外国人には人権がない」という考え方です。もうひとつには、「外国人をどうあつかおうが、日本政府の自由だ」という考え方です。1965年に、法務省入国管理局参事官だった池上努は、自分の本で外国人は「煮て食おうが焼いて食おうが自由」だと書いています。
また、1978年には最高裁判所が、マクリーン事件判決という、事実上外国人に人権はないと言っているにひとしい判決を出しています。

https://praj-praj.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E-%E3%81%AB%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%94/%E5%AE%A3%E8%A8%80-%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%98%E3%82%8A/

 つまり、アメリカが、トランプ以前からずっと「そんなもの」であったとするなら、日本は、もっとあからさまに、ずっと「そんなもの」でありつづけてきたのだ。
 ところが、安倍政権に批判的な人々が「こんなものは日本ではない」と言ってしまう現象がやはりしばしばみられる。しかし、「こんなもの(安倍)は日本ではない」という命題は、容易に「日本はこんなもの(安倍)ではない」に転換する。つまりこの命題は、「こんなもの(安倍)」の「悪」を断罪するかに見えて、実は「日本」の「悪」を免罪し、それどころか逆に「善」として偽装するものなのである。戦争を賛美し準備する安倍「だけ」を叩くことで、「こんなもの(安倍)ではないもの」としての「平和国家日本」という虚像が生みだされる(それについては以前このブログでもとりあげたhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20140601/p1)。
 例えば、「音楽に政治を持ち込むな」論争で批判されたSEALDsにしても、安倍を批判しながらも、他方で、「私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します」とか、「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」などと言うことによって、虚像の「日本」を賛美しているのである。
 しかし、日本の「実像」はどうなのか。

 サルトルブルジョワヒューマニズムを、帝国主義新植民地主義、人種差別、女性差別侵略戦争などを隠蔽する、にせの普遍性に基づく特殊主義的イデオロギーだ、と言っていた。だが、これはまさしく「戦後民主主義」にもあてはまる。「平和」や「民主主義」といいながら、戦後日本は、侵略戦争と植民地支配の反省もなく、米軍基地を沖縄に集中させ、朝鮮戦争ヴェトナム戦争といったアメリカの帝国主義戦争に加担し、まやかしの「平和」の中で「経済発展」をとげた。また、在日朝鮮人差別、アイヌ差別、部落差別、女性差別、等々をまかり通してきた。それは今日でもまったく変わらず、日本は、「テロとの戦い」という名目のもとにアフガニスタンイラクへの侵略戦争を遂行したアメリカを一貫して支持し、自衛隊を派兵した。また、過去の侵略戦争と植民地支配に対する日本の責任を問うことを「自虐史観」「反日」などと非難する声はますます高まっている*4

 あなたは知らないんじゃない。知らないふりをしてるんだ。自衛隊海上保安庁といった軍隊をもってます。軍事同盟(安保)のもと、アメリカの侵略戦争に参加してきましたよね日本は。朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争。報道管制なんてあってもせいぜいザルみたいなもんだ。数年前の「不審船」事件。ビデオがテレビで延々流れたよね。海保、つまり日本軍が圧倒的な武力の行使によって相手の船員を皆殺しにした。植民地沖縄に集中する軍事基地による住民への被害。そこから出撃する軍隊。
 これが平和ですか? 戦争じゃないんですか?
 敗戦以降も、日本はずっと戦争をしてきました。それを否定するのは歴史修正主義です。安倍の「集団的自衛権」や憲法改正から「平和な日本」を守るっていうときの日本ってなんですか? 日本は今までずっと戦争してきた。これは事実です。議論の余地はありません。それを守るって、え、侵略体制を固定化するってこと?
 守るんじゃなくてつぶそうよ。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20160313/p1

 日本の場合、さらに問題なのが、安倍(的なもの)を批判する人が、しばしば「こんなもの日本じゃない」の「こんなもの」を中国や朝鮮になぞらえて「これではまるで○○だ」などと言ってしまうことだ*5
 しかし、トランプが「悪い」のは、「アメリカ【ではない】から」ではないのと全く同じく、安倍(的なもの)が「悪い」のは、「日本【ではない】から」でも、「まるで○○だから」でも、「漢字が読めないから」でもない。それは、歴史修正主義、戦争推進、原発推進、弱者切り捨てetc.【である】から「悪い」のである。また、安倍に敵対してさえいれば、自動的に「良いもの」になるわけでもない*6

*1:この曲は、同年制作のアメリカ映画『コードネームはファルコン』(原題:The Falcon and the Snowman)の主題歌として作られた。パット(とライル・メイズ)は映画本編の音楽も担当しているようである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B3

*2:2000年発表のPat Metheny & Lyle Mays "As Falls Wichita So Falls Wichita Falls"収録曲。9月15日はビル・エバンズの命日で、ビル・エバンズにささげた曲。

*3:ところで、さきに述べたように「This is Not America」は映画『コードネームはファルコン』のために作られた。私はまだ未見なのだが、この映画の内容については「なつかしの映画」というブログ記事が参考になったhttp://fanblogs.jp/tougai/archive/135/0。この映画は、1973年、クリストファー・ボイスという若い男が友人ドールトン・リーとともに、アメリカの軍事機密をソ連に売り渡したとして逮捕された、という実際にあった事件を映画化したものである。ボイスがそうした行動を行ったきっかけは、「ボイスは、そこで国家の安全保障の情報収集をしているとばかり思っていたCIAが実は外国の政治に介入し、暗殺や破壊活動、扇動などの汚い仕事ばかりやっていたことに怒りを覚えた。オーストラリアのホイットラム内閣が前代未聞の総督による解任にもCIAがかかわったことや、チリのアジェンデ政権をクーデターで倒したことや同僚の狂信的な反共主義には嫌悪感さえ覚えた(http://fanblogs.jp/tougai/archive/135/0より)」からだ、とのことである。この映画の内容を踏まえてパットが投稿をしたのだとすると、パットは「トランプ以前のアメリカは良いアメリカだった」と考えているわけではなさそうだ。また、上記ブログによると、「This is Not America」とう主題曲のタイトルは、「最後のほうでメキシコ警察に捕まったリーが「俺はアメリカ人だ」と叫び、相手の警官が「ジスイズノットアメリカ」と言い返す」ところから来ているそうだ。この言葉を言ったのがメキシコの警察官である、ということもおそらく何かを示唆しているのだろう。この映画はまだ観ていないのだが、そのうち観てみようと思う。

*4:サルトルの知識人論と日本社会──サルトルを乗り越えるということ(永野潤)」『サルトル読本』法政大学出版局、2015年、p.153。http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15069-2.html ちなみに、この後にはこう続く。「では、今日では消滅したとされる「サルトル的知識人」の代わりに「残ったもの」、とは何か。それは、「サルトル的普遍的知識人は終焉した」とうそぶきながら、異議申立ての力を自ら放棄し、「非政治的人間」「不可知論者」に居直って「研究」(その中には「サルトル研究」も含まれる )にいそしむ、「知の技術者」たちである。またそれは、支配層の奉仕者の役割を自ら買って出、自分の技術的知識を駆使して、未曾有の原発事故の被害を過小評価しようとする「番犬」たちである。さらにはそれは、にせの普遍性の観点から「テロにも戦争にも反対」「いかなる国のナショナリズムにも反対」などという(支配権力にとって)無害な「にせの異議申立て」を行う、「にせの知識人」である。」

*5:例えば http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/190580

*6:私はこのように最初から考えていたわけではない。「フュージョン」の見方を少しずつ変えたのと同じように、周囲の人の影響で少しずつ考え方を変えてきたという自覚がある。